
日本の歴史年表【中学生向け・わかりやすい】人物・出来事・制度を時代順に
縄文時代から現代(令和)まで、日本の歴史に登場する主要な人物・出来事・制度・文化を時代順にならべた年表です。中学生の歴史学習・定期テスト・受験対策に。全953項目(人物110・出来事259・制度295・文化150…)を、時代ごとに古い順で確認できます。上の種別ボタンで「人物だけ」「出来事だけ」に絞り込め、時代ジャンプで見たい時代へ一気に移動できます。
年表で流れをつかんだら、一問一答で定着させましょう。
歴史年表ポスターの無料ダウンロード(中学生・高校受験)
この歴史年表は、ポスター(PDF)を無料でダウンロード・印刷できます。中学生の定期テストや高校受験の暗記対策に、壁に貼って毎日ながめるのがおすすめです。A3の全体年表・時代別・人物・出来事など、目的に合わせて選べます。
この年表を1枚にまとめた印刷用ポスターです。全体をつかむA3版(標準・詳細)と、時代ごとに1枚のA4版があります。すべて無料でダウンロード・印刷できます。
年号のらんを空欄にした書き込み式(穴うめ)の年表シートです。できごとを見て「何年か」を自分で書きこむことで、年号がしっかり定着します。中学生の定期テスト・高校受験対策や、語呂合わせと組み合わせた暗記におすすめです。答え合わせ用の年号入り版もセットです。すべて無料で印刷できます。
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覚えておきたい重要年号の語呂合わせ・覚え方
テストや入試でよく問われる重要年号25個を、語呂合わせ(覚え方)つきでまとめました。上の年表で流れをつかんだら、この語呂合わせで年号を一気に暗記しましょう。すべて時代の古い順にならんでいます。
さらにくわしい一覧・数字の読み替え表・覚え方のコツは → 歴史年号の語呂合わせ・覚え方一覧
| 年号 | できごと | 語呂合わせ(覚え方) |
|---|---|---|
| 645年 | 大化の改新 | 無事故(む・し・ご=645)の世をめざす大化の改新 |
| 710年 | 平城京へ都うつり | なんと(710)大きな平城京 |
| 794年 | 平安京へ都うつり | 鳴くよ(な・く・よ=794)うぐいす平安京 |
| 894年 | 遣唐使の停止 | 白紙(は・く・し=894)にもどす遣唐使 |
| 1185年 | 鎌倉幕府の成立 | いい箱(11・85)つくろう鎌倉幕府 |
| 1192年 | 源頼朝が征夷大将軍 | いい国(11・92)つくろう鎌倉幕府 |
| 1221年 | 承久の乱 | 人に不意(ひと・に・ふ・い=1221)の承久の乱 |
| 1333年 | 鎌倉幕府の滅亡 | 一味(いち・み)散々(1333)鎌倉幕府 |
| 1467年 | 応仁の乱 | 人の世むなし(14・67)応仁の乱 |
| 1543年 | 鉄砲の伝来 | 以後予算(い・ご・よ・さん=1543)かさむ鉄砲伝来 |
| 1549年 | キリスト教の伝来 | 以後よく(15・49)広まるキリスト教 |
| 1573年 | 室町幕府の滅亡 | 以後なみだ(い・ご・な・み=1573)の室町幕府 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦い | ヒーロー(16)おおぜい(00)関ヶ原 |
| 1603年 | 江戸幕府を開く | 一路(16)おさ(03)める江戸幕府 |
| 1853年 | ペリー来航 | いやでござんす(18・53)ペリー来航 |
| 1867年 | 大政奉還 | いやむな(18・67)しく大政奉還 |
| 1877年 | 西南戦争 | いやな々(いや・なな=1877)西南戦争 |
| 1889年 | 大日本帝国憲法 | いちはやく(1889)発布された憲法 |
| 1894年 | 日清戦争 | 人は苦心(ひと・は・く・し=1894)の日清戦争 |
| 1904年 | 日露戦争 | 行くわよ(19・04)日露戦争 |
| 1914年 | 第一次世界大戦 | 行く意志(19・14)で第一次世界大戦 |
| 1923年 | 関東大震災 | 行く兄さん(19・23)関東大震災 |
| 1931年 | 満州事変 | 行く際(19・31)に満州事変 |
| 1945年 | 終戦 | 行くよGO(19・45)、戦争が終わる |
| 1956年 | 国際連合に加盟 | 行くころ(19・56)国連加盟 |
紀元前2500年頃、インダス川流域で栄えた古代文明をインダス文明といいます。インダス川流域には、計画的に建設された都市であるモヘンジョ・ダロやハラッパなどの遺跡が残されています。この文明では、整った下水道や公衆浴場などの…
紀元前2500年頃、アジアのインダス川流域で栄えた文明で使用されました。この文字は、主に印章(印鑑)などに刻まれて残されています。発見から長い年月が経ちましたが、現在も解読されていない謎の文字です。
インダス文明は、現在のインドやパキスタンにあたるインダス川の流域で栄えた古代文明です。この文明では、モヘンジョ・ダロなどの計画的な都市が建設され、上下水道などが整備されていたことが特徴です。遺跡からは印章が多く発見されて…
モヘンジョ・ダロは、紀元前2500年頃にインダス川流域で栄えた文明の代表的な都市遺跡です。この都市は、整然とした道路や下水道、レンガ造りの建物などが整備された計画的な都市として知られています。遺跡からは文字が刻まれた印章…
紀元前1600年ごろの中国で栄えた殷王朝において、漢字の原型が誕生しました。当時の人々は、亀の甲羅や動物の骨に文字を刻んで占いに用いており、これを甲骨文字と呼びます。黄河流域で生まれたこの文字は、のちに現在の漢字のもとに…
紀元前16世紀ごろ、中国の黄河流域で栄えた殷という王朝で使われていました。占いを行うために、亀の甲羅や動物の骨に文字を刻み込んだのが特徴です。この文字は、現在私たちが使っている漢字の原型になったとされています。
紀元前3世紀、戦国時代の争乱を終わらせて中国を初めて統一した人物が始皇帝です。始皇帝は北方の遊牧民の侵入を防ぐために万里の長城を修築し、自身の墓の近くには兵馬俑と呼ばれる陶製の人形を埋葬させました。始皇帝は全国を支配する…
万里の長城は、北方の遊牧民族の侵入を防ぐために築かれた大規模な防衛施設です。中国を初めて統一した秦の始皇帝が、各地の防壁をつなぎ合わせて修築・整備しました。敵の襲来をいち早く知らせるために、火をたいてのろしを上げる役割も…
パレスチナで生まれたイエスは、神の愛と隣人愛を説いてキリスト教を広めました。迫害を受けたキリスト教は、313年にミラノ勅令によって公認され、のちにローマ帝国の国教となりました。キリスト教の聖典である新約聖書には、救済を求…
7世紀のアラビア半島で、ムハンマドが唯一の神アッラーから受けた啓示に基づいて創始した宗教をイスラム教といいます。ムハンマドは、アラビア半島のメッカで生まれ、そこを拠点としてイスラム教を広めました。日本で最初の元号である大…
紀元前5世紀頃のアテネでは、成人男性の市民が直接政治に参加する民主政が行われました。国政の重要事項は、市民全員が参加する民会という会議で決定されていました。この時代の高度な政治は、労働力として支えていた奴隷制の上に成り立…
アフリカ大陸を流れるナイル川の定期的な氾濫によって、肥沃な土地がもたらされ文明が発展しました。川の氾濫時期を知るために天文学が発達し、太陽を基準とした太陽暦が作られました。エジプト文明では、ヒエログリフと呼ばれる象形文字…
チグリス川とユーフラテス川の流域で、世界最古の文明の一つであるメソポタミア文明が栄えました。この地域では、粘土板に刻まれるくさび形文字が発明され、記録や取引に使われました。高度な数学的知識により60進法が使われ、月の満ち…
アフリカ北東部のナイル川流域では、定期的な氾濫によって肥沃な土地が広がり、古代のエジプト文明が発展しました。川の増水時期を予測するために天文学が発達し、1年を365日とする太陽暦が作られました。この文明では象形文字が使わ…
マチュピチュは、南アメリカのアンデス山脈を中心に栄えたインカ帝国によって築かれた都市遺跡です。この遺跡は、接着剤を使わずに石を積み上げる高度な石造建築技術が用いられていることで知られています。インカ帝国は、16世紀前半に…
メソポタミア文明は、西アジアのチグリス川とユーフラテス川の流域で栄えました。この文明では、粘土板に葦の茎を押し付けて刻む楔形文字が使われました。社会の秩序を保つためにハンムラビ法典が編纂され、60進法などの高度な知識も発…
チグリス川とともに、古代のメソポタミア文明が栄えた流域にある川です。この地域では、粘土板に刻まれるくさび形文字が発明されました。高度な知識により、60進法や太陰暦などの制度が作られました。
中国文明は、主に黄河や長江の流域を中心に発展しました。占いの結果などを記録するために使われた甲骨文字は、現在の漢字のもととなりました。中国文明では青銅器がつくられるなど、高度な技術をもつ都市文明が形成されました。
中国の殷王朝では、王が占いを行い、その結果を政治に反映させていました。占いの結果は、亀の甲羅や動物の骨に刻まれ、これが甲骨文字の起源となりました。甲骨文字は、現在の漢字の原型となった、中国で発見された最古の文字です。
メソポタミア文明は、チグリス川とユーフラテス川の流域で発達しました。太陰暦は、月の満ち欠けの周期をもとにしてつくられた暦です。メソポタミア文明では、粘土板にくさび形文字を刻んで記録を残しました。
岩宿遺跡で打製石器が発見されたことにより、日本列島に人類が住んでいたことが初めて証明されました。岩宿遺跡の発見によって、土器が使われる前の旧石器時代という歴史区分が日本でも確認されました。この重要な遺跡は群馬県に位置して…
土器が使われる前の時代である旧石器時代に、狩りや採集のために使われていた道具です。群馬県にある岩宿遺跡で発見されたことにより、日本列島に人類が住んでいたことが証明されました。石を打ち砕いて作られたこの道具は、のちの縄文時…
群馬県の岩宿遺跡で打製石器が発見されたことで、日本にもこの時代が存在したことが証明されました。この時代の人々は、石を打ち砕いて作った打製石器を使用して狩りや採集を行っていました。この時代はまだ土器が作られておらず、人々は…
漢の時代に中国と西アジアや地中海地域を結んだ陸上の交易路をシルクロードと呼びます。唐の時代には、この交易路を通じて優れた文化や工芸品が日本にももたらされました。エルサレムの奪還を目指した十字軍の遠征は、結果として東西の文…
チグリス川とユーフラテス川の流域で栄えたメソポタミア文明において、楔形文字が発明されました。楔形文字は、やわらかい粘土板に、葦の茎などを押し当てて刻まれた特徴的な形状の文字です。メソポタミア文明では、楔形文字のほかに、月…
紀元前16世紀ごろ、中国の黄河流域で興ったとされる最古の王朝が殷です。殷では、亀の甲羅や動物の骨に刻まれた甲骨文字が使われていました。殷で使われていた甲骨文字は、現在の漢字の原型になったとされています。
漢の時代には、北方の遊牧民族の侵入を防ぐために、秦の時代から続く万里の長城が整備されました。漢の時代に開かれた、中国と西アジアや地中海地域を結ぶ交通路をシルクロードと呼びます。日本の歴史において、倭の奴国王が金印を授かっ…
アフリカ北東部のナイル川流域で発展した古代文明において使用されました。ヒエログリフとも呼ばれ、物の形をかたどって作られた文字です。川のはんらん時期を知るために発達した天文学に基づき、1年を365日とする太陽暦が併用されて…
家畜を連れて水や草を求めて移動する生活を送る人々を遊牧民と呼び、主に乾燥した草原地帯で活動しました。中国の秦の始皇帝は、北方の遊牧民の侵入を防ぐために大規模な防壁を修築しました。漢の時代にも整備された万里の長城は、遊牧民…
紀元前8世紀頃の古代ギリシャでは、アテネやスパルタといった都市国家が各地に形成されました。都市国家では、奴隷制の上に成り立っていたものの、市民による民主政治が行われていました。同時期のインダス川流域では、モヘンジョ・ダロ…
黄河流域で発展した中国文明では、祭祀などのために青銅器がつくられ、あわせて甲骨文字が使用されました。日本では、縄文時代のあとの弥生時代に、大陸から伝わった青銅器が祭りの道具として使われるようになりました。日本の歴史におい…
四大文明は、いずれも大きな河川の流域にある肥沃な土地で発生しました。メソポタミア文明では楔形文字が使われ、エジプト文明ではピラミッドが建設されました。農耕によって収穫が増えると、都市が作られ、王が支配する国家へと社会が発…
新石器時代には、磨製石器の使用や農耕と牧畜が始まり、人々の生活が狩猟・採集から大きく変化しました。食料を蓄えるようになったことで人々は定住生活を送るようになり、各地に集落が作られるようになりました。生活の安定により食料に…
エジプト文明において、ピラミッドはファラオと呼ばれる王の墓として建設されました。古代エジプトでは、毎年決まった時期に氾濫するナイル川の恵みを利用して農業が発展しました。古代エジプト人は、石碑やパピルスに記録を残すためにヒ…
古代インドで、修行のすえに悟りを開いたシャカが仏教をひらきました。仏教の教えは、のちに経典としてまとめられ、アジアの各地へと伝わっていきました。6世紀半ば、百済の聖明王によって日本に仏教が伝えられ、しだいに広まっていきま…
7世紀初めにメッカでムハンマドによって開かれたイスラム教は、その教えを記した聖典コーランを大切にしています。共通の信仰を持つ信者の共同体であるウンマが作られ、その後イスラム教は周辺地域へ急速に広がりました。イスラム教の信…
孔子は、親への孝行や人間愛を重んじる儒教という教えを説きました。孔子の死後、彼の弟子たちが教えをまとめた書物は論語と呼ばれています。孔子は、争いが絶えなかった中国の春秋戦国時代に、理想的な政治や社会のあり方を説いて回りま…
中国の春秋時代に孔子が説いた教えで、家族のきずなや礼儀を大切にすることを何と言いますか。前漢の時代に武帝によって統治のための中心的な学問として採用され、東アジアへ広がりました。日本には6世紀頃、朝鮮半島の百済から仏教とと…
ローマ帝国は、地中海周辺の広大な地域を支配し、パクス=ロマーナと呼ばれる平和と繁栄の時代を築きました。初代皇帝として独裁政治の基礎を固めた人物はアウグストゥスです。弾圧されていたキリスト教は、後に帝国で公認され、やがて国…
1877年、アメリカの動物学者であるエドワード・モースが来日し、東京の近くで大森貝塚を発見しました。大森貝塚の調査は、日本で初めて科学的な手法を用いて行われた考古学の調査として知られています。大森貝塚からは、当時の人々の…
エドワード・モースは、東京の大森貝塚を発掘し、日本で本格的な考古学調査を行いました。彼は、出土した土器にある縄目模様から、その文化を縄文土器と名付けました。来日したエドワード・モースは、東京大学で教鞭をとるなど日本のお雇…
縄文時代に作られた、主に女性をかたどった土製の像を土偶という。土偶は、豊かな収穫や安産を祈るまじないや、病気やけがの回復を願う儀式に用いられたと考えられている。土偶は、古墳時代に作られた埴輪と対比されることが多く、山形県…
竪穴住居は、約1万年前から始まった縄文時代に多く見られ、地面を掘りくぼめて柱を立て、屋根をかけた構造の住居である。縄文時代の人々は、竪穴住居に住み、主に狩猟や採集、漁を中心とした定住生活を営んでいた。青森県にある三内丸山…
縄文土器は、表面に縄目のような模様がつけられていることが特徴で、この土器が使われた時代を縄文時代と呼ぶ。縄文土器は、狩りや採集で得た食料を煮炊きしたり保存したりするために使われ、人々の定住生活を支えた。縄文土器が使われた…
縄文人が食べた食べ残しのゴミなどを捨てた場所として貝塚が形成されました。貝塚の中からは縄文土器や骨などの当時の生活のあとが見つかり、歴史を知る手がかりとなります。東京都にある大森貝塚は、アメリカのモースによって発掘調査さ…
縄文時代の人々は、自然界にある木の実や貝などをとる採集のほかに、狩猟や漁労を行うことで食料を確保していました。食料を求めて移動しつつ、採集を行いやすい場所には竪穴住居をつくり、村のような集落を形成していました。食べ終わっ…
縄文人は、骨で作った釣り針や銛を使用して、海や川で魚を捕らえていました。海岸近くの低地などでは、食べたあとの魚の骨などが集まった貝塚が多く発見されています。縄文時代は木の実の採集だけでなく、狩猟や漁労を組み合わせることで…
縄文時代には弓矢が普及し、遠くから獲物を射る狩猟の技術が大きく向上しました。青森県の三内丸山遺跡などから弓の破片が出土し、当時の人々の生活を知ることができます。弓矢のほかに、海や川で魚をとるための骨角器や釣り針などが併用…
旧石器時代の打製石器に対し、縄文時代では石を磨いて作られる磨製石器が使われ、特に石斧としての利用が一般的でした。縄文時代の人々は、木の伐採や加工を行うために、磨製石器の一種である石斧を道具として活用しました。磨製石器の登…
57年に九州の小国の王が、後漢の光武帝に使節を派遣して贈り物を受け取りました。江戸時代に福岡県の志賀島で発見されたと伝えられる金印には、「漢委奴国王」と刻まれています。この事実は、中国の歴史書である『後漢書』東夷伝の中に…
卑弥呼は、3世紀ごろに日本にあった邪馬台国の女王です。人々をまとめる力が強く、政治だけでなく、占いやまじないも行っていたと伝えられています。 卑弥呼については、中国の歴史書である魏志倭人伝に記録が残されています。 ま…
3世紀頃、邪馬台国の女王である卑弥呼は、中国の王朝である魏に使者を送りました。魏の皇帝から親魏倭王の称号と金印を授かることで、倭国における支配の正当性を得ようとしました。この出来事は、中国の歴史書である魏志倭人伝の中に記…
1世紀に日本の奴国の王が後漢の光武帝に使者を送り、その返礼として金印を授けられました。後漢から授けられたとされる「漢委奴国王」と刻まれた金印は、福岡県の志賀島で発見されました。弥生時代の日本は、後漢をはじめとする中国の王…
1世紀に倭の奴国の王が光武帝から授かったとされる金印についての記述が残されています。後漢書東夷伝には、当時の日本(倭)が百余りの小国に分かれていた様子が記されています。弥生時代の日本の状況を知るための重要な歴史書として、…
福岡県の志賀島で発見された金印は、当時の日本と中国との外交関係を示す重要な資料です。この金印は、弥生時代の奴国の王が中国の後漢の皇帝である光武帝から授けられたとされています。金印が作られた紀元1世紀頃のヨーロッパでは、地…
弥生時代には、祭礼の道具である銅鐸や銅鏡が、指導者の地位の高さを示す象徴として用いられました。稲作が普及して富や権力に差が生まれると、地域をまとめるクニや王といった指導者が現れるようになりました。倭の指導者は、中国の皇帝…
弥生時代に大陸から伝わった銅鐸や銅鏡などの青銅器は、実用品ではなく主に祭具として使われました。武器や農具として実用された鉄器に対し、青銅器は祭祀や儀式のための道具として使い分けられました。これらの祭具は、集落の人々が豊作…
弥生時代に大陸から伝わった銅鐸や銅剣などの青銅器は、武器としてよりも、主に祭祀や儀式の道具として用いられました。ムラの人々は、豊作を祈るなどの祭りを通じて、共同体の結束を強めるために祭祀を行いました。弥生時代には、祭祀を…
弥生時代に大陸から稲作とともに伝えられた金属器は、日本の社会を大きく変化させました。硬度が高い鉄器は、農具の刃先や武器、工具として実用的に用いられ、生産力の向上に大きく貢献しました。一方、銅鐸や銅鏡などの青銅器は、主に祭…
弥生時代に大陸から伝わった金属器の技術によって、銅剣や銅矛が作られるようになりました。これらの青銅器は、実用品としてではなく、主に祭祀や儀式で用いられる道具として発展しました。銅剣や銅矛は主に近畿地方から九州にかけての地…
弥生時代に作られた釣鐘状の青銅器である銅鐸は、主に豊作を祈るなどの祭りや儀式で使われました。大陸から伝わった金属器の技術を用いて作られ、稲作の普及とともに社会の祭祀において重要な役割を果たしました。銅鐸は日本各地で出土し…
弥生時代に収穫した稲を、湿気や害獣から守るために造られた貯蔵用の建物です。床を高くするだけでなく、柱にネズミ返しを取り付けることで、ネズミの侵入を防ぐ工夫がされていました。佐賀県にある吉野ヶ里遺跡などの環濠集落では、こう…
弥生土器が最初に見つかった場所である東京都の弥生町にちなんでこの名称が付けられました。縄文土器と比べて薄くて丈夫に作られており、煮炊きに適した高温で焼かれたのが特徴です。稲作の普及とともに、収穫した米を貯蔵したり調理した…
弥生時代に大陸から伝わった銅鏡は、当時の首長が権威を示すための貴重な宝物として使われました。北部九州を中心とした地域では、中国から伝わった漢鏡が数多く出土しています。銅鏡は当時の人々の祭りにおいて、神をまつるための神聖な…
弥生時代の銅剣などの青銅器は、武器としてではなく主に祭りの道具として使われていました。銅剣は主に近畿地方を中心とする東日本で多く発見されています。西日本では銅鐸が、九州地方では銅矛や銅戈が主に副葬品として使われていました。
弥生時代に作られた環濠集落は、村の周囲に濠をめぐらせて敵の侵入を防ぐ役割がありました。佐賀県にある吉野ヶ里遺跡は、環濠集落の中でも大規模で、高床倉庫や物見やぐらなどが復元されています。集落が防御を強めた背景には、稲作の普…
登呂遺跡は現在の静岡県に位置し、当時の水田を中心とした集落の姿がよく残されています。低湿地を利用したこの遺跡からは、木製の農具であるすきやぐわが出土し、当時の稲作技術の高さがわかります。登呂遺跡には、住居のほかに穀物を蓄…
弥生時代の57年に、奴国の使者が後漢の皇帝から金印を授かりました。奴国に関連する金印は、江戸時代に志賀島で発見されたと伝えられています。金印には「漢委奴国王」と刻まれており、これは委の奴国の王が漢の皇帝から認められたこと…
ワカタケル大王は、中国の歴史書に記された倭王武と同一人物であると考えられている雄略天皇のことです。埼玉県にある稲荷山古墳から出土した鉄剣や、熊本県にある江田船山古墳から出土した鉄刀に、その名が刻まれています。これらの出土…
6世紀半ば、百済の聖明王が日本の欽明天皇に仏像や経典を贈り、仏教が公式に伝えられました。仏教の受け入れに賛成した蘇我氏と、古くからの神々をまつる立場から反対した物部氏が激しく対立しました。のちに聖徳太子が仏教を深く信仰し…
3世紀後半から奈良盆地を中心に成立したヤマト政権において、各地の豪族を従えた最高権力者は大王と呼ばれました。埼玉県や熊本県の古墳から出土した鉄剣に刻まれたワカタケル大王の名から、当時の勢力が九州から関東まで及んでいたこと…
前方後円墳は、円形と方形を組み合わせた鍵穴のような形をした、古墳時代を代表する日本独自の古墳です。大阪府堺市にある大仙古墳(大山古墳)は、世界遺産にも登録された日本最大の前方後円墳です。近畿地方から離れた各地で前方後円墳…
5世紀頃、ヤマト王権の王たちは朝鮮半島での軍事的な指揮権や地位を認めさせるために中国へ使者を送りました。ヤマト王権が使者を派遣した中国の王朝は、当時の中国大陸で分裂していた南朝です。この時期に中国へ朝貢を行ったヤマト王権…
ヤマト王権の支配力が広がるにつれ、近畿地方から全国へ前方後円墳などの巨大な墳墓が作られるようになった。古墳には権威を示す銅鏡などの副葬品が納められ、その周囲には土製の焼き物である埴輪が並べられた。大阪府にある大仙古墳は日…
大仙古墳は、円形と方形を組み合わせた鍵穴のような形をした前方後円墳であり、日本最大規模の古墳です。この古墳は現在の大阪府堺市に位置しており、百舌鳥・古市古墳群を構成する代表的な遺跡の一つです。大仙古墳は、その歴史的価値が…
4世紀から7世紀にかけて、近畿地方を中心に勢力を広げたヤマト王権の首長として君臨した称号です。大阪府にある日本最大級の大仙古墳は、この称号を持つ人物の墓であると考えられています。古墳の周囲に並べられた埴輪などの副葬品は、…
埼玉県にある稲荷山古墳から出土した鉄剣には、金象嵌でワカタケル大王の名が刻まれている。稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から同じ大王の名が刻まれた鉄剣が出土したことは、ヤマト政権の支配力が九州から関東まで及んでいたことを示…
古墳時代に輸入された鉄は、丈夫な鉄製農具として農業生産力を高め、武器としても使われました。ヤマト王権は、朝鮮半島南部から安定して鉄を確保するために、中国の南朝へ使者を派遣しました。倭の五王は、中国の皇帝から軍事的な指揮権…
埼玉県にある稲荷山古墳から出土した鉄剣は、ヤマト政権の支配力が関東地方まで及んでいたことを示す重要な資料です。鉄剣に金象嵌で刻まれているワカタケル大王は、当時のヤマト政権の最高権力者である雄略天皇のことだと考えられていま…
5世紀ごろ、朝鮮半島の百済などから多くの人々が日本へ移り住み、様々な技術を伝えました。彼らは大陸から漢字や儒教などの学問、また新しい土器作りや土木技術を日本にもたらしました。6世紀には、百済の王から仏教が公的に伝えられ、…
5世紀ごろ、百済の博士である王仁によって、漢字とともに日本に伝えられました。儒教伝来によって、孔子の教えである論語などの儒教の教えが日本に広まりました。儒教伝来は、その後の日本の政治や道徳の考え方に大きな影響を与えました。
百済の王仁という人物が、『論語』や『千字文』を日本に伝えたとされています。熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀の銘文には、漢字が刻まれていました。漢字の伝来によって、日本の朝廷では文字を用いた記録や外交文書の作成が行われ…
推古天皇は、有力豪族の蘇我馬子と協力し、甥である聖徳太子を摂政として登用して政治を行いました。天皇を中心とした国づくりを目指し、才能や功績で役人を登用する冠位十二階や、役人の心得を示した十七条の憲法を制定しました。中国の…
聖徳太子は、家柄にとらわれず才能や功績のある人物を役人として登用するために冠位十二階を定めた。聖徳太子は、役人が守るべき道徳や政治の心得として十七条の憲法を制定した。役人に対して天皇の命令に従うことや和を尊ぶことを説き、…
聖徳太子が、役人としての心構えや道徳を示すために制定した法令です。第一条で「和を以て貴しと為す」と説き、争いを避けて協力することを求めました。天皇への服従や仏教・儒教の教えを取り入れ、政治の指針としました。
607年の遣隋使派遣の頃、法隆寺が建てられるなど日本で最初の本格的な仏教文化がこの地を中心に栄えました。7世紀後半、壬申の乱に勝利した天武天皇は、この地に都を戻して天皇を中心とする強力な国づくりを進めました。この時期の文…
飛鳥文化は、7世紀前半の聖徳太子や蘇我氏が活躍した時期に栄えた、日本で最初の本格的な仏教文化です。中国の南北朝時代や朝鮮半島、さらにはインドや西アジアなど、海外の進んだ文化の影響を強く受けた国際色豊かな文化です。聖徳太子…
蘇我氏をたおしたのち、天皇を中心とした新しい国づくりがすすめられました。壬申の乱に勝利した天智天皇や天武天皇は、天皇を中心とする国家の建設を強力に進めました。中国の隋や唐の制度を手本として、古代日本で編纂・施行された律令…
663年、日本は友好関係にあった百済の復興を支援するため、朝鮮半島へ出兵して唐・新羅連合軍と戦いました。日本は唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島での拠点を失ったため、唐や新羅による日本への侵攻を強く警戒するようになりました…
663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本は、侵攻に備えて防衛を強化しました。九州の大宰府を守るために、その北側に大規模な土塁と堀からなる水城が築かれました。築城には渡来人の高度な技術が活用され、地下には木製の導…
6世紀半ば、朝鮮半島の百済から日本へ仏教が正式に伝えられました。663年、日本は滅亡した百済を復興させるため援軍を送りましたが、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北しました。百済から日本へ渡ってきた渡来人は、高度な技術や…
7世紀、日本(倭国)は友好国であった百済を助けるために、朝鮮半島へ援軍を派遣しました。663年、百済復興を目指した日本軍は、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。この戦いの敗北により、日本は朝鮮半島での拠点を失い…
中大兄皇子として蘇我氏を倒し、天皇中心の政治を目指す改革を始めました。近江大津宮へ都を移し、日本で初めて全国的な戸籍を作成して統治を強化しました。天智天皇の没後、その後継をめぐって壬申の乱という大規模な内乱が起こりました。
672年に発生した壬申の乱は、天智天皇の死後にその後継をめぐって起きた内乱です。この争いは、天智天皇の子である大友皇子と、天皇の弟である大海人皇子の間で繰り広げられました。勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、天皇中…
三宝とは、仏教における仏・法・僧の三つの宝を指す言葉です。聖徳太子が制定した十七条の憲法の中で、役人が守るべき規範として三宝を敬うことが説かれました。三宝の崇敬は、天皇の命令に従うことと並んで、当時の役人の心得として重視…
飛鳥時代に聖徳太子が建立したとされる寺院です。現存する木造建築物としては世界最古のものです。奈良県の法隆寺は、当時の仏教文化を伝える貴重な遺産です。
飛鳥時代に聖徳太子が制定した、役人の心得を示す最初の成文法が十七条の憲法です。十七条の憲法の第一条では、争いを避けて協力し合うことを意味する「和を以て貴しとなす」という精神が説かれました。この憲法には、仏教の尊重や儒教の…
中大兄皇子が即位した天智天皇は、唐や新羅の攻撃に備えて都を大津宮へ移しました。大津宮で政治を行った天智天皇は、日本で最初となる全国的な戸籍である庚午年籍を作成しました。大津宮への遷都は、天皇中心の法に基づく律令国家の基礎…
聖徳太子は、家柄にとらわれず個人の才能や功績で役人を登用するため冠位十二階を制定しました。それまでの朝廷では、有力な豪族が家柄によって高い地位を独占する仕組みが続いていました。この制度により、個人の能力を重視する中央集権…
飛鳥時代に聖徳太子によって建立された、日本を代表する仏教寺院です。この寺院は、現存する世界最古の木造建築物群として世界的に知られています。この建築物は、当時の飛鳥文化を象徴する重要な歴史的遺産です。
法隆寺は、7世紀初めに聖徳太子によって建立されたと伝えられています。この寺院は、現存する世界最古の木造建築物として知られています。法隆寺は奈良県に位置しており、飛鳥文化を代表する寺院です。
飛鳥時代に聖徳太子が定めた冠位十二階は、家柄にとらわれず、個人の才能や功績を重視して役人を登用することを目的としました。この制度では、世襲による身分ではなく、個人の能力や功績が役人としての地位を決定する重要な基準となりま…
飛鳥時代に聖徳太子と協力して仏教を広めようとしましたが、反対する物部氏と激しく対立しました。強大な権力を握っていた蘇我氏を、中大兄皇子や中臣鎌足らが大化の改新の際に倒しました。蘇我氏を倒した後の政治改革では、天皇を中心と…
詔とは、飛鳥時代に天皇が発する公的な命令のことを指します。聖徳太子が制定した十七条の憲法では、役人はこの命令に必ず従うべきことが説かれました。この命令は、豪族中心の政治から中央集権国家を目指すための重要な手段として用いら…
聖徳太子が建立したとされる、世界最古の木造建築である法隆寺の金堂に安置されています。7世紀前半に栄えた、日本で最初の本格的な仏教文化である飛鳥文化を代表する仏像です。当時の大陸の様式の影響を受けており、穏やかな表情と左右…
飛鳥時代、聖徳太子は大陸の進んだ制度や文化を取り入れるため、代表的な人物である小野妹子らを隋へ派遣しました。聖徳太子は、中国を統一した隋に対して対等な外交関係を求めるために遣隋使を派遣しました。日本は隋やその後に続く唐の…
律令時代の地方行政区分として、国・郡・里のうち、最も広い範囲を指す単位を国といいます。中央政府から派遣され、令制国において徴税や裁判などの地方行政を担当した官吏を国司といいます。朝廷は令制国ごとの土地の由来や産物を記録さ…
すべての土地と人民を国家が直接支配するという律令制の基本原則を何といいますか。戸籍に基づいて6歳以上のすべての人々に田地を分け与える班田収授法という制度が実施されました。開墾を促すために墾田永年私財法が出され、土地の私有…
唐や新羅の侵攻に備えて、九州北部の沿岸警備を担当した兵士のことです。律令制のもとで、主に東国の農民から徴兵されて任務につきました。彼らが詠んだ歌は、日本最古の歌集である万葉集に多く収録されています。
律令制度において、神祇官と太政官の二官、およびその下に置かれた八つの行政機関をあわせて二官八省と呼びます。二官八省のうち、実務を分担した八省は、天皇の指示のもとで国政を司る重要な役割を担っていました。中央の二官八省から地…
唐の進んだ政治制度を取り入れ、戸籍の作成や中央集権的な国家体制を整えるために整備された法体系です。6歳以上の男女に口分田を分け与え、死後に国へ返させる班田収授法に基づき、租・庸・調などの税が課されました。中央から国司を派…
701年に制定された大宝律令に基づき、天皇を中心とした中央集権的な政治体制が整えられました。全国を国に分けて国司を派遣し、戸籍に基づいて人々に口分田を与える班田収授法が実施されました。唐の長安を模した平城京が都となり、農…
戸籍に基づいて6歳以上の男女に、性別や身分に応じて口分田を分け与える制度です。与えられた口分田は私有地ではなく、本人が死亡した際には国に返還しなければなりませんでした。班田収授法により土地を与えられた人々には、収穫の一部…
奈良時代の律令制において、口分田から収穫された稲を納める税を租といいます。成人男子が平城京での労役の代わりに布などを納める税を庸といいます。地方の特産物を都へ運ぶ際、荷札として木簡が使われた税を調といいます。
律令制において、地方の豪族が任命された役職が郡司です。中央から派遣された国司の指揮下で、地方の行政を担当しました。郡司は、大宝律令などの律令国家の体制下で、現地の政治を支える重要な役割を担いました。
元明天皇によって710年に藤原京から都が移されました。唐の都である長安をモデルとして設計されました。都は碁盤の目のように区画されて整備されました。
710年に奈良に造営された平城京は、唐の都である長安をモデルにして建設されました。長安にならって設計された平城京は、道路が碁盤の目のように区画されていました。日本は遣唐使を派遣することで、長安から進んだ制度や文化を積極的…
古事記は、天皇が国を治めることの由来や支配の正当性を内外に示すために編纂されました。古事記には、日本の国の成り立ちや神話、伝承などが記されています。古事記は、政治の中心地であった平城京が置かれた奈良時代の初期にまとめられ…
743年に聖武天皇が、開墾を奨励して口分田の不足を補うために出した法令です。新しく開墾した土地の永代私有を認め、期限を定めず自分のものにすることを許可しました。この法律により公地公民の原則が崩れ、貴族や寺社が広大な私有地…
奈良時代に、政府から禁じられていたにもかかわらず、民衆の間で積極的に仏教を広めた僧侶です。橋や道路、ため池などの社会事業を各地で行い、多くの民衆から深い信頼を得ました。その人望を買われ、後に聖武天皇の命による東大寺の大仏…
人口の増加により、政府が人々に与える口分田が不足したため、新たな土地を広げる必要がありました。743年に出された墾田永年私財法により、新しく開墾した土地の永代私有が認められました。この法律によって公地公民の原則が崩れ、後…
大伴家持が編纂に関わったとされる、現存する日本最古の和歌集は万葉集です。万葉集には、天皇や貴族だけでなく、防人や農民といった幅広い階層の人々の歌が約4500首収められています。大伴家持が活躍し、この歌集がまとめられたのは…
日本は唐の先進的な制度や文化を学ぶために、使節団を派遣しました。当時の船は性能が低く、荒れる東シナ海を渡るため、遭難する危険が非常に高い旅でした。この使節団によって、仏教の教えを伝えた鑑真のような僧侶や、新しい学問が日本…
奈良時代末期に大伴家持らによってまとめられた、日本最古の歌集が万葉集です。万葉集には、天皇や貴族だけでなく、防人や農民など、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められています。万葉集は、新しい元号である令和の典拠となったことで…
奈良時代に元明天皇の命により、国ごとに地理や産物、伝承をまとめた地理書が作られました。各地の自然や伝承を記録して朝廷に報告するために編纂されたこの地理書を風土記といいます。風土記には、地域の地名の由来や神話、伝承などが詳…
唐から日本へ渡り、正しい仏教の戒律を伝えた僧である鑑真によって建立されました。鑑真は度重なる遭難や失明という困難を乗り越えて、日本への来日を果たしました。唐招提寺は、唐の文化の影響を強く受けた天平文化を代表する建築物の一…
聖武天皇は、仏教の力によって国家の安定を図るために国分寺の建立を命じました。国分寺とともに、女性のための寺院である国分尼寺も日本各地に建てられました。国分寺の総本山として、都には東大寺が建立され、大仏が造られました。
奈良時代には遣唐使が派遣され、唐の文化が積極的に取り入れられました。唐だけでなく、シルクロードを経由して西アジアやインドの文化も日本に伝わりました。当時の国際色豊かな宝物は、東大寺の正倉院に現在も収められています。
奈良時代、仏教の力で国家の平和と安定を守る鎮護国家の思想に基づき、大仏が造立されました。大仏の建立を命じたのは、平城京に東大寺を建てた聖武天皇です。大仏の造立とあわせて、全国には国分寺や国分尼寺が建立されました。
聖武天皇の時代を中心に栄えた、仏教の影響を強く受けた国際色豊かな文化です。シルクロードを経て伝わった宝物や唐の文化は、東大寺の正倉院に収められ、現代まで伝えられています。鎮護国家の思想のもとで制作された興福寺の阿修羅像は…
奈良時代に紙が貴重だったため、文字を記すために使われた木の札のことです。地方から都へ運ばれる調や庸などの租税の荷札として、多く利用されました。平城京などの都の跡地から大量に出土し、当時の行政の記録や社会の様子を知る貴重な…
正倉院は、湿気を防ぐために工夫された校倉造という建築様式で建てられた東大寺の倉庫です。この建物には、聖武天皇ゆかりの品々や、遣唐使が持ち帰った国際色豊かな宝物が大切に保管されています。正倉院には、シルクロードを通じて伝わ…
天皇による支配の正当性を内外に示すために、神話や伝承をもとにして歴史書が編纂されました。8世紀初めに完成した、神話から推古天皇までの日本の成り立ちを記した古事記や日本書紀が有名です。日本書紀は、神代から持統天皇の時代まで…
奈良時代、人口の増加により口分田が不足したため、政府は開墾を奨励して墾田永年私財法を制定しました。この法律により、新しく開墾した土地の永代私有が認められるようになりました。貴族や寺院が土地を広げたことで荘園が発達し、公地…
聖武天皇の時代に栄えた天平文化は、唐だけでなく西アジアの影響を受けた国際色豊かな文化です。東アジアと西アジアを結ぶ交易路であるシルクロードを通じて、多くの文物が日本に伝わりました。西アジアから伝わった品々は、奈良にある東…
律令制において、中央から派遣された国司のもとで、現地の有力な豪族が任命された役職を郡司といいます。奈良時代の地方政治では、都から派遣された国司が、現地の豪族である郡司を指揮して行政を行いました。天皇を中心とした中央政府は…
794年、都を現在の京都に移し、新しい都を平安京と定めた天皇は桓武天皇である。794年の平安京への遷都は、それまでの都であった長岡京から行われた。794年の平安京への遷都は、奈良時代末期からの混乱を収拾し、政治の刷新を図…
桓武天皇は、奈良時代の政治を立て直すため、794年に山背国へ平安京を遷都した。この遷都は、奈良時代の仏教勢力の政治介入を避け、新しい政治を行うことを目的としていた。平安京は、中国の長安にならって碁盤の目状に整備され、現在…
平安時代に最澄が唐から帰り、比叡山に延暦寺を建てて開いたのが天台宗です。天台宗はあらゆる人が救われるという法華経の教えを重視し、修行に励むことを説きました。比叡山は多くの優れた僧が学んだ場所であり、後に鎌倉新仏教の開祖と…
天皇が幼少や女性の場合に、天皇に代わって政務を行う官職を摂政という。平安時代に藤原氏が摂政や関白の職を独占し、政治の実権を握った政治形態を摂関政治という。藤原氏は娘を天皇の后にし、その子を天皇に即位させることで、天皇の外…
平安時代中期に、藤原氏が娘を天皇の后とし、その子が天皇となった際に外戚として摂政や関白の職に就き、政治の実権を握った政治形態を摂関政治という。摂関政治は、特に藤原道長とその子藤原頼通の時代に全盛期を迎え、「この世をば わ…
平安時代に醍醐天皇の命により、紀貫之らが編纂した、日本で最初の勅撰和歌集である。遣唐使の廃止などを背景に、日本の風土に合わせた独自の文化である国風文化が栄えた時期に編纂された。漢字を簡略化した仮名文字が発達し、和歌や物語…
平安時代、唐の衰退を理由に894年に遣唐使の停止を建議した人物は菅原道真である。遣唐使停止の建議が認められ廃止された後、建議者の菅原道真は大宰府へ左遷された。遣唐使停止以降、中国文化を日本の風土に合わせて消化し、発展させ…
紀貫之は、平安時代に醍醐天皇の命を受けて、日本で最初の勅撰和歌集の編纂に中心的な役割を果たした。紀貫之らが編纂した、日本で最初の勅撰和歌集は古今和歌集である。紀貫之が活躍し、『古今和歌集』が編纂された頃の、日本の風土に合…
平安時代初期、日本は遣唐使を派遣し、最澄や空海といった僧が唐で新しい仏教(天台宗や真言宗)を学び、日本に伝えました。唐との交流が盛んだった日本は、やがて遣唐使の廃止を決定し、唐の影響を受けつつも独自の国風文化を発展させま…
平安時代中期の939年、関東地方を拠点として平将門が朝廷に反旗をひるがえしました。平将門は勢力を拡大し、自らを新皇と称して独立した政権を立てようとしました。同時期に瀬戸内海地方で藤原純友が起こした反乱とあわせて、承平・天…
清少納言は、平安時代中期に活躍し、日本の代表的な文学作品である『枕草子』を著した人物である。清少納言が活躍した平安時代中期は、日本の風土に合った国風文化が発展した時期にあたる。清少納言の『枕草子』は、当時の宮廷生活や自然…
平安時代後期の1053年に、当時の政治の実権を握っていた藤原頼通によって平等院鳳凰堂が建立されました。平等院鳳凰堂は、死後の極楽浄土への生まれ変わりを願う浄土信仰の流行を反映してつくられました。阿弥陀如来像を安置し、華や…
天皇が位を譲った後の称号である上皇が、摂関政治を抑えるために、自らの居所である院で政治を行うことを院政という。平安時代後期に、この院政を最初に始めたのは白河上皇である。鳥羽上皇の死をきっかけに、天皇方と上皇方が対立し、武…
1086年に,上皇となって天皇の位を譲り,自ら政治の実権を握ったのは白河上皇です。上皇が政治を行うために,天皇の住む御所の外に設けられた組織を院庁と呼びます。上皇が自らの権力を強めるために,身辺の警護や実力行使の手段とし…
1156年に朝廷内の権力争いから起きた保元の乱で、勝利した後白河天皇側には平清盛や源義朝がつきました。この戦いをきっかけに、政治の主導権が貴族から武士へと移る大きな転換点となりました。その後の平治の乱を経て、最終的に平清…
1159年に起きた平治の乱では、源氏の源義朝と平氏の平清盛が中心となって争いました。この戦いに勝利した平清盛が権力を握り、武士として初めて太政大臣にまで昇進しました。平治の乱で平氏が権力を独占したことにより、貴族の政治か…
平安時代に、それまでの漢字を崩したり、その一部をとったりして作られた、日本語の音を表現するための日本独自の文字である。遣唐使の廃止などを背景に、日本の風土や生活に合わせた国風文化が発展する中で広く用いられた。これが用いら…
平安時代初期には、地方政治の再建を目指した桓武天皇が、中央から派遣された国司への監督を強めました。しかし、9世紀後半の遣唐使廃止以降、任地に赴かずに京都に留まって収入のみを得る国司が増え、私腹を肥やすなど地方政治が乱れま…
平安時代に、9世紀末の遣唐使停止をきっかけとして、中国文化を日本の風土に合わせて発展させた文化を国風文化という。国風文化は、それまでの唐風文化を日本の風土や生活に合わせて消化し、発展させた日本独自の文化である。国風文化で…
平安時代中期には、中央政府が地方の統治や徴税の責任を、現地の最高責任者である国司に大幅に委ねるようになった。9世紀後半から摂関政治期にかけて、地方に赴任しない遙任の国司が増え、税を私物化するなど地方政治の混乱が深まった。…
外戚とは、有力な家系が自身の娘を天皇の后とし、その間に生まれた子を次の天皇に立てることで、天皇の母方の親族として政治の実権を握る手法のことである。この手法は、平安時代中期に藤原氏が摂関政治を確立する際に用いられ、後に平清…
平安時代中期に、遣唐使の廃止を背景に発展した国風文化を代表する建築様式である。貴族の邸宅に用いられ、中心となる建物と池のある広大な庭園を廊下でつなぐ開放的な構造が特徴である。平安時代末期には、平清盛が日宋貿易の航海安全を…
平安時代末期、東北地方に独自の勢力を築き、平泉を拠点として栄えた一族を奥州藤原氏という。平泉を拠点とした奥州藤原氏が、極楽浄土を表現するために建立した、金箔で覆われた仏堂を中尊寺金色堂という。平泉は金などの特産品で富を築…
平安時代に藤原頼通が、父・道長の別荘を寺院に改め、京都の宇治に建立した。浄土信仰を背景に、阿弥陀如来坐像を安置する阿弥陀堂として、極楽浄土の姿を表現している。国風文化を代表する建築物の一つで、現在では十円硬貨のデザインに…
平安時代初期に最澄が唐から伝えた天台宗の総本山として、比叡山に開かれた寺院。比叡山に位置し、仏教の修行の場として多くの僧侶を育成した。その後、日本の仏教界に大きな影響を与え、多くの高僧を輩出した。
律令制のもとで、戸籍は人々の氏名や年齢などを登録し、税を徴収するための基礎資料として用いられた。平安時代中期(10世紀頃)には、重い調や庸といった税負担を逃れるため、戸籍上で男性を女性と偽るなどの偽装が横行した。戸籍に基…
「望月の歌」を詠んだ人物は藤原道長であり、この歌は平安時代の摂関政治の全盛期を象徴する。「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しと思えば」という歌は、藤原道長が当時の絶大な権力を誇示するために詠んだもの…
源氏物語絵巻は、平安時代に遣唐使の廃止などを背景に発達した、日本独自の国風文化を代表する作品の一つである。この絵巻は、平安時代中期の女性作家である紫式部が、宮廷の様子や貴族社会を題材として執筆した長編物語源氏物語を絵画化…
平安時代中期、瀬戸内海を拠点とした海賊を率いて、朝廷に反乱を起こした出来事を藤原純友の乱という。平安時代末期、平清盛は瀬戸内海の航路を整備し、大輪田泊を修築するなどして、日宋貿易を推進した。瀬戸内海の航路整備や日宋貿易で…
平安時代、藤原氏は娘を天皇の后にし、生まれた子を天皇に即位させることで、外戚として政治の実権を握る摂関政治を確立した。天皇が幼いときは摂政、成人してからは関白の職を独占し、平安時代中期にその勢力は最盛期を迎えた。摂関家を…
平安時代初期、朝廷の支配が十分に及んでいなかった東北地方に居住していた人々を蝦夷と呼んだ。桓武天皇は、蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、大規模な軍を派遣した。朝廷による蝦夷の平定が進んだ後、平安時代…
平安時代初期に、唐から帰国した空海によって、金剛峯寺は建立された。金剛峯寺は、空海が広めた真言宗の総本山として、高野山に建てられた。空海は遣唐使として唐に渡り、そこで学んだ密教を日本に広めるために金剛峯寺を建立した。
平安時代初期に、唐で密教を学んだ空海が、高野山を拠点として開いた宗派は真言宗である。高野山は、平安時代初期に密教を広めるための道場として開かれた。高野山に建立された、真言宗の総本山となる寺院は金剛峯寺である。
源氏物語を執筆した女性作家は紫式部と呼ばれています。この作品は、日本独自の情緒を表現するためにかな文字を用いて書かれました。源氏物語が生まれた当時の、貴族中心の華やかな文化を国風文化といいます。
平安時代に清少納言によって書かれた、日本最古の随筆文学です。作者は一条天皇の后である中宮定子に仕えていた経験をもとに執筆しました。「春はあけぼの」という書き出しで知られ、作者の鋭い感性で日常の出来事をつづった情緒豊かな作…
平安時代末期に法然が開いた浄土宗では、ただひたすら念仏を唱える専修念仏が説かれました。浄土宗は、厳しい修行ができない庶民にも広く受け入れられ、平安京の吉水を拠点として教えが広まりました。浄土宗の急激な広まりを警戒した旧仏…
法然は、ただ念仏をとなえることで救われるという専修念仏の教えを掲げて、日本で初めての念仏の宗派である浄土宗を開きました。法然は、貴族社会が乱れ戦乱が続く当時の社会において、身分を問わず救いを求める人々に浄土への信仰を広め…
源頼朝が、御家人の統制や軍事・警察を担う機関として設置した、鎌倉幕府の組織の一つ。鎌倉幕府において、御家人の統制や軍事・警察を担った機関。鎌倉幕府の中央に置かれ、政所や問注所と並ぶ主要な機関の一つ。
壇ノ浦の戦いは、現在の山口県下関市沖で、源氏と平氏が戦った最後の合戦である。1185年に起こったこの戦いで平氏が滅亡し、武士が政治の実権を握る中世社会への大きな転換点となった。壇ノ浦の戦いでの武士の活躍は、「祇園精舎の鐘…
源義経は、兄の源頼朝とともに平氏を滅ぼし、特に壇ノ浦の戦いで大きな功績を挙げた武将である。源義経は、兄の源頼朝と対立し、その追討を名目に頼朝は守護・地頭の設置を朝廷に認めさせた。源頼朝は、源義経を捕らえることを理由に全国…
鎌倉幕府において、将軍が御家人の所領を保護・安堵する「御恩」と、御家人が将軍のために軍役や番役を果たす「奉公」によって結ばれた主従関係を御恩と奉公という。御恩と奉公の主従関係に基づき、鎌倉時代に国内の軍事・警察や年貢の徴…
鎌倉時代に活躍した仏師の一人で、運慶とともに東大寺の復興に尽力した。運慶とともに、東大寺南大門に安置されている金剛力士像を制作した。その作品は、鎌倉文化の特徴である写実的で力強い表現が特徴である。
運慶は、武士の時代である鎌倉時代を代表する仏師である。運慶は、東大寺南大門の金剛力士像を快慶らとともに制作した。その作品は、平安時代までの優美な仏像とは異なり、力強く写実的な表現が特徴である。
チンギス・ハンは、日本の鎌倉時代にあたる13世紀初めに、モンゴル帝国を建国した。彼は、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸にまたがる広大な帝国の初代皇帝となった。チンギス・ハンは、中央アジアまでを征服し、その後のモン…
鴨長明は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍し、方丈記を著した人物である。彼の代表作である方丈記は、世の無常を説いた随筆であり、日本の古典文学の傑作として知られている。方丈記には、当時の乱世における人々の不安や、仏…
後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして起こした承久の乱の直後、1221年に京都に設置された六波羅探題は、朝廷の監視を目的とした。鎌倉幕府の北条泰時が設置した六波羅探題は、京都の治安維持や西国の御家人の統率など、幅広い役割を担った…
源頼朝の妻で、頼朝の死後は尼将軍と呼ばれ、鎌倉幕府の有力者として政治に関わった。後鳥羽上皇が倒幕を狙って挙兵した承久の乱の際、御家人たちを鼓舞する演説を行った。演説では、源頼朝による御恩を説いて御家人の結束を促し、幕府の…
鎌倉時代、源頼朝の死後、北条氏は将軍を補佐する執権の職を世襲し、幕府の実権を握りました。1221年、北条政子の呼びかけに応じた御家人とともに、後鳥羽上皇が起こした承久の乱に勝利し、幕府の支配を盤石にしました。北条氏は、有…
1221年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒し、朝廷の権力を取り戻そうとして起こした戦いを承久の乱という。承久の乱では、朝廷側と鎌倉幕府側の間で戦いが行われ、幕府の実権を握っていた北条氏が勝利した。承久の乱に勝利した鎌倉幕府は…
鎌倉幕府が朝廷監視のために京都に設置した機関は六波羅探題である。この機関は、後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして敗れた承久の乱の後に設置された。六波羅探題は、朝廷監視のほか、京都の警備や西国の武士の統制も行った。
鎌倉幕府の成立を支え、将軍と御恩と奉公の関係で結ばれた武士のこと。1221年に起こった承久の乱では、後鳥羽上皇が幕府打倒を企てたが、東国の御家人は幕府側として戦い勝利した。承久の乱後、朝廷側から没収された土地の地頭に任命…
鎌倉時代に、朝廷の権力を取り戻そうとした後鳥羽上皇が、幕府に敗れて隠岐に流されるきっかけとなった出来事を承久の乱という。承久の乱は、鎌倉幕府が成立してから約30年後の1221年に起こった。承久の乱で朝廷に勝利した鎌倉幕府…
浄土真宗を開いた親鸞は、阿弥陀仏の力を信じる悪人正機の教えを説きました。この宗派では、出家して厳しい修行をするよりも、ただ念仏を唱える他力本願を重視しました。浄土真宗は、武士だけでなく農民や商人の間で強く支持され、その後…
道元は、鎌倉時代に宋から禅宗を伝え、座禅によって悟りを開くことを説く曹洞宗を開きました。同じく禅宗を伝えた栄西が臨済宗を開いたのに対し、道元は曹洞宗を広めました。道元が広めた禅宗は、厳しい修行を重んじる気風が武士に受け入…
鎌倉時代、将軍に代わって幕府の政治の実権を握り、その役職を北条氏が世襲した政治を執権政治という。執権政治は、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと起こした承久の乱を鎮圧し、京都に六波羅探題を設置することで確立した。三代執権の北条泰時…
鎌倉時代の1232年、執権の北条泰時が制定した。武士社会の慣習を基に、裁判の基準を定めた最初の武家法である。貞永式目とも呼ばれ、守護の職務を大犯三箇条などに限定した。
武家法とは、鎌倉時代に武士社会の慣習を基に、裁判の基準を公平に定めるために制定された、武士独自の法律のことである。その代表例は、三代執権の北条泰時が1232年に制定した御成敗式目である。この法律は、日本最初の武家法であり…
鎌倉時代に日蓮が説いた、法華経の題目を唱えることで救われるとする新しい仏教の一派を日蓮宗という。日蓮は、仏教の真の教えは法華経にあると説き、その教えを広めた。日蓮は、法華経の題目である「南無妙法蓮華経」を唱えることで人々…
13世紀後半、モンゴル帝国の第5代皇帝として元を建国し、朝鮮半島の高麗を服属させ、中国の宋を滅ぼして中国全土を支配した。日本に対して服属を求め、13世紀後半に文永の役と弘安の役という2度にわたる大規模な遠征軍を九州北部に…
鎌倉時代に、新しい仏教である時宗を開いた僧侶は一遍である。一遍は、諸国を巡りながら、念仏を唱えながら踊る踊念仏や念仏の札を配るなどの方法で教えを広めた。このような布教活動を通じて、一遍の教えは武士や農民、商工業者などの民…
13世紀後半、中国の元と高麗の連合軍が、2度にわたって日本に攻めてきた出来事を元寇という。鎌倉幕府は、九州北部に防塁を築くなどして防戦したが、御家人への十分な恩賞を与えられず、幕府の衰退を早めることになった。元寇の際、暴…
北条時宗は、大陸から攻めてきた元軍を退けるために執権として力を尽くしました。1274年の文永の役に続き、1281年には弘安の役でも再び襲来してきた軍勢を迎え撃ちました。元軍の再襲来に備えて、北条時宗は博多湾岸に石築地を築…
鎌倉時代、モンゴル帝国による元寇の再襲来に備えるため、日本側が築いた防衛施設の一つが石築地である。この石築地は、主に博多湾の沿岸に、鎌倉幕府が御家人に命じて築かせた。石築地は別名防塁とも呼ばれ、元軍の上陸を阻止し、弓矢で…
1281年にモンゴル帝国の軍が再び日本へ襲来した出来事を弘安の役と呼びます。この戦いのとき、鎌倉幕府の執権として国難の指揮をとったのは北条時宗です。戦いに勝利したものの、御家人に対して十分な御恩を与えることができず、幕府…
鎌倉時代初期、幕府の力を弱めようと後鳥羽上皇が兵を挙げたが、幕府に敗れた出来事を承久の乱という。鎌倉時代末期には、生活に苦しむ御家人や荘園領主・幕府に従わない悪党と呼ばれる武士が現れ、幕府への不満が高まった。鎌倉時代末期…
キリスト教徒にとって、エルサレムはイエス・キリストが処刑された聖地とされていた。11世紀末、ローマ教皇の呼びかけにより、イスラム勢力からエルサレムを奪還するために十字軍が派遣された。エルサレムをめぐる争いは、日本の鎌倉時…
13世紀初めにチンギス・ハンが建国したモンゴル帝国は、中央アジアまでを征服し、広大な領土を築いた。モンゴル帝国は、中央アジアからヨーロッパ東部までを支配下に置き、ユーラシア大陸にまたがる大帝国となった。モンゴル帝国が中央…
13世紀にモンゴル帝国のフビライ・ハンが中国に建て、国号を元と定めて中国全土を支配した。元は、日本に服属を求めて鎌倉幕府に二度にわたり侵攻し、元寇と呼ばれる戦いでは集団戦法や火薬を用いた。元を訪れたマルコ・ポーロは、その…
鎌倉時代、朝廷や貴族が所有していた土地を公領と呼んだ。鎌倉幕府は、公領や荘園ごとに地頭を配置し、土地の管理や年貢の徴収を行わせた。源頼朝は、全国の公領や荘園に地頭を置くことを朝廷に認めさせ、軍事・警察権や徴税権を確保した。
鎌倉時代の武士の間で行われた、親の領地を複数の子に分けて継承させる相続方法を分割相続という。分割相続は、代替わりを繰り返すことで、個々の武士が所有する領地が細分化される原因となった。領地の細分化により生活が苦しくなった御…
13世紀後半、モンゴル帝国が日本に侵攻した元寇の際、その主な上陸地点となったのが博多湾である。元軍の再襲来に備え、鎌倉幕府は博多湾の沿岸に防塁と呼ばれる石造りの防壁を築いた。博多湾は、当時フビライが建国した元からの侵攻を…
鎌倉時代において、武士が主君や公的な存在に対し、自らの働きや身を捧げて尽くすことを奉公という。奉公は、将軍が御家人に領地の支配を保証する御恩とセットで、鎌倉幕府の主従関係の基盤となった。御家人は奉公として、戦での軍役や、…
平氏の繁栄と滅亡を描いた、武士の活躍や合戦を記した軍記物語である。琵琶法師が琵琶を弾きながら語り継ぎ、広く民衆に広まった。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という有名な一節で始まり、主に鎌倉時代に成立した。
平氏は、瀬戸内海の制海権を握り、中国の日宋貿易によって経済的な力をつけ、武士として初めて政権を握った。しかし、源頼朝が挙兵し、弟の源義経らが率いる源氏との戦いに敗れ、最終的に壇ノ浦の戦いで滅亡した。平氏の栄枯盛衰は、鎌倉…
鎌倉時代に、荘園や公領の管理や年貢徴収を担うために、源頼朝が全国に設置した役職を地頭という。鎌倉時代の年貢徴収は、主に荘園や公領と呼ばれる土地から行われた。鎌倉幕府は、この地頭に年貢徴収だけでなく、土地の管理や警察的な役…
鎌倉幕府の将軍と主従関係を結んだ武士のことで、将軍から領地の保証などの御恩を受け、軍役や警備などの奉公で忠誠を尽くした。各地に地頭として配置され、土地の管理や徴税を行うとともに、北条政子の演説で結束し承久の乱で幕府を勝利…
鎌倉時代の将軍が御家人に対して、先祖伝来の領地の支配を保証したり、新たな土地を与えたりする行為。この恩恵に対し、御家人は軍役や番役などの義務を果たすことで将軍に忠誠を示し、将軍と御家人の主従関係の基盤となった。このような…
鎌倉時代には、社会不安を背景に、阿弥陀仏の救いを信じて誰でも念仏を唱えれば救われるという教えが、武士や民衆に広まった。鎌倉時代に親鸞が開き、阿弥陀仏の救いを信じて念仏を唱えれば誰でも救われると説いた仏教の宗派を浄土真宗と…
鎌倉時代後半、生活が苦しくなった御家人などの不満が高まる中で、荘園領主や幕府の支配に抵抗する勢力が現れた。悪党は、荘園領主や幕府の命令に従わず、年貢を奪ったり武力で抵抗したりした武士や土豪、民衆などの集団である。悪党の台…
鎌倉幕府において、将軍が御家人の土地を保証する代わりに、御家人が軍役などの義務を果たす主従関係を御恩と奉公という。鎌倉時代の武士の間では、親の所領を子や女子などに分けて相続させる分割相続が行われ、女性が地頭に任命されるこ…
鎌倉時代の御恩と奉公という主従関係において、将軍が御家人に対して行う恩恵の一つ。御家人が先祖代々受け継いできた領地の支配を将軍が認めることを指す。これにより御家人の生活は安定したが、元寇後は徳政令が必要になるほど困窮する…
方丈記は、鎌倉時代に鴨長明によって書かれた。方丈記は、清少納言の枕草子や吉田兼好の徒然草と並ぶ日本の三大随筆の一つである。方丈記には、乱世における世の無常観が仏教的な視点から綴られている。
鎌倉時代に広まった新しい仏教は、旧来の仏教と異なり、教えが分かりやすく、人々が信仰しやすいという特徴を持っていた。易行の仏教は、戦乱や飢饉に苦しむ武士や庶民(農民)の間に急速に広まった。易行の仏教では、念仏を唱えることや…
鎌倉時代に一遍によって開かれた仏教です。踊りながら念仏を唱える踊り念仏や、念仏の札を配るなどの方法で信仰を広めました。この教えは、諸国を巡ることで民衆に広く受け入れられました。
鎌倉時代に宋へ渡って禅を学び、日本に帰国して曹洞宗を開いた僧は道元である。曹洞宗は、ひたすら座禅を組むことによって悟りを開くことを重視した。曹洞宗は、栄西が広めた臨済宗とともに、鎌倉時代に武士の支持を得て鎌倉文化に大きな…
東大寺南大門は、鎌倉時代に重源によって再建され、大仏様(天竺様)という力強い建築様式が用いられた。門内には、仏師の運慶や快慶らが制作した、写実的で力強い表現が特徴の金剛力士像が安置されている。東大寺南大門は、武士の気風を…
13世紀後半、イタリア出身の旅行家マルコ・ポーロが、モンゴル帝国(元)を訪れた際の記録をまとめた書物である。この書物では、日本が黄金の国ジパングとしてヨーロッパに紹介され、当時の人々の地理的知識を広げた。別名を世界の記述…
鎌倉時代の武士の気風は、東大寺南大門の金剛力士像のような、写実的で力強い彫刻作品に影響を与えた。質素さと厳格さを重んじる武士の気風に合致し、鎌倉幕府によって保護・推奨された仏教の一派を禅宗という。鎌倉時代の武士は、質素で…
十三世紀後半に、モンゴル帝国が日本に侵攻した元寇において、火薬が使用された。元軍は、火薬を用いたてつはうなどの兵器を使い、集団戦法で日本に攻め込んだ。一騎打ちを伝統とする御家人を中心とした日本軍は、火薬を用いた元軍の戦法…
鎌倉時代に、世の移ろいやすさやはかなさを感じ、人々の間に広まった思想を無常観という。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という冒頭で知られる平家物語は、平氏の栄華と没落を通して無常観を表現した軍記物語である。鴨長明が…
鎌倉時代に、琵琶を弾きながら平家物語などの軍記物語を語り歩いた盲目の僧のこと。琵琶法師によって語り継がれた平家物語は、平氏一族の繁栄から滅亡までを描いた軍記物語である。「祇園精舎の鐘の声」で始まる平家物語は、琵琶法師の弾…
鎌倉時代に宋(中国)から伝わり、ひたすら座禅を組むことで自ら悟りを開こうとする仏教の教え。栄西が臨済宗を、その弟子の道元が曹洞宗を開き、それぞれ広めた。その厳しい修行や精神性が武士の気風に合致したため、鎌倉幕府の保護を受…
荘園領主は、平安時代から存在した荘園と呼ばれる私有地を支配し、その土地からの年貢を主な収入源としていました。鎌倉時代には、幕府が任命した地頭が荘園の管理や年貢徴収を行うようになり、荘園領主との間で土地の支配をめぐる争いが…
鎌倉時代、幕府の支配は主に東日本が中心であったが、後鳥羽上皇が倒幕を企てた承久の乱が起こった。承久の乱で幕府が勝利すると、反乱側の貴族や武士から没収した領地に新地頭を任命し、その支配を西日本にまで広げた。幕府は、朝廷の監…
鎌倉時代に踊り念仏を通じて仏教の教えを民衆に広めた僧侶は一遍で、彼が開いた宗派は時宗である。踊り念仏は、念仏を唱えながら踊ることで阿弥陀仏への信仰を庶民の間に広めることを目的とした。踊り念仏を広めながら全国を巡る一遍の様…
鎌倉時代、将軍から所領安堵などの恩恵を受けた御家人が、忠誠を示すために果たす義務の一つが軍役である。軍役には、戦時に戦場へ駆けつけることや、平時に京都や鎌倉を警備する番役などが含まれた。御家人の経済的衰退により軍役の遂行…
鎌倉時代に、焼失した東大寺の再建にあたり、仏師の運慶と快慶らが制作した。武士の気風を反映し、筋骨隆々とした力強い写実的な表現が特徴で、寄木造の技法が用いられている。この像は、武士の台頭を背景に生まれた鎌倉文化を代表する彫…
源頼朝が平氏を倒して勢力を拡大し、鎌倉を拠点に武家政権を樹立して、朝廷から初代征夷大将軍に任命された。三方を山に囲まれ南は海に面した天然の要塞である鎌倉において、外部との交通路として山を切り開いて設けられた通路を切通しと…
鎌倉文化は、武士の力強さや気風を反映した、写実的で勇壮な文化である。東大寺南大門の再建に見られるように、宋の建築様式を取り入れ、仏師の運慶らが金剛力士像を制作するなど、力強く写実的な彫刻が特徴である。新しい仏教が広まり、…
鎌倉新仏教は、戦乱や飢饉に苦しむ人々を救うため、念仏や座禅などわかりやすく実行しやすい修行を説いた。鎌倉時代には、踊り念仏を説いた一遍(時宗)や、法華経の題目を唱えることを説いた日蓮(日蓮宗)など、新しい仏教が広まった。…
鎌倉時代に日蓮が開き、法華経の題目を唱えることを重視した宗派を日蓮宗という。日蓮宗では、法華経こそが仏教の真の教えであり、その題目を具体的に南無妙法蓮華経と唱えることで救われると説かれた。題目を唱えることで救われるという…
鎌倉時代、モンゴル帝国(元)のフビライ・ハンに仕えたイタリア人旅行家マルコ・ポーロが、日本を黄金の国ジパングとして紹介した。マルコ・ポーロは、その見聞をまとめた『世界の記述(東方見聞録)』の中で、日本を「黄金の国ジパング…
徒然草は、鎌倉時代末期に吉田兼好という人物によって書かれました。この作品は、筆者が日々の生活や感想を書き留めた随筆という文学形式の代表作です。徒然草は、枕草子や方丈記と並んで日本文学の三大随筆の一つに数えられています。
室町時代に、浄土真宗の門徒たちが信仰を基盤に団結し、守護大名などの領主に抵抗して起こした武装蜂起を、一向一揆という。特に加賀国(現在の石川県)では、守護大名を倒して約100年間にわたり、武士や農民らによる自治が行われた。…
浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞が開いた仏教の宗派で、室町時代には蓮如によって広く民衆に広まり、一向宗とも呼ばれた。浄土真宗の強い信仰で結びついた門徒たちは、室町時代に一向一揆と呼ばれる武装蜂起を起こし、社会に大きな影響を与え…
室町時代に、幕府が借金の帳消しを命じた法令を徳政令という。徳政令は、高利貸しである土倉や酒屋からの借金に苦しんだ農民たちが、土一揆を起こして要求したことで出されることが多かった。徳政令は、社会の混乱を鎮めるためや、幕府の…
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が中心となって始めた政治。武士を軽視し、公家を重用した天皇中心の政治。短期間で終わり、その混乱ぶりは二条河原の落書で風刺された。
後醍醐天皇が始めた建武の新政の混乱や社会不安を批判・風刺した落書である。1334年に京都の二条河原に立てられ、当時の無秩序な世相を七五調で表現している。この落書は、室町時代初期の社会情勢を知る上で貴重な史料となっている。
鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇が中心となって行った、天皇自らが政治を行うことを天皇親政という。この政治は、公家を重用し武士を否定する内容であったため、武士の不満を招いた。後醍醐天皇によるこの天皇親政は、特に建武の新政と…
南北朝時代は、足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇が吉野に開いた南朝と、京都の北朝が約60年間対立した時代である。この対立は、室町幕府の第3代将軍である足利義満が、南北朝を合体させることで終結させた。南北朝の動乱の中…
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した足利尊氏が、京都に開いた武家政権。将軍を補佐し幕政を統括する最高の役職として、管領が置かれ、有力な守護大名が交代で任命された。明との勘合貿易で経済的な利益を得るとともに…
室町時代に足利尊氏が、室町幕府の地方統治機関として関東地方を支配するために鎌倉に設置した。鎌倉府の長官は鎌倉公方と呼ばれ、足利氏の一族が世襲して関東地方の軍事や行政を司った。室町幕府の体制において、将軍を補佐する管領と並…
鎌倉幕府を倒すことに貢献したが、その後、後醍醐天皇が始めた建武の新政に反発し、京都から追いやった。京都に新たな天皇を立てて室町幕府を開き、吉野に逃れた後醍醐天皇の朝廷と約60年間対立する南北朝時代を招いた。室町幕府では、…
勘合符は、室町幕府の足利義満が明との間で行った貿易で用いられた。これは、正規の貿易船と倭寇(海賊)を区別し、貿易を円滑に進めることを目的としていた。勘合符は、半分に分けた札を突き合わせて確認する合い札の形式で、この貿易は…
足利義満は、明の皇帝から「日本国王」に封じられ、朝貢の形式で貿易を行いました。この称号は、倭寇と区別し、明との勘合貿易を円滑に進めるために受け入れられました。これにより、室町幕府は明との正式な国交を樹立し、安定した貿易関…
世阿弥は、父の観阿弥とともに、日本の伝統芸能である能楽を大成させた人物である。世阿弥は、室町時代に、室町幕府の三代将軍である足利義満の保護を受けて活躍した。世阿弥は、猿楽や田楽などの芸能を母体とし、幽玄な美を追求して芸術…
1428年(正長元年)に近江国で起こった正長の土一揆は、運送業者である馬借などが中心となって蜂起した。正長の土一揆では、農民たちが酒屋や土倉を襲い、借金の帳消しを求める徳政を要求した。この一揆は、幕府に徳政令を発布させる…
馬借は、室町時代に馬を利用して荷物を運んだ運送業者であり、地域間の物流と商業の発展に貢献しました。馬借は、室町時代に水運と陸運の接点に拠点を置いて活動し、物資の輸送を担いました。1428年に近江国で起こった正長の土一揆で…
尚巴志が15世紀に三山を統一して琉球王国を建国した。琉球王国は首里を都とし、東アジアの国々と中継貿易を行った。この中継貿易により、琉球王国は明や日本、朝鮮、東南アジアなどと交流した。
尚氏は15世紀に沖縄本島を統一し、琉球王国を建てた。琉球王国の都は首里に置かれ、東アジア諸国を結ぶ海上交通の要衝として栄えた。琉球王国は、日本や中国、東南アジア諸国を結ぶ中継貿易を行うことで繁栄した。
室町時代に、室町幕府が任命した守護が、広大な領地と軍事・行政の権限をもち、やがて管領として幕政を動かすほどに成長した。有力な守護大名同士の対立は、将軍の跡継ぎ問題と絡み合い、1467年に応仁の乱が起こるきっかけとなった。…
応仁の乱は、1467年に室町幕府第8代将軍足利義政のあとつぎ問題をきっかけに、京都で始まった大規模な内乱である。この戦乱は京都を中心に約11年間続き、守護大名が東西に分かれて争った。応仁の乱は、室町幕府の権威を失墜させ、…
浄土真宗の信仰で結びついた武士や農民が、守護大名の富樫政親を倒した出来事。1488年に、現在の石川県である加賀国で起こった。守護大名を倒した後、約100年間にわたる自治を実現した。
15世紀に琉球王国が中継貿易で繁栄した様子を伝えるために作られた鐘を、万国津梁の鐘という。万国津梁の鐘は、琉球王国が中国や日本、東南アジアなどを結ぶ中継貿易で栄えたことを示している。万国津梁の鐘は、世界の国々の架け橋とな…
下の身分の者が上の身分の者を実力で倒し、その地位を奪う社会風潮を、下剋上という。室町時代中期に起こった応仁の乱をきっかけに、下剋上の風潮が広まった。下剋上の風潮は、守護大名が衰え、各地に戦国大名が登場する戦国時代へとつな…
15世紀に沖縄本島を統一して成立した琉球王国が、中継貿易で繁栄した。中国と日本、東南アジアなどを結ぶ物流の拠点として、他国から仕入れた品物を別の国へ販売する貿易形式である。明の海禁政策下で、中国の生糸や薬草、日本の銀や海…
南北朝時代から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国の沿岸部で略奪行為を繰り返した海賊集団を倭寇と呼ぶ。明との正式な貿易船と区別するため、室町幕府は勘合という札を用いた貿易を行った。室町幕府の三代将軍足利義満は、明の要求に応じ…
室町幕府の三代将軍である足利義満の時代に栄えた文化を北山文化という。北山文化は、伝統的な公家文化と新興の武家文化が融合したことが特色である。その代表例として、足利義満が京都の北山に建てた鹿苑寺金閣(金閣)がある。
建武の新政が決裂した後、京都に足利尊氏が別の天皇を立てたため、後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を開いた。吉野の南朝と京都の北朝が対立し、全国の武士を巻き込んで約60年間続いた内乱を南北朝時代という。吉野は京都から南へ数十キロ…
室町時代に、交通の要衝で物資の輸送や保管を担った運送業者を問丸という。問丸は、物資の輸送や保管だけでなく、委託販売や卸売も行い、馬を利用した馬借とともに物流を支えた。問丸の活躍により、年貢や商品の流通が活発になり、室町時…
室町時代に京都などの都市で、高い利息でお金を貸し付ける高利貸しなどの金融業を営んだ業者を土倉という。土倉は、室町幕府に税を納める代わりに、金融業の営業権を認められ、幕府の重要な財源の一つとなった。室町時代には、借金の帳消…
室町時代に京都などの都市部で、酒造や高利貸しなどの金融業を営み、莫大な利益を上げていた業者を土倉・酒屋という。土倉・酒屋は、幕府に税を納める代わりに営業権を認められ、室町幕府の重要な財源の一つとなった。貨幣経済の浸透とと…
室町時代、堺は日明貿易や日朝貿易の拠点として栄えた。堺では、有力な商人たちが会合衆を組織し、自治を行った自由都市として知られる。大阪湾に面した港町であり、九州の博多とともに勘合貿易で大きな利益を得た。
室町時代には、農業生産の向上や交通の要所、寺社の門前などで、定期市が開催されるようになった。定期市は特定の日に開かれ、商業の活性化や貨幣経済の浸透に伴い、開催回数が増加していった。定期市では、中国から輸入された宋銭や明銭…
室町時代、寺社は物資の移動が盛んになった街道に関所を設置し、通行料を徴収して収入を得た。中世には、寺社の門前や交通の要所に、決まった日にちや回数で開かれる定期市が発達し、商業活動の中心となった。室町時代、寺社は商人や手工…
床の間は、室町時代の東山文化において、禅宗の様式を取り入れて成立した。床の間は、畳や違い棚、付け書院などとともに、武家や公家の邸宅に取り入れられた書院造という建築様式の特徴の一つである。床の間は、書院造の他の要素とともに…
室町時代に流行した、絵と文を組み合わせた物語本を絵入りの物語本と呼ぶ。「浦島太郎」や「一寸法師」など、当時の庶民を主人公とした物語が描かれ、広く読まれた。奈良時代の万葉集にも歌われた浦島伝説が、室町時代には絵入りの物語と…
室町時代に、有力な農民を中心に結成された、村の自治組織を惣村という。惣村では、寄り合いと呼ばれる集会で話し合い、独自の惣掟を定めて村の運営を行った。惣村は用水の管理などを行い、時には国人と協力して一揆を起こすこともあった。
室町時代に、禅宗の影響を受けて寺院の様式を武家の住居に取り入れた建築様式で、床の間や畳などが特徴である。足利義政が京都の東山に建てた慈照寺銀閣の東求堂同仁斎は、書院造の代表的な遺構として知られる。書院造は、足利義政の時代…
室町時代中期、第8代将軍足利義政が京都の東山に山荘を建てた頃に栄え、簡素で気品のある美しさを特徴とする文化を東山文化という。東山文化を代表する建築物として、足利義政が建てた慈照寺銀閣があり、畳や床の間などを備えた書院造が…
室町時代、8代将軍の足利義政が京都の銀閣(慈照寺)に建てた、東山文化を代表する建築物である。書院造の代表的な遺構であり、畳、床の間、棚、障子、襖などを取り入れた特徴を持つ。現代の和室の原型となり、日本の住宅様式に大きな影…
墨の濃淡によって自然などを表現する絵画様式で、鎌倉時代から室町時代にかけて中国から禅僧によって日本に伝えられた。室町時代には、武士の精神に大きな影響を与えた禅宗の教えや美意識が取り入れられ、書院造などとともに室町文化(東…
室町時代、琵琶湖は日本海側からの物資を水上輸送する上で重要な役割を果たした。琵琶湖の水運と連携し、大津や坂本などの港から京都へ物資を陸上輸送したのは、馬借と呼ばれる運送業者であった。琵琶湖を経由して運ばれた米・塩・魚など…
室町時代に、京都などの都市で自治組織を結成し、活動した有力な商工業者を町衆という。特に応仁の乱で荒廃した京都の復興や、祇園祭などの祭礼の運営・再興に尽力した。彼らは都市の自治を担い、室町時代の文化の発展にも貢献した。
室町時代、京都の町衆が、都市の自治や文化活動の一環として祇園祭を運営した。応仁の乱で一時中断したが、その後、京都の有力な商工業者である町衆によって復興された。祇園祭は、京都の八坂神社の祭礼であり、室町時代の都市文化や町衆…
細川氏は、室町幕府において将軍を補佐する最高の役職である管領を代々務めた有力な守護大名であった。細川氏は、室町時代に明との間で行われた勘合貿易の実権を握り、経済的にも大きな力を持った。15世紀後半に京都で起こった応仁の乱…
室町時代に足利義満の保護を受け、観阿弥と子の世阿弥が、民衆の間で行われていた猿楽などを芸術的に高めて大成した歌舞劇を能という。能の合間に演じられ、当時の民衆の生活や感情を滑稽に表現したせりふ劇を狂言という。これら能と狂言…
室町時代に、中国の明や朝鮮との貿易の拠点として栄えた都市を自治都市と呼ぶ。代表的な自治都市として、現在の大阪府に位置し、日明貿易などで繁栄した堺が挙げられる。自治都市では、有力な商人たちが自分たちで政治を行い、自由な商業…
観阿弥は、息子の世阿弥とともに、日本の伝統芸能である能を大成させた人物である。観阿弥親子は、室町時代に、室町幕府の足利義満の保護を受けて能を発展させた。能は、民衆の間で行われていた猿楽や田楽などを母体とし、芸術性の高い舞…
室町時代に、質屋を営む土倉とともに、高利貸しなどの金融業を営み富を蓄えた。室町幕府は、酒屋から税を徴収することで、重要な財源の一つとした。高利貸しによって富を蓄えたため、借金の帳消しなどを求める土一揆の襲撃対象となった。
金閣は、室町幕府第3代将軍の足利義満が、京都の北山に建てた別荘である。金閣に代表される北山文化は、伝統的な公家文化と新興の武家文化が融合した点が特色である。金閣は、足利義満が南北朝の合体を達成し、幕府の権威を確立した室町…
室町時代、第8代将軍足利義政が京都に建てた慈照寺銀閣は、簡素で気品のある東山文化を象徴する建築物である。銀閣の東求堂同仁斎に見られる書院造は、床の間や畳、襖などを備え、現代の和室の原型となった伝統的な建築様式である。銀閣…
日本の中世では、国内で貨幣が鋳造されなかったため、中国の宋や明との貿易によって輸入された銭が広く流通した。鎌倉時代から室町時代にかけて、中国から輸入された銭が広く使われるようになり、定期市の開催回数が増えるなど貨幣経済が…
15世紀に尚巴志が沖縄本島を統一して建国した琉球王国の都が首里に置かれた。首里を都とする琉球王国は、東アジアと東南アジアを結ぶ中継貿易により繁栄を極めた。首里に築かれた首里城は、琉球王国の政治、外交、文化の中心として栄えた。
鉄砲は1543年、日本の種子島にポルトガル人によって伝えられた。鉄砲伝来は、日本の戦国時代における戦い方や城の築き方に大きな影響を与え、織田信長がその威力を活用した。鉄砲伝来をきっかけに、日本とヨーロッパ諸国との間で南蛮…
1549年に日本に渡来し、キリスト教を伝えたイエズス会の宣教師。戦国時代に広まったキリスト教は、江戸幕府によって禁教政策がとられ、弾圧された。厳しい禁教政策に反発したキリスト教徒らが、1637年に島原・天草一揆を起こした。
1560年、今川義元を倒した桶狭間の戦いで頭角を現しました。市場の独占を廃止する楽市・楽座を行い、経済の活性化と城下町の発展を進めました。1582年、天下統一を目前にして重臣の明智光秀に裏切られ本能寺の変で自害しました。
1560年に尾張へ侵攻した駿河の今川義元を、織田信長が奇襲して破ったのが桶狭間の戦いです。桶狭間の戦いで強大な軍勢を率いた大名を倒したことで、織田信長は全国にその名を大きく知らしめました。桶狭間の戦いの結果、今川氏が衰退…
1582年に京都の本能寺を襲撃し、主君である織田信長を自害に追い込んだ家臣は明智光秀です。この事件が発生した1582年は、その後の天下統一への流れを大きく変える歴史的な年となりました。本能寺の変で信長が倒れた後、その急報…
越前国を本拠地とした戦国大名の朝倉氏が、領国支配の拠点として整備した場所が一乗谷です。一乗谷では、すべての有力な家臣を城下町へ移住させて集住させる政策がとられました。一乗谷を拠点とした朝倉氏は、領内に勝手に城を築くことを…
戦国時代に戦国大名が、自らの領国を安定して支配し、家臣や領民を統制するために独自に定めた法律です。家臣同士の勝手な争いや婚姻を禁じたり、領内への築城を制限したりすることで、領国内の秩序維持を図りました。武田信玄が定めた「…
戦国大名は、領国内の支配を強めるために城下町を築き、家臣を一箇所に住まわせました。家臣や商工業者を城の周辺に呼び寄せることで、政治・経済・文化の中心地となる拠点を形成しました。戦国大名は、家臣や領民を統制するために、独自…
戦国大名が自らの領国を統治するために、独自に定めた法律を分国法といいます。領国内の家臣や領民の行動を制限し、争いを防いで領国の安定と平和を維持することを目的としました。家臣同士の勝手な婚姻の禁止や、他国への嫁入りの制限な…
戦国時代、上杉謙信は川中島の戦いでライバルの武田信玄と何度も激しく争いました。上杉謙信は現在の新潟県にあたる越後を本拠地とし、優れた統治能力で領土を広げました。上杉謙信は、室町幕府の最高職である関東管領に就任し、義理を重…
15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ諸国がアジアの香辛料などを直接手に入れるため、羅針盤などの航海技術の向上を背景に新しい航路を開拓した。スペインの支援を受けたコロンブスは1492年に西回りの航路で大西洋を横断し、ポ…
15世紀末にポルトガルのバスコ・ダ・ガマが、アフリカ南端の喜望峰を経由してインド航路を開拓した。インド航路は、アフリカ大陸の南端にある喜望峰を回る東回り航路であった。インド航路の開拓は、ヨーロッパとアジアを結ぶ直接的な海…
16世紀前半、スペインの援助を受けたマゼランの船隊は、世界一周を目指して1519年に航海に出発した。船隊は南アメリカ大陸の南端にある海峡を通り、西回りで太平洋を横断し、史上初めて世界一周を成し遂げた。この航海は、地球が球…
16世紀にスペインの援助を受けたマゼランの船隊が、人類史上初めて世界一周を達成した。この航海では、南アメリカ大陸の南端を回って太平洋を横断し、地球が球体であることを実証した。この出来事は、ヨーロッパ諸国による海外進出が活…
九州南方の種子島にポルトガル人によって鉄砲が伝えられた。この出来事は1543年に起こり、日本の歴史に大きな影響を与えた。伝来した鉄砲は、その後の戦国時代の戦術を大きく変え、織田信長が長篠の戦いで活用したことでも知られる。
足利義昭は、室町幕府の第15代将軍として、織田信長に擁立されました。織田信長と対立した足利義昭は、信長によって京都から追放されました。足利義昭が追放された1573年に、約240年続いた室町幕府は事実上滅亡しました。
鉄砲は16世紀半ばにポルトガル人によって日本に伝えられ、火薬の原料である硝石などが南蛮貿易で輸入された。織田信長は1575年の長篠の戦いで鉄砲隊を組織的に用い、武田勝頼の騎馬隊を破り、戦術を大きく変えた。鉄砲は武士の戦術…
1575年に、織田信長が武田勝頼率いる騎馬隊を破った戦いを長篠の戦いという。この戦いでは、織田信長が鉄砲隊を組織的に活用する新戦術で勝利した。長篠の戦いは、ポルトガル人によって伝来した鉄砲が戦術を大きく変えた重要な戦いと…
織田信長が城下町の発展と経済活性化のために行った政策である。座の特権を廃止し、商工業者が自由に営業し、税や労役を免除されることで流通を活発にした。特に安土などの城下町で実施され、その後の商業発展に大きな影響を与えた。
安土桃山時代にキリスト教を信仰した大名たちは、南蛮貿易の利益や鉄砲の入手などを目的としていた。1582年、九州のキリシタン大名である大友宗麟らが、4人の少年をローマ教皇のもとへ派遣した使節団を天正遣欧少年使節という。天正…
天正遣欧使節は、九州のキリシタン大名である大友宗麟らによって、ローマ教皇のもとへ派遣された4人の少年からなる使節団である。この使節は、ヨーロッパのキリスト教社会との接触を深め、日本のキリスト教の発展を促すことを目的として…
豊臣秀吉が全国規模で行った土地調査であり、年貢徴収の基準を確立し、支配体制を強化することを目的とした。土地の生産力を米の収穫量に換算する石高制を導入し、実際に耕作する農民を検地帳に登録した。これにより、中世以来の複雑な荘…
豊臣秀吉が1587年に、キリスト教の布教が日本の支配の妨げになると考えて出した。キリスト教の宣教師(バテレン)を国外追放し、布教活動を禁じることを命じた法令である。しかし、海外との南蛮貿易は継続が認められ、キリスト教の禁…
16世紀半ばに日本に渡来し、キリスト教を広めた人々は、主にイエズス会に属していた。豊臣秀吉は、キリスト教の布教が支配の妨げになると考え、1587年にバテレン追放令を出して宣教師の国外追放を命じた。秀吉は宣教師の追放を命じ…
安土桃山時代に豊臣秀吉が、農民から刀や鉄砲などの武器を没収した政策を刀狩という。この政策は、農民による一揆を防止することを主な目的としていた。また、武士と農民の身分を明確に区別する兵農分離を進め、社会の安定化を図った。
安土桃山時代に豊臣秀吉が築き、その政治・経済の中心拠点となった城。1590年の全国統一を達成した豊臣秀吉が、その権力を象徴する拠点とした城。豊臣秀吉が全国統一を進める中で行った太閤検地や刀狩などの政策と深く関連する城。
戦国時代の動乱を収束させるため、織田信長は楽市・楽座などの政策で経済を活性化させながら天下統一を目指した。織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は、1590年に北条氏を滅ぼして全国統一を達成し、大坂城を拠点とした。豊臣秀吉は、全国…
安土桃山時代に豊臣秀吉が、太閤検地や刀狩などの政策を通じて行った。武士と百姓(農民)の身分を明確に区別することを目的とした。これにより、武士は城下町に住み、農民は村で農業に専念する社会体制が築かれ、社会構造が固定化された。
安土桃山時代に豊臣秀吉が全国規模で行った太閤検地の中で、度量衡の統一が進められた。長さの基準であるものさしや、体積の基準である京枡を全国で統一した。これにより、土地の面積や収穫量を正確に把握し、石高を定めて農民から直接税…
天下統一を果たした豊臣秀吉が、大陸の明の征服を目指して二度にわたり朝鮮半島へ軍を派遣した出来事を朝鮮出兵という。朝鮮出兵は別名文禄・慶長の役とも呼ばれ、朝鮮の将軍李舜臣率いる水軍が日本軍に反撃し、苦しめた。この出兵により…
島根県に位置し、戦国時代から江戸時代にかけて世界有数の産出量を誇り、世界的な銀の供給源となった。産出された銀は南蛮貿易などで大量に輸出され、日本の経済に大きな影響を与えた。その歴史的価値から、現代では世界遺産にも登録され…
安土桃山時代に、茶人千利休が、質素な美しさを追求するわび茶の作法を大成させた。わび茶は、豪華な文化が栄える中で、無駄を省いた質素で静かな美しさを重んじる精神を確立した。織田信長や豊臣秀吉に仕え、堺の商人出身であった千利休…
ヨーロッパ大陸の西端に位置するイベリア半島から、16世紀にポルトガル人が日本へ来航し、鉄砲やキリスト教、パンやカステラなどの文化を伝えた。イベリア半島を拠点とした国々は、日本との間で南蛮貿易を行い、硝石などの火薬の原料を…
16世紀のヨーロッパでプロテスタントが勢力を拡大する中、カトリック教会は自己改革を進め、海外での布教を活発化させた。この海外布教を担ったのはイエズス会という修道会で、フランシスコ・ザビエルらが日本にキリスト教を伝えた。安…
16世紀のヨーロッパで、ルターとともに宗教改革を行った人物である。ローマ教皇の方針を批判し、聖書の教えに立ち返ることを主張した。この運動によってプロテスタントが生まれ、カトリック教会はイエズス会などを通じて海外への布教活…
16世紀のヨーロッパで、ドイツのマルティン・ルターらがカトリック教会の腐敗を批判し、聖書中心の信仰を説いて始まった宗教改革の中で誕生した。カトリック教会の権威に抗議する者という意味を持ち、聖書に基づいた信仰を重視する宗派…
16世紀のドイツで、カトリック教会の免罪符販売を批判し、聖書中心の信仰を説いて宗教改革を始めた人物はルターである。ルターの行動をきっかけに、16世紀のヨーロッパでカトリック教会の腐敗を批判し、新しい宗派であるプロテスタン…
14世紀から16世紀にかけて、イタリアを中心に西ヨーロッパで起こった、古代ギリシャ・ローマの古典文化を復興させようとする文芸復興の動きをルネサンスという。ルネサンスでは、中世の神中心の考え方に対し、人間性や個性を重視する…
16世紀初め、キリスト教のカトリック教会が、信者に販売した、罪が許されるとされる証書を免罪符という。ドイツのルターは、この免罪符の販売を批判し、聖書に基づいた信仰を主張して宗教改革を始めた。宗教改革は、ローマ教皇の権威を…
15世紀末にコロンブスが到達した南北アメリカ大陸は、16世紀以降、主にスペインによって征服・植民地化が進められました。南北アメリカ大陸では、スペイン人による征服活動によって、インカ帝国などの先住民文明が滅ぼされ、多くの人…
「唐獅子図屏風」は、安土桃山時代に活躍した狩野永徳によって描かれた、豪華で力強い作品です。この作品は、織田信長や豊臣秀吉の時代に、大名や豪商の富を背景に栄えた桃山文化を代表する絵画の一つです。城郭の内部を飾る障壁画として…
アフリカ大陸の南端に位置し、大航海時代にポルトガルがインドへの航路開拓を目指した場所は喜望峰である。15世紀末、喜望峰を回ってインドへ到達する直接航路を開拓したポルトガルの航海者はバスコ・ダ・ガマである。喜望峰を経由する…
織田信長が天下統一の拠点として、現在の滋賀県に築いた城。豪華な天守を備え、近世城郭建築の先駆けとなり、その形式を確立した。城内は狩野永徳による豪華な障壁画で飾られ、楽市楽座が行われたことでも知られる。
屏風絵は、豊臣秀吉の時代に大名や豪商の富を背景に栄えた、豪華で壮大な桃山文化を代表する芸術である。桃山文化を代表する画家である狩野永徳は、屏風絵に金箔を多用し、華やかな色彩で描くことを得意とした。屏風絵は、主に城郭の内部…
織田信長や豊臣秀吉の時代に、戦国大名や豪商の力を背景に栄えた、豪華で壮大な文化を桃山文化という。桃山文化を代表する建築物には姫路城があり、絵画では狩野永徳が金箔を多用した豪華な障壁画を描いた。桃山文化では、千利休がわび茶…
活版印刷術は、安土桃山時代の16世紀にヨーロッパから日本に伝わった技術である。イエズス会の宣教師によって伝えられ、当初はローマ字で日本の古典文学などを印刷するのに用いられた。この技術によって書籍の出版が容易になり、西洋医…
狩野永徳は、織田信長や豊臣秀吉の時代に栄えた、豪華で壮大な桃山文化を代表する画家である。彼の絵は、大名や豪商の富を背景に、金箔を多用した豪華で力強い障壁画が特徴である。主に城郭のふすまや屏風に絵を描き、代表作には「唐獅子…
中世から各地の交通の要所に設けられ、通行する人や物資から通行料を徴収したり、監視したりした施設を関所という。安土桃山時代に織田信長は、商工業の活性化や物資の流通を円滑にするため、各地の関所を撤廃する政策を行った。関所の撤…
障壁画は、安土桃山時代に大名や豪商の富を背景として栄えた、豪華で力強い桃山文化を代表する絵画である。織田信長や豊臣秀吉に仕え、城郭の内部を飾る豪華な障壁画を描いた安土桃山時代を代表する絵師は狩野永徳である。桃山文化を代表…
15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパの人々がアジアに求めた、胡椒などの貴重な植物産品は、当時高値で取引されていました。ヨーロッパ諸国は、イスラム商人やイタリア商人が掌握していた香辛料貿易の利権を避け、アジアと直接取引…
江戸時代、徳川氏が江戸に幕府を開き、約260年続く平和な時代を築きました。徳川氏は、大名を徳川氏との関係の深さによって、親藩、譜代、外様の三つに分類しました。特に関ヶ原の戦い以前から徳川氏に従っていた譜代大名は、幕府の重…
徳川家康は、1600年の関ヶ原の戦いに勝利した後、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。征夷大将軍は、武士の最高位の役職であり、全国の武家を統率し、全国支配の実権を握った。征夷大将軍の地位は、約260年続く…
豊臣秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いで勝利し、1603年に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた人物。大名を統制するために武家諸法度を制定し、その死後には彼を祀る日光東照宮が造営された。江戸時代初期には、海外渡航を許…
1600年に、天下分け目の戦いとして行われた関ヶ原の戦いでは、徳川家康が勝利を収めました。この戦いの勝利によって徳川家康は全国支配の実権を握り、後に江戸幕府を開くことになります。関ヶ原の戦い以前から徳川氏に従っていた大名…
江戸時代、幕府は参勤交代や物資流通を円滑にするため、江戸と各地を結ぶ五街道を整備した。五街道には、旅人の宿泊や休息のための宿場が一定間隔で置かれ、特に江戸と京都・大坂を結ぶ東海道が重要であった。五街道の整備により、手紙や…
江戸時代に徳川家康が確立した、将軍の幕府と大名の藩が全国の土地と民衆を支配する仕組みを幕藩体制という。幕府は、大名を統制するために武家諸法度や参勤交代を定め、キリスト教の禁止や貿易の制限を行う鎖国政策をとった。幕藩体制下…
徳川家康が1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に開いた約260年間続いた武家政権。大名を統制するために武家諸法度や参勤交代を定め、第3代将軍徳川家光の時代に鎖国体制を完成させた。大老や老中などの役職を置き、百姓の土地没…
朱印状は、江戸時代初期に徳川家康をはじめとする将軍が、海外渡航や貿易を許可するために発行した公文書である。この朱印状を用いて行われた、東南アジア諸国との貿易を朱印船貿易と呼ぶ。朱印状による貿易は、江戸幕府が鎖国政策を完成…
江戸時代初期に、将軍徳川家康が海外渡航と貿易を許可するために、将軍の朱印を押した公文書を発行して行った貿易。この貿易により、日本からは銀などが輸出され、東南アジア各地に日本町が形成されるなど、日本人の海外進出が活発になっ…
江戸時代、日本の将軍の代替わりなどを祝うため、朝鮮国王から派遣された使節団を朝鮮通信使という。朝鮮通信使は、まず対馬に到着し、その後、瀬戸内海や五街道などを経由して江戸へ向かった。朝鮮通信使の派遣は、日本と朝鮮の国交の窓…
江戸時代、琉球王国は日本の薩摩藩の支配下に入り、実質的にその影響下で存続しました。薩摩藩の支配を受けながらも、琉球王国は独立した王国として中国(清)との朝貢貿易を続けました。琉球王国は、江戸幕府が鎖国政策をとる中で、薩摩…
江戸時代、薩摩藩は琉球王国を支配し、その特産品である黒砂糖や中国との貿易から大きな利益を得て、藩の財政を支えた。鎖国体制下の江戸幕府が対外交流を維持した四つの窓口の一つとして、薩摩藩は琉球口を通じて中国との間接的な交流を…
江戸幕府は、キリスト教の広がりを抑えるため、1612年に幕領に禁教令を出した。禁教令や重い年貢に苦しんだ人々が、1637年に天草四郎を首領として起こした反乱を島原・天草一揆という。島原・天草一揆の後、幕府はキリスト教の取…
江戸幕府は、全国の大名を統制するために、武家諸法度を制定し、城の無断修理や婚姻の制限などを定めた。大名の経済力を削ぎ、謀反を防止するために、一年おきに江戸に出府させる参勤交代や、土木工事を命じるお手伝い普請などの制度を設…
徳川家康が江戸に開いた政権で、1615年の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、全国支配を確立した。大名を統制するために武家諸法度を定め、参勤交代などを義務付けて幕藩体制を確立・維持した。長崎での貿易を統制し、異国船打払令を出すなど…
江戸幕府が大名を統制するために制定した法律で、2代将軍徳川秀忠の時に発布された。特に城の新築や修理の制限、許可のない婚姻の禁止などを規定し、3代将軍徳川家光の時に参勤交代が制度化された。これに違反した大名には改易や転封な…
菱垣廻船は、江戸時代に経済の中心であった大阪と消費地である江戸を結び、太平洋沿岸を通る南海路で生活物資などを輸送した。菱垣廻船とともに、同じ航路で酒などを運んだ樽廻船や、日本海側で活躍した北前船など、江戸時代には海上交通…
山田長政は、江戸時代初期に現在のタイにあったアユタヤ(シャム)に渡り、朱印船貿易で活躍した。彼はアユタヤの日本町の指導者となり、シャムの国王に仕えて活躍した。山田長政の活躍は、江戸幕府が朱印船貿易を許可し、海外との交流が…
江戸幕府の初代将軍である徳川家康は、大名や商人に海外渡航を許可する朱印状を発行し、貿易を統制・奨励した。幕府は、キリスト教の禁教と貿易の独占的統制を目的に、外国との交流を制限する鎖国政策を進め、宗門改などの制度でキリスト…
江戸幕府は、国内の金銀の流出を防ぐため、長崎貿易における貿易額や品目を制限し、特に銅の輸出を管理した。江戸時代中期、老中田沼意次は、財政再建のため長崎貿易を活発にし、俵物などの海産物の輸出を奨励した。長崎貿易において、中…
江戸幕府の3代将軍である徳川家光が制度化し、大名の経済力を削ぎ、反乱を防止することを目的とした制度。大名が1年おきに江戸と領地を往復し、妻子を人質として江戸に住まわせることを義務づけた。大名の移動に伴い街道や宿場町が整備…
日本の歴史において、鎌倉・室町幕府の時期を中世、明治政府による改革以降を近代と区分するのに対し、織田信長による統一事業から江戸幕府の時期を近世と呼ぶ。近世は、戦国時代を終わらせた織田信長や豊臣秀吉による天下統一事業から始…
江戸幕府は、キリスト教の布教を禁じ、信者であるキリスト教徒に対して厳しい弾圧を行った。1637年、九州の島原・天草地方では、キリスト教徒への迫害と重い年貢に苦しむ農民たちが大規模な一揆を起こした。この一揆は天草四郎を大将…
江戸時代、農民が年貢の取り立てや飢饉に苦しんだり、キリスト教徒が弾圧されたりしたことなどを背景に、百姓やキリスト教徒が支配層に反抗する動きとして一揆が起こった。1637年に九州で起こった大規模な島原・天草一揆は、キリスト…
天草四郎は、1637年に九州の島原・天草地方で起こった、キリスト教徒や農民による大規模な一揆の指導者とされている。この一揆は、キリスト教徒への迫害や重い年貢に苦しんだ農民らが中心となって起こした反乱である。一揆は幕府軍に…
1637年に、現在の長崎県から熊本県にかけての地域で、キリスト教徒や農民たちが天草四郎を首領として起こした大規模な一揆である。その背景には、江戸幕府による厳しいキリスト教の禁教政策と、藩による重い年貢の取り立てに対する不…
16世紀にフランシスコ=ザビエルによって日本に伝えられたが、江戸幕府は支配体制を揺るがすことを恐れて禁止した宗教。禁教を徹底するため、江戸幕府は宗門改を実施し、1639年にはポルトガル船の来航を禁止、1637年には島原・…
江戸幕府は、キリスト教が一揆などの社会不安を引き起こすことを警戒し、禁教を強化した。キリスト教の布教を徹底的に排除するため、幕府は1639年にポルトガル船の来航を禁止した。禁教を徹底する中で、幕府はキリスト教徒に絵踏を行…
ポルトガルは、江戸時代初期に日本との南蛮貿易を行い、キリスト教を伝えた国の一つである。江戸幕府は、キリスト教の禁教を徹底するため、1639年にポルトガル船の来航を全面的に禁止した。このポルトガル船の来航禁止により、江戸幕…
16世紀に、日本がポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国と行った貿易を南蛮貿易と呼ぶ。南蛮貿易によって、日本には鉄砲やキリスト教、そしてカステラなどの南蛮文化が伝えられた。江戸幕府は、キリスト教の広がりを警戒し、163…
徳川家光の時代に、キリスト教の禁止を徹底するため、日本人の海外渡航や帰国を禁止し、1639年にはポルトガル船の来航も禁止して鎖国体制を確立した。鎖国中も、長崎の出島でオランダや中国と、対馬藩を通じて朝鮮と、薩摩藩を通じて…
江戸幕府は、キリスト教の布教を行わないことを条件に、唯一ヨーロッパで長崎の出島での貿易をオランダに許可した。オランダは、日本のしょうゆや茶などをヨーロッパに伝え、日本の窓口として重要な役割を果たした。オランダは、海外の情…
江戸幕府は、キリスト教の禁止を徹底し、貿易を統制する鎖国政策の一環として、1641年に平戸から長崎の出島にオランダ商館を移した。オランダ商館は、長崎に築かれた扇形の出島に置かれ、江戸時代の日本にとって唯一のヨーロッパとの…
江戸時代、幕府が海外情勢を知るために、長崎の出島に来航したオランダ船の商館長に提出させた報告書をオランダ風説書という。オランダ風説書は、幕府が鎖国体制下で世界情勢を知るための、極めて重要な情報源となった。オランダ風説書は…
江戸幕府の三代将軍として、武家諸法度を整備し、幕府の支配体制を確立した。大名に参勤交代を義務づけ、妻子を江戸に住まわせることで、大名の経済力を弱め、幕府への反抗を防いだ。日本人の海外渡航や帰国を厳しく禁じ、長崎の出島にオ…
蝦夷地(現在の北海道)を中心に独自の文化を築き、生活していた先住民族。江戸時代、幕府から蝦夷地での交易を独占する権利を認められた松前藩と、鮭などの海産物と米などを交換する交易を行っていた。松前藩による不当な交易に対し、1…
松前藩は、江戸時代に現在の北海道にあたる蝦夷地を支配し、アイヌの人々との交易を独占して利益を得ていました。江戸幕府が対外交流を制限する鎖国体制下において、松前藩は長崎・対馬・薩摩とともに「四つの窓口」の一つとして、アイヌ…
河村瑞賢は、江戸時代初期に豪商として活躍し、幕府の命を受けて海運の整備に尽力した。特に、東北地方などから江戸へ年貢米を輸送するため、日本海側を回る西廻り航路と太平洋側を回る東廻り航路を整備した。これらの航路整備により、各…
江戸時代、幕府の命を受けた河村瑞賢によって、東北地方などの年貢米や特産物を大坂へ運ぶために整備された。日本海沿岸の港から下関を経由し、瀬戸内海を通って大坂に至る航路で、北前船などが活躍した。この航路の整備により、大坂は天…
徳川綱吉は、武力による統治から学問や礼儀を重んじる文治政治へと転換し、身分秩序を重視する朱子学を幕府公認の学問として奨励した。徳川綱吉は、極端な動物愛護を庶民に求める生類憐みの令を出し、人々の生活に大きな影響を与えた。幕…
江戸時代に、当時の世相や風俗を描いた浮世絵の様式を確立し、その発展に大きく貢献した人物は菱川師宣である。菱川師宣の代表作である肉筆浮世絵見返り美人図は、江戸時代前期の元禄文化を代表する作品の一つである。菱川師宣が描いた浮…
井原西鶴は、江戸時代前期に上方を中心に栄えた元禄文化を代表する人物の一人である。彼は、町人の生活や感情を写実的に描いた浮世草子という小説の形式を確立した。同じ元禄文化期には、人形浄瑠璃の脚本で知られる近松門左衛門も活躍した。
江戸幕府の5代将軍徳川綱吉が発令した、極端な動物愛護を命じる法令の総称である。この法令は、17世紀末の元禄時代に、幕府の文治政治を推進する中で出された。庶民の生活を苦しめ、綱吉の死後に廃止されたことで知られる。
17世紀後半のイギリスで、流血を伴わずに国王を交代させた革命を名誉革命という。名誉革命の結果、議会の権利を認める権利の章典が制定された。この革命と文書により、国王の権力を制限する立憲君主制の基礎が築かれた。
松尾芭蕉は、江戸時代中期に、それまでの娯楽的な俳諧を芸術性の高い文学へと高めた。松尾芭蕉の代表作には、旅の体験を俳句と散文で綴った『おくのほそ道』がある。松尾芭蕉の俳諧は、上方を中心に栄えた元禄文化を代表する町人文化の一…
17世紀のイギリスで起こった名誉革命の後に、国王の権力を制限するために1689年に制定された法律。国王が議会の同意なしに法を停止したり、課税したりすることを禁じ、国民の権利と自由を保障した。この法律により、立憲君主制と議…
君主の権力が憲法によって制限され、議会が政治の中心となる政治体制を立憲君主制という。立憲君主制は、17世紀後半のイギリスで、国王が追放された名誉革命を経て確立された。名誉革命の結果、1689年に制定された権利の章典は、議…
17世紀のイギリスで、国王と議会の対立から流血を伴わずに国王を追放し、新たな王を迎えて議会政治の基礎を確立した革命を名誉革命という。名誉革命後の1689年、イギリスで国王が議会の同意なしに法を停止したり課税したりすること…
江戸幕府が財政難を解消するために行った政策が貨幣改鋳である。特に1695年に実施された元禄の貨幣改鋳では、小判の金の含有量を減らして新貨を発行し、その差額を幕府の利益とした。この貨幣改鋳は、市場に流通する貨幣の価値を低下…
近松門左衛門は、江戸時代中期の元禄文化が栄えた頃、上方を中心とする町人文化の担い手として、井原西鶴らとともに活躍した。彼は劇作家として、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を数多く手がけ、義理と人情の葛藤をテーマにした作品で人気を博…
江戸時代、長崎貿易において清(中国)へ輸出された、いりこや干しあわびなどの加工海産物の総称。徳川吉宗は享保の改革で、また田沼意次も、金銀の流出を防ぎ長崎貿易を活発にするために、俵物の輸出を奨励した。俵物は長崎会所を通じて…
江戸幕府の第八代将軍である徳川吉宗が、財政再建を第一の目的として18世紀前半に行った改革を享保の改革という。この改革では、大名に米を献上させる上げ米の制や新田開発を進めて財政を立て直し、裁判の基準を定めた公事方御定書の制…
江戸幕府の第8代将軍として、財政再建と社会安定を目指し享保の改革を行った人物。改革では、裁判の基準を定めた公事方御定書の制定や、民意を吸い上げる目安箱の設置、キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入制限緩和などを行った。財政…
江戸時代に、幕府や藩に税を納める代わりに、特定の商品の営業を独占する権利を認められた商人の同業者組織を株仲間という。江戸時代中期に、年貢以外の収入を増やすため、商業の発展を利用して幕府の財政を立て直そうとした老中田沼意次…
江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗が、庶民の意見を政治に反映させるために設置した。この制度は、幕府の財政再建と政治の刷新を目指した享保の改革の一環として行われた。目安箱に寄せられた意見は、貧しい人々のための小石川養生所の…
江戸時代に、本居宣長は日本最古の歴史書である古事記を研究し、古事記伝を著した。本居宣長は、仏教や儒教などの外来思想の影響を受ける前の日本固有の精神を究明する国学を大成させた。本居宣長によって大成された国学は、幕末の尊王攘…
江戸時代、大阪と江戸を結ぶ南海路において、酒樽などの生活物資を定期的に輸送し、菱垣廻船とともに活躍した廻船を樽廻船という。樽廻船は主に酒やしょうゆなどの生活必需品を江戸へ運び、消費地である江戸の文化を支え、大阪の経済的繁…
江戸幕府の8代将軍である徳川吉宗が、享保の改革の一環として制定した。裁判や刑罰の基準を定めた法令であり、法律集としても知られる。判例を整理し、裁判を公正かつ迅速に行うための基準を示した。
江戸時代、杉田玄白や前野良沢らがオランダ語のターヘル・アナトミアを翻訳して出版した西洋の医学書は解体新書である。鎖国中の江戸時代に、オランダを通して西洋の学問や文化を学ぶ蘭学が盛んになり、西洋の医学書が翻訳された。177…
江戸時代に、オランダ語の医学書を翻訳し、日本の蘭学発展に貢献した人物は杉田玄白である。杉田玄白は、前野良沢らとともにオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、『解体新書』を出版した。『解体新書』は、1774年に…
江戸時代にオランダ語を通じて西洋の学術を研究する学問が発展したのは、徳川吉宗が享保の改革の一環として漢訳洋書の輸入制限を緩和したことがきっかけである。蘭学の発展を象徴する出来事として、1774年に杉田玄白や前野良沢らがオ…
杉田玄白や前野良沢らが、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳して出版した。これは1774年に出版された、日本で初めての本格的な西洋医学の翻訳書である。この書物の出版は、江戸時代に発展した蘭学の基礎を築き、その後…
ヨーロッパの国々が、アジアやアフリカ、アメリカ大陸などに領土を広げ、その土地を本国の支配下に置き、資源などを獲得するために設けた地域を植民地という。18世紀後半、北アメリカの13植民地は、イギリスからの重い課税に反発し、…
1776年、北アメリカの13植民地が、イギリス本国からの圧政に反抗し、独立を表明するために発表した。この宣言では、すべての人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等であるという普遍的な理念が唱えられた。この宣言…
江戸時代中期に老中となり、深刻な財政難に陥った幕府の立て直しを図った人物は田沼意次である。田沼意次は、年貢以外の収入を増やすため、株仲間の奨励や長崎貿易の拡大など、商業を重視した政策を行った。田沼意次の政治は、後の松平定…
江戸時代、幕府は財政難を解決するため、17世紀後半から18世紀にかけて貨幣の改鋳を行い、貨幣の質を落として発行したが、物価上昇を招いた。1780年代に発生した天明の飢饉などの大規模な飢饉は、農村を荒廃させ、幕府の年貢収入…
江戸時代中期に、浅間山などの火山噴火や冷害が重なり発生した大規模な飢饉。商業重視の政策を進めていた老中田沼意次の政治が行き詰まる原因となり、彼の失脚につながった。多数の餓死者や打ちこわしが発生し、幕府の権威失墜を招くなど…
江戸時代後半、天明の飢饉などの災害に備え、米を蓄えさせた制度。老中松平定信が主導した寛政の改革の一環として実施された。各藩や村に穀物倉を設置して米を貯蔵させ、農村の復興や商品作物の制限と合わせて食糧確保を図った。
江戸時代後期、老中松平定信が、田沼意次政治の後に幕府の財政再建や綱紀粛正を目指して行った改革を寛政の改革という。寛政の改革では、質素倹約を奨励し、江戸に流入した農民を故郷に帰す旧里帰農令や、旗本・御家人の借金を帳消しにす…
江戸時代に米の買い占めや物価上昇に苦しんだ都市の民衆が起こした反乱を打ちこわしという。打ちこわしでは、裕福な商人や米屋の家屋などが破壊された。天明のききんの後に多発し、老中松平定信が行った寛政の改革の背景の一つとなった。
旧里帰農令は、18世紀後半に老中松平定信が主導した寛政の改革の一環として出された法令である。この法令は、都市に流入した農民を出身地の農村に帰し、荒廃した農村の復興を図ることを目的とした。天明の飢饉などで荒廃した農村を立て…
1789年、フランスで圧政の象徴とされたバスティーユ牢獄がパリの民衆に襲撃され、これをきっかけにフランス革命が本格化しました。1789年のフランス革命の際に、自由・平等・博愛を掲げ、人は生まれながらにして自由で平等な権利…
18世紀末、フランスで絶対王政に対する市民の不満が高まり、自由と平等を求めて始まった市民革命をフランス革命という。フランス革命のさなか、1789年にはフランス人権宣言が発表され、自由・平等・国民主権などが主張され、近代民…
18世紀末のフランス革命のさなか、1789年に国民議会で採択された宣言である。人間は生まれながらにして自由で平等な権利を持つことや、国民主権の原理などを主張し、近代民主主義の基礎となった。イギリスの権利の章典やアメリカの…
18世紀後半、老中松平定信が、幕府の財政再建と社会秩序の回復を目指して行った寛政の改革の一環として発令した法令である。この法令は、生活に困窮していた旗本や御家人が、札差と呼ばれる金融業者から借りていた借金を帳消しにするも…
1789年に始まったフランス革命では、絶対王政を倒し、この権利を求めて市民が立ち上がった。人間は生まれながらにして平等な権利を持つこと、そして言論の自由や私有財産の不可侵などが、この権利の具体的な内容である。この権利は、…
江戸時代中期、老中として田沼意次の政治の後に幕府の財政再建と社会秩序の回復を目指して寛政の改革を行った人物。寛政の改革では、質素倹約を奨励し、飢饉に備えて米を蓄えさせる囲米の制や、江戸に流入した農民を故郷に帰す旧里帰農令…
1792年、ロシアの使節ラクスマンは根室に来航し、漂流民の送還と通商を求めた。江戸幕府はラクスマンの通商要求を拒否したが、漂流民を受け入れ、長崎への入港許可証を与えた。ラクスマンの来航を機に、幕府は蝦夷地の調査を命じ、そ…
18世紀末にフランス革命が起こった後、ナポレオンは政権を奪取し、混乱したフランスをまとめ上げた。19世紀初頭に皇帝に就任したナポレオンは、ヨーロッパの大部分を勢力下に置き、その後の各国の政治体制に大きな影響を与えた。ナポ…
伊能忠敬は、江戸時代後期に天文学や測量術を学び、自費で全国の測量を始め、後に幕府の事業として日本地図作成に貢献した。幕府は、外国船の来航に備えて海岸線の調査を強化するため、伊能忠敬に全国の測量を命じ、特に北方地域や蝦夷地…
十返舎一九は、江戸時代後期に滑稽本と呼ばれるジャンルの作品を多く著した。彼の代表作である東海道中膝栗毛は、弥次郎兵衛と喜多八の二人が旅をする様子を面白おかしく描いた物語である。この作品は、江戸を中心に栄えた化政文化を代表…
江戸時代後期に、幕府の命を受けて樺太を探検し、そこが島であることを確認した人物は間宮林蔵である。間宮林蔵の探検は、ロシア船の接近などによる北方警備の必要性が高まったことを背景に行われた。間宮林蔵の探検が行われた19世紀に…
江戸時代後期、外国船の来航が増加したことで、幕府は国防の意識を高め、特にロシア船の南下を警戒して北方警備を強化した。北方警備の一環として、幕府は蝦夷地の調査や伊能忠敬による全国的な測量を命じ、『大日本沿海輿地全図』が作成…
18世紀末から19世紀にかけて、日本近海にはロシアやイギリスなどの外国船がたびたび現れ、江戸幕府は警戒を強めた。幕府は、日本沿岸に近づく外国船を理由を問わず砲撃して追い払う異国船打払令を1825年に発令した。しかし、この…
1825年に江戸幕府が発令した、日本沿岸に接近する外国船を砲撃して追い払うことを命じた法令を異国船打払令という。19世紀に入りロシアなどの外国船が日本近海に現れるようになり、幕府の対外政策が厳しくなった背景がある。この法…
江戸幕府が外国船を1825年に異国船打払令で砲撃するよう命じた。この法令は、日本沿岸に接近する外国船を理由を問わず砲撃し、追い払うことを目的とした。しかし、この強硬な対応は、かえって欧米諸国との関係を悪化させ、開国を求め…
江戸時代後半に、江戸を中心に栄えた町人文化の中で活躍した浮世絵師である。日本各地から富士山を望む景観を題材に、大胆な構図と鮮やかなベロ藍を用いた連作『富嶽三十六景』で知られる。葛飾北斎らの浮世絵は、安価で庶民に親しまれた…
1825年に出された異国船打払令を転換し、1842年に薪水給与令が出された背景には、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことがあった。この法令は、老中水野忠邦が主導した天保の改革の一環として出された。薪水給与令は、日本近海に…
江戸時代後期に、風景画の浮世絵『東海道五十三次』や『名所江戸百景』などを描いた人物は歌川広重である。歌川広重の活躍した江戸時代後期には、東海道などの主要道路の整備が進み、庶民の間で旅や娯楽が盛んになった。歌川広重の浮世絵…
江戸時代、全国の物資が集まり商業や流通の中心地となった大坂は、天下の台所と呼ばれました。諸藩が年貢米や特産物を保管・販売するために蔵屋敷を設置し、北陸や東北からの物資は西廻り航路で運ばれました。米の買い占めなどによる価格…
大塩平八郎は、元大坂町奉行所の役人であり、陽明学を学んだ人物で、貧しい人々を救うために立ち上がった。大塩平八郎は、飢えに苦しむ人々を救うため、1837年に大坂で反乱を起こした。この反乱は、天保のききんによる社会不安が高ま…
天保の飢饉が続く中、幕府や豪商が困窮する人々を救済しなかったことに不満を抱いた。元大阪町奉行所の役人であった大塩平八郎が、困窮した人々を救うため大阪で蜂起した。19世紀前半に起きたこの乱は、幕府の権威を大きく揺るがし、そ…
江戸時代、全国の商業と物流の中心地として栄え、「天下の台所」と呼ばれた都市は大阪である。各地の諸藩は、年貢米や特産物を運び込み、貯蔵・販売するために、この都市に蔵屋敷を置いた。この都市は水運を利用した取引が活発に行われ、…
天保の飢饉は、江戸時代後半に冷害や凶作が原因で発生した大規模な飢饉である。この飢饉により全国的に食糧が不足し、各地で百姓一揆が頻発した。飢饉で苦しむ人々を救うため、1837年には大坂で大塩平八郎の乱が起こった。
19世紀には、18世紀後半にイギリスで始まった産業革命が本格化し、イギリスは「世界の工場」と呼ばれるようになった。19世紀の1840年には、イギリスと清の間でアヘン戦争が起こるなど、欧米列強のアジアへの進出が本格化した。…
1840年に清とイギリスの間で起こり、清が敗北した戦争。この戦争での清の敗北を知った江戸幕府は、それまでの異国船打払令を緩め、薪水給与令を出して対外政策を転換した。この戦争は、日本に軍事力強化の必要性を痛感させ、薩摩藩な…
江戸時代後期、老中水野忠邦が、幕府の権威回復と政治の立て直しを目指して行った改革。物価上昇を抑えるため株仲間を解散させたり、都市に流入した農民を強制的に帰郷させる人返しの法などを実施した。天保の飢饉や大塩平八郎の乱が起こ…
江戸時代、幕府が鎖国体制をとる中で、長崎の出島や唐人屋敷を通じてオランダと並んで貿易を継続した国の一つが清である。江戸時代、日本の薩摩藩の支配下にありながら、中国の皇帝に使節を派遣して朝貢貿易を行った琉球王国と関係が深か…
江戸時代後期、老中水野忠邦が、1841年から始まった天保の改革の一環として行った。物価の高騰を抑えるため、営業を独占していた株仲間に解散を命じた。この政策は期待された効果が得られず、かえって流通が混乱し、改革の失敗の一因…
水野忠邦は、江戸時代後期に老中として幕府の権威回復を目指した人物である。彼は、天保の飢饉などで社会が混乱する中、天保の改革と呼ばれる幕政改革を主導した。この改革では、物価高騰を抑えるために株仲間を解散させたり、厳しい倹約…
蒸気機関は、18世紀後半にイギリスでワットによって改良され、その後の産業発展の基礎となった。蒸気機関は、工場制機械工業の主要な動力源となり、特に綿織物などの生産力を飛躍的に増大させた。蒸気機関の普及は、生産様式を工場制手…
17世紀後半、イギリスでは名誉革命によって国王の権力が制限され、権利の章典が制定されて立憲君主制と議会政治の基礎が確立された。18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、蒸気機関の改良と工場制機械工業の導入により、経済や…
17世紀に徳川家康が奨励した朱印船貿易や、江戸時代に長崎の出島を通じて行われた貿易で、日本は中国や東南アジア、朝鮮などから生糸を輸入した。生糸は江戸時代の主要な輸入品の一つであり、日本は主に銀や銅などを輸出品としていた。…
江戸時代、蝦夷地では松前藩がアイヌ民族との交易を独占し、海産物や毛皮などを入手して全国へ流通させた。幕府は、老中田沼意次が蝦夷地の開拓を計画したり、間宮林蔵に調査を行わせたりするなど、蝦夷地への関心を高めた。蝦夷地は、ア…
江戸時代後期に、現在のサハリンである樺太が島であることが確認されました。幕府の命を受けて樺太を調査し、それが島であることを確認した探検家は間宮林蔵です。間宮林蔵による樺太の調査は、江戸幕府が命じた北方探査の一環として行わ…
江戸時代中期、幕府の財政を立て直すために、老中の田沼意次が商業を重視して導入した税を営業税という。営業税は、幕府が公認した商人の同業者組織である株仲間に独占的な営業権を与える代わりに徴収された。営業税は、別名運上や冥加と…
江戸幕府はキリスト教の布教を禁じるため鎖国を行い、貿易をオランダと中国(清)に限定して長崎で行った。中国(清)との貿易は、長崎の唐人屋敷を拠点に行われ、日本からは主に銅などが輸出された。江戸時代、日本の薩摩藩の支配下にあ…
17世紀のイギリスでは、流血を伴わずに国王を交代させ、権利の章典を制定して議会政治の基礎を確立した出来事があった。17世紀に入ると、日本が東南アジア諸国と直接貿易を行うようになり、琉球王国の仲介役としての必要性が低下した…
18世紀後半、イギリスの植民地であったアメリカが独立を宣言し、アメリカ合衆国を建国した。同じく18世紀後半、フランスでは絶対王政を倒し、自由や平等を求めてフランス革命が起こった。日本の江戸時代では、8代将軍徳川吉宗が享保…
アユタヤは、現在のタイに位置し、かつてシャムと呼ばれた国の都として栄えました。江戸時代初期の朱印船貿易の拠点の一つとして、多くの日本人が移り住み、日本町が形成されました。この日本町では、山田長政のような日本人が活躍し、現…
マニュファクチュアとは、資本家が仕事場を設け、労働者を集めて製品を生産する形態である。この生産形態では、労働者が分業と協業により手作業で効率的に製品を作る。江戸時代後期、特に19世紀に工業の発展とともに現れ、後の工場制機…
江戸時代後半、1792年にラクスマンが、また1804年にはレザノフが、漂流民の送還と通商を求めて日本に来航した。幕府は鎖国体制を理由に通商を拒否し、北方の防衛を強化するため蝦夷地を直轄化したり、異国船打払令を出したりして…
江戸時代、経済の中心地として栄え、特に京都や大阪を指す地域を上方と呼んだ。17世紀末から18世紀初めの江戸時代中期には、上方を中心に町人が担い手となり、元禄文化が栄えた。18世紀後半から19世紀初めにかけて、文化の中心は…
江戸幕府によって整備された五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ主要な街道の一つである。東海道が海沿いを通るのに対し、中山道は内陸を通る街道として知られ、現在の群馬県と長野県の境にある碓氷峠などの難所があった。参勤交代の大名行…
江戸時代に三味線の伴奏に合わせた太夫の語りとともに、人形を操って演じられた庶民に人気の伝統芸能である。江戸時代に町人の経済力向上を背景に発展し、特に元禄文化を代表する芸能の一つとして栄えた。近松門左衛門が脚本を書き、義理…
江戸時代に、踊りを起源とする歌舞伎や、人形と語りが一体となった人形浄瑠璃などの伝統芸能が発展した。歌舞伎は、江戸時代初期に出雲の阿国が始めた踊りが起源とされ、民衆の間で広まった。人形浄瑠璃は、江戸時代に近松門左衛門が脚本…
豊臣秀吉の朝鮮侵略で断絶した国交を回復させ、江戸幕府の将軍の代替わりなどを祝うために、朝鮮国王から日本へ派遣されたのが使節である。この使節は、主に対馬藩の仲立ちによって実現し、江戸幕府が朝鮮との間で築いた善隣外交の象徴と…
江戸時代前期に、俳諧を芸術性の高い文学へと高めた人物は松尾芭蕉である。俳諧は、それまでの娯楽的なものから、江戸時代前期から中期にかけて芸術性の高い文学へと発展した。松尾芭蕉が著した、旅の経験を元にした紀行文はおくのほそ道…
儒学は、紀元前6世紀ごろの中国で孔子が説いた教えをもとに発展し、江戸時代には特に身分の秩序を重んじる朱子学が幕府や諸藩に奨励された。江戸幕府は、5代将軍徳川綱吉の時代に儒学を重んじる文治政治へと転換し、幕政の安定に利用し…
儒教の一派である朱子学は、主従関係や上下の秩序を重んじる教えで、江戸幕府が武士の道徳や政治の指針として奨励しました。江戸幕府は、政治の安定を図るため、儒教の一派である朱子学を正学とし、昌平坂学問所などで武士に奨励しました…
江戸時代前期の17世紀末から18世紀初めにかけて、上方(京都・大阪)を中心に栄えた町人文化を元禄文化という。この文化を代表する人物として、浮世草子の井原西鶴、人形浄瑠璃の近松門左衛門、俳諧の松尾芭蕉らが活躍した。第5代将…
江戸時代初期、幕府は貿易を統制し、外国人の居住を制限するために、長崎に人工島である出島を築いた。鎖国政策が確立された後も、出島はオランダと清(中国)との貿易を許された唯一の窓口として機能した。出島は、日本の鎖国体制下で、…
分業とは、一つの製品を作る工程をいくつかに分け、それぞれの工程を専門の働き手が分担して作業することで、生産効率を高め、製品を大量に生産する仕組みである。江戸時代後期に、資本家が仕事場に多くの労働者を集め、手作業による分業…
江戸時代後期の19世紀前半、江戸を中心に栄えた町人文化を化政文化という。化政文化では、庶民の生活や風景を描いた浮世絵が流行し、葛飾北斎や歌川広重が活躍した。文学では、十返舎一九の東海道中膝栗毛や、滝沢馬琴の南総里見八犬伝…
江戸時代に、日本海沿岸の物資を大坂へ運ぶために河村瑞賢によって整備された西廻り航路を利用した商船を北前船という。北前船は、東北や北陸の米や海産物、特産物を大坂へ運び、寄港地となった山形県の酒田などの港町を繁栄させた。北前…
千歯こきは、稲や麦の脱穀を効率的に行うために、複数の鉄の歯を持つ農具として江戸時代に発明されました。この農具の普及により、それまで手作業で行われていた作業が大幅に効率化され、コメなどの生産量が飛躍的に向上しました。千歯こ…
江戸時代後期に本居宣長が三十五年以上をかけて完成させた、古事記の注釈書である。仏教や儒教などの外来思想の影響を受ける前の日本固有の精神を究明しようとした。この書によって国学を大成させ、幕末の尊王攘夷運動にも大きな影響を与…
江戸時代には、同業者で株仲間を組織し、幕府は田沼意次の時代にこれを公認・奨励して財政収入を増やそうとした。経済が発展する中で、仕事場を設け賃労働者を集めて分業で生産を行う工場制手工業(マニュファクチュア)の担い手となる者…
江戸時代、農民が自家消費や年貢のためではなく、市場で売って現金を得るために栽培した作物を商品作物という。商品作物の栽培が広がるにつれて、農村でも貨幣経済が普及し、綿花などの栽培には干鰯などの高価な肥料が使われるようになっ…
江戸時代、商工業者は同業者組織である株仲間を結成し、営業の独占や利益の最大化を図った。18世紀後半、老中田沼意次は、幕府財政の立て直しのため、商工業者の株仲間を公認して営業税を納めさせた。株仲間の公認は、特定の業者以外の…
江戸時代、全国の年貢米や特産物が集まり、商業・物流の中心地として「天下の台所」と呼ばれた都市は大坂である。江戸時代中期、老中の田沼意次は、商工業者の同業者組織である株仲間を公認し、運上金や冥加金を徴収して幕府の財政再建を…
江戸幕府は、鎖国政策をとりながらも、四つの口と呼ばれる外交や貿易の窓口を設け、限定的な対外関係を維持しました。四つの口とは、長崎(オランダ・中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球王国)、松前(アイヌ民族)の四箇所を指します。こ…
江戸時代中期に、日本の古典を研究し、日本固有の精神を究明する国学を本居宣長が『古事記伝』を著して大成させた。この学問は、仏教や儒教などの外来思想の影響を受ける前の日本固有の精神を追究することを目的とした。国学は、幕末の尊…
江戸時代に、江戸幕府が大名の領地を一方的に変更する制度を国替という。国替は、幕府が大名の力を削ぎ、その統制を強化する目的で行われた。この制度は、幕府が領地の支配・決定権を持つ強力な存在であったことを示している。
戦国時代から江戸時代にかけて、大名の居城を守るために、その周囲に堀などの防御設備が設けられ、都市が形成された。敵の侵入を防ぐため、道路をわざと曲げたり突き当たりを設けたりする工夫や、多くの寺院を集中的に配置する例も見られ…
江戸幕府は、徳川氏との関係によって大名を分類し、関ヶ原の戦い以降に服従した大名を外様大名と呼んだ。幕府は、外様大名が反乱を起こすことを警戒し、彼らを江戸から離れた遠隔地に配置した。特に九州などの重要地域では、外様大名への…
江戸時代、各地の藩を治め、将軍に仕えた1万石以上の領地を持つ武士を大名と呼んだ。江戸幕府は、大名を統制するために武家諸法度を制定し、また一年おきに領地と江戸を往復させる参勤交代を義務付けた。徳川氏との親疎の度合いによって…
江戸時代後期には、働き手を一つの作業場に集め、製品を分業によって効率的に生産する形態が現れた。このような生産形態は、特に19世紀に発展し、マニュファクチュアとも呼ばれる。これにより、それまでの家内工業とは異なり、製品を大…
江戸時代、江戸幕府は五街道を整備し、大名の参勤交代や物資の流通、旅人の宿泊・休息のために宿場を置いた。宿場には、一般の旅人が利用する旅籠のほか、大名や幕府の役人が宿泊する本陣などが設けられた。宿場の整備により、庶民が寺社…
「富嶽三十六景」は、江戸時代に活躍した葛飾北斎が描いた浮世絵の風景画である。日本各地から富士山を望む景観を、斬新な構図や「ベロ藍」と呼ばれる鮮やかな青色を用いて描いた連作である。江戸時代後半に発展した庶民文化を代表する作…
寺子屋は、江戸時代に庶民を対象として普及した教育機関です。寺子屋では、読み・書き・そろばんなどの実用的な知識が教えられました。寺子屋が農村まで広く普及した背景には、貨幣経済の普及や人々の生活水準の向上がありました。
江戸幕府は、鎖国体制下においても、長崎、薩摩、松前、そして対馬の四つの窓口を通じて、諸外国や周辺地域との交流を維持しました。対馬は、江戸時代に対馬藩が仲立ちとなり、朝鮮との外交や貿易の窓口としての役割を果たしました。将軍…
江戸時代の鎖国体制下で、対馬藩は朝鮮との外交や貿易の実務を担い、釜山に設置された倭館を通じて交易を行いました。豊臣秀吉の朝鮮侵略後に断絶した国交を回復させ、対馬藩の仲立ちにより、将軍が代わるごとに朝鮮通信使が日本へ派遣さ…
江戸時代、幕府や諸藩が財政難を解決し、年貢以外の収入を増やすために行った政策。特定の産物(特産品)の生産を奨励し、それを幕府や藩が独占的に販売することで利益を得る仕組み。田沼意次の政策として知られ、江戸時代後期には藩政改…
江戸幕府の最高権力者である将軍は、諸大名に参勤交代を義務づけるなどして、全国を統制しました。将軍の代替わりや就任を祝うため、朝鮮からは朝鮮通信使が、琉球王国からは使節が派遣されました。江戸幕府の将軍の中には、八代将軍徳川…
江戸時代に流通した金貨の一種で、その価値は含まれる貴金属の含有量によって決まった。徳川綱吉の時代には、幕府財政の悪化を補うために金の含有量を減らした元禄小判が発行された。貨幣の質が物価に影響を与え、後に正徳小判のように金…
江戸時代後期、特に19世紀頃に現れた、新しい生産の場を工場と呼ぶ。工場では、資本家が多くの働き手を集め、分業や協業によって製品を効率的に生産した。このような生産形態は、特にマニュファクチュアとも呼ばれる。
江戸時代後期に、資本家が労働者を工場や作業場に集め、分業と協業によって手作業で製品を効率的に生産する形態を工場制手工業という。この生産形態はマニュファクチュアとも呼ばれ、農民が自宅で製品を作る問屋制家内工業とは異なる。工…
18世紀後半から末にかけて、ヨーロッパのフランスなどで起こった、市民が中心となって社会を変革しようとする動きを市民革命という。市民革命は、国王が絶対的な権力を持つ絶対王政を倒し、自由や平等などの基本的人権と民主主義の確立…
江戸幕府が直接支配した土地を幕府領といい、その石高は日本全体の約24%を占めていた。経済の中心地である大坂や、銀の産地である石見銀山など、重要な場所が幕府領とされた。幕府領は幕府の財政を支える基盤であり、年貢収入を増やす…
江戸時代に、鰯を乾燥させて作られた肥料で、特に綿花などの商品作物の栽培に広く利用されました。江戸時代中期以降、農業の集約化に伴い普及した、現金で購入する肥料は金肥と呼ばれ、干鰯はその代表例として商品作物の栽培を支えました…
江戸時代、幕府や藩が農民から徴収した税のことで、主に米が納められた。幕府は、農民が土地を失い没落するのを防ぎ、安定した年貢収入を確保するため、田畑永代売買禁止令などを出した。徴収された年貢米は、諸藩が蔵屋敷を設置した大坂…
江戸時代後期には、都市の経済力を背景に、庶民が文化の主要な担い手となりました。この文化は江戸を中心に栄え、特に19世紀初めには化政文化として発展しました。具体的には、浮世絵や歌舞伎、滑稽本などが庶民に広く親しまれました。
江戸時代後期、東海道などの交通網が整備され、物資の流通が盛んになったことで、庶民が旅や娯楽を楽しむようになり、庶民文化が栄えた。この文化では、庶民の生活や風景を描いた浮世絵や、十返舎一九による『東海道中膝栗毛』のような滑…
江戸時代後期に発達した、資本家が仕事場を設け、多くの労働者を集めて分業により手作業で製品を生産する形態。この生産形態は、江戸時代後期に商品経済の発展を背景に広まった。後の工場制機械工業へとつながる、近代的な生産様式の萌芽…
江戸時代に幕府や諸藩が財政再建や食料増産を目的に行った耕地拡大政策で、特に徳川吉宗による享保の改革で積極的に推進された。荒れ地や海辺を切り拓いたり、灌漑施設を整備したりすることで、新たに耕作地を増やす取り組みであった。こ…
日光東照宮は、江戸幕府を開いた初代将軍である徳川家康を神として祀るために造営されました。3代将軍の徳川家光によって大規模な造替が行われ、豪華な彫刻や彩色が施された現在の社殿の姿となりました。この霊廟は、現在の栃木県日光市…
江戸時代後期に、幕府の命を受けて日本全国の海岸線を実際に測量し、正確な日本地図の作成に尽力した人物は伊能忠敬である。この日本地図は、西洋の測量術を取り入れ、日本全国の沿岸を実測することで、それまでの地図に比べて極めて高い…
江戸時代初期、徳川家康が朱印状を与えて海外渡航を許可した朱印船貿易により、日本人が東南アジアに進出した。東南アジア各地に進出した日本人は、タイのアユタヤなどに日本町と呼ばれる居住地を形成した。キリスト教の禁止政策の強化と…
日本の歴史は、大きく古代・中世・近世・近代・現代といった時代区分に分けられます。日本史における近世は、織田信長や豊臣秀吉による天下統一から始まり、江戸時代が終わるまでの期間を指します。近世は、武家政権が確立し、幕藩体制に…
江戸時代、豊臣秀吉の朝鮮侵略で断絶した国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が日本へ派遣された。江戸幕府は鎖国政策をとる中で、朝鮮との外交や貿易の窓口を対馬藩に独占的に担わせた。対馬藩は朝鮮の釜山に設置された倭館を…
朱子学は、中国の儒教から発展した学問で、主従関係や上下の身分秩序を重んじる教えである。江戸幕府は、社会を安定させるため、特に徳川綱吉の時代から朱子学を公認の学問として奨励し、昌平坂学問所などで教えさせた。寛政の改革を主導…
江戸時代初期に、徳川家康が海外渡航を許可する朱印状を与えて、東南アジア諸国と貿易を行いました。この貿易は朱印船貿易と呼ばれ、ルソンやタイ、ベトナムなど東南アジア各地へ多くの船が渡航しました。東南アジア各地には日本町が形成…
東海道は、江戸幕府によって整備された五街道の一つで、江戸と京都・大坂方面を結ぶ主要な街道として機能した。東海道は、江戸の日本橋を起点とし、大名行列や庶民の旅だけでなく、将軍の代替わりごとに来日した朝鮮通信使も通行した。東…
「東海道中膝栗毛」は、江戸時代後期に十返舎一九によって書かれた滑稽本である。この作品は、弥次郎兵衛と喜多八の二人が、江戸から伊勢参りなどへ向かう道中を面白おかしく描いている。町人文化が発展した江戸時代後期に庶民の間で広く…
東海道五十三次は、江戸時代後期に歌川広重が描いた浮世絵の代表作である。江戸幕府が五街道などの主要道路を整備したことで、庶民の旅や娯楽が盛んになり、その様子が描かれた。その大胆な構図と色彩は、後の印象派など海外の画家にも大…
江戸時代後半の1792年、ロシアの使節ラクスマンが、漂流民を送還し通商を求めて根室に来航した。ラクスマンは、伊勢の漂流民であった大黒屋光太夫を送り届けるために根室へ来た。ラクスマンは日本との通商を求めたが、当時の老中松平…
歌舞伎は、17世紀初めに出雲の阿国が京都で始めた「かぶき踊り」を起源とする伝統芸能である。江戸時代に都市の経済力を背景に町人の娯楽として発展し、踊りから演劇へと変化して絶大な人気を誇った。幕府による規制を受けながらも庶民…
江戸時代、武士は支配階級として、将軍から直接1万石以上の領地を与えられた大名を頂点とする身分制度を形成し、藩校などで学問や武道を学んだ。江戸幕府は、政治の安定を図るため、儒教の一派である朱子学を武士に奨励し、昌平坂学問所…
江戸時代、徳川将軍のお膝元として、政治と軍事の中心地であり、諸大名に参勤交代を義務付けることで幕府の支配体制を確立した。江戸は、世界有数の人口を抱える消費地として発展し、江戸時代後期には化政文化など庶民を担い手とする文化…
浮世絵は、江戸時代後期に化政文化の中心として、庶民の生活や風俗を描いた絵画として発展した。多色刷りの版画技術が発達し、錦絵と呼ばれる鮮やかな色彩の作品が、美人画や役者絵、風景画として流行した。葛飾北斎の「富嶽三十六景」や…
浮世草子は、江戸時代前期の元禄文化を代表する文学で、特に井原西鶴がその形式を確立した。この文学は、当時の町人の生活や世相を写実的に描いた小説である。主に上方(京都・大阪)を中心に発展し、多くの人々に親しまれた。
江戸時代、蝦夷地を支配した松前藩は、アイヌの人々と鮭などの海産物と米などを交換して利益を得ていた。江戸時代、長崎貿易では清(中国)へ、乾燥させたアワビやフカヒレなどの海産物(俵物)が輸出された。江戸幕府の老中田沼意次は、…
江戸時代に、幕府の命を受けて日本全国の沿岸を測量した人物は伊能忠敬である。測量には、実際に歩いて距離を測る実測や、西洋の測量術が用いられた。この測量によって、日本で初めての正確な全国地図である大日本沿海輿地全図が作成された。
江戸時代に発達した、町人の風俗や風景などを描いた絵画で、多色刷りの版画である錦絵の普及により、庶民の間で広く親しまれた芸術形式を浮世絵という。江戸時代に、庶民の娯楽として町人文化の中で発展し、大量生産されたことで広く普及…
17世紀後半から18世紀にかけて、幕府が財政難を解決するために行った貨幣の改鋳は、物価上昇の一因となった。江戸中期には、米の増産によって米の価値が相対的に下がり、他の諸物価が上昇する現象が見られた。天保の改革では、水野忠…
江戸幕府が財政難を補うために行った貨幣の改鋳は、貨幣価値を下げ、物価の上昇を招きました。物価の上昇を抑えるため、水野忠邦が天保の改革で行った政策の一つに、株仲間の解散があります。物価の上昇は、庶民の生活を苦しめ、社会に経…
江戸時代、特定の集団に与えられた独占的な営業権や地位を「特権」と呼びました。このような特権は、座や株仲間といった同業者組織に与えられ、特定の商品の生産や販売を独占させました。特に田沼意次の政治では、株仲間の結成を奨励し、…
江戸時代、諸藩は年貢米や特産物を販売・保管するために、物流の中心地である大阪に蔵屋敷を設置した。江戸時代後期、財政難に苦しむ諸藩は、特産物の生産を奨励し、藩が独占的に販売する専売制を行うことで、財政の立て直しを図った。各…
江戸時代に幕府や藩が商人の同業者組織に特定の商品の営業を認めた権利を指す。老中田沼意次は、幕府の財政再建のため、この権利を認める代わりに運上金や冥加金を徴収した。薩摩藩が奄美大島などで生産された砂糖を安く買い上げ、独占的…
18世紀後半にイギリスで始まり、蒸気機関の発明などによる生産技術の向上と社会構造の変化をもたらした出来事を産業革命という。産業革命は、蒸気機関の発明や綿織物生産の機械化によって、工場での大量生産を可能にした。産業革命によ…
町人は江戸時代の身分制度において、武士の下に位置し、主に商業や手工業を営んだ人々を指す。17世紀末から18世紀初めにかけて、経済力をつけた町人たちは、上方(京都・大阪)を中心に、明るく活気のある元禄文化の担い手となった。…
江戸時代に上方や江戸などの都市で、経済力を蓄えた町人を担い手として発展した文化を町人文化という。町人文化では、庶民に親しまれた歌舞伎や浮世絵、人形浄瑠璃などの芸能や芸術が栄え、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などの文学も生…
江戸時代、農民が租税の軽減や不正の是正などを求めて起こした集団的な抵抗運動を百姓一揆という。百姓一揆は、特に享保・天明・天保の三大飢饉など、冷害や凶作による食料不足を背景に頻発した。幕府は松平定信による寛政の改革で農村復…
江戸時代に幕府が直接支配した土地を直轄地といい、重要な拠点である佐渡金山や江戸などが含まれた。直轄地は日本全体の総石高の約24%を占め、幕府の財政基盤を支え、その権威を強める役割を担った。江戸時代後期には、老中水野忠邦が…
豊臣秀吉が行った検地によって、土地の生産力を米の量で表す単位として確立された。江戸時代には、徳川将軍から与えられた領地の規模を示す基準となり、1万石以上で大名とされた。18世紀後半以降、各藩の財政立て直しのため新田開発な…
16世紀にフランシスコ=ザビエルによって伝えられたキリスト教は、江戸幕府によって禁止された。江戸幕府は、体制維持とキリスト教の徹底した禁止を目的として、鎖国政策を行った。キリスト教への弾圧が強まる中、重い年貢の取り立てに…
江戸時代、幕府や藩は、主に農民から年貢として米を徴収することで財政を支えていた。江戸時代中期、老中田沼意次は、商業の発展を利用して幕府の財政を立て直すため、商業からの税収を増やそうとした。田沼意次は、商人の同業者組織であ…
江戸時代、幕府は鎖国体制下で、特定の国や地域との外交・貿易を行うために、いくつかの窓口を設けました。これらの窓口は、朝鮮との関係を担った対馬、琉球王国との関係を管理した薩摩、中国やオランダとの貿易を行った長崎、そしてアイ…
江戸時代、米は年貢の基本であり、松前藩がアイヌの人々と交易する際の主要な品物でもあった。江戸時代には、米の買い占めや価格高騰により、都市の貧しい人々が裕福な商人や米屋を襲う打ちこわしがたびたび発生した。寛政の改革を進めた…
江戸時代、幕府は全国の大名を統制するため、武家諸法度を制定した。武家諸法度では、城の無断修理や婚姻の禁止、そして参勤交代の義務化などが定められた。これらの統制により、幕府は権威を確立し、全国支配を安定させた。
国王が貴族や教会の力を抑え、強大な権力をもって国を治める政治体制を絶対王政という。18世紀のヨーロッパで多く見られ、特にフランスのルイ14世やオーストリアのマリア・テレジアが有名である。18世紀後半、フランスでは市民が絶…
18世紀後半のイギリスで、輸入された綿製品の人気を背景に、国内での生産と大量生産に向けた技術革新が進んだ。ワットが蒸気機関を改良したことにより、綿織物などの工業生産力が飛躍的に増大し、大量生産が可能になった。産業革命後の…
江戸時代中期、農村では綿花が自家消費や年貢のためではなく、市場で売って現金を得るための商品作物として栽培された。江戸時代には新田開発が進んで農地面積が拡大し、綿花などの商品作物の栽培が盛んになった。綿花栽培が盛んになるに…
江戸時代に、西洋の医学書を日本語に直して出版された、日本初の本格的な西洋解剖学書は解体新書である。杉田玄白や前野良沢らが、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した。このような西洋の学問を日本語に直す活動は、江…
江戸幕府において、将軍を補佐し、幕政全般を統括した最高職で、その下には三奉行などの役職が置かれた。18世紀後半、田沼意次の政治の後に、質素倹約や武道の奨励などを進める寛政の改革を行った老中として松平定信が知られる。商業を…
江戸時代、幕府や各藩は年貢収入を増やすため、新しい耕作地の開拓である新田開発を奨励した。新田開発の推進により、それまで使われていなかった原野などが開墾され、耕地は大幅に拡大した。耕地の拡大と千歯こきなどの農具の普及、農業…
江戸時代には、農業生産性を高めるために、都市の排泄物を利用した下肥や、現金で購入する金肥として干鰯や油かすなどが広く使われた。これらの肥料は、米だけでなく綿花などの商品作物の栽培を支え、農業生産の向上に大きく貢献した。高…
収穫した稲や麦の穂から、籾を効率よく落とす作業を脱穀という。江戸時代には、多数の鉄の歯で稲穂から籾を落とす千歯こきが発明され、脱穀作業が大幅に効率化された。このような農具の普及により、江戸時代の農業生産性は大きく向上した。
江戸時代、諸藩が年貢米や特産物を運び込み、貯蔵・販売するために大阪などの都市に置いた施設を蔵屋敷といいます。蔵屋敷が多数置かれた大坂は、全国の物資が集まる商業や流通の中心地となり、天下の台所と呼ばれました。蔵屋敷での取引…
江戸時代後期、多くの藩が財政難に陥ったことを背景に行われた。藩政改革では、特産物の生産を奨励し、それを藩が専売することで利益を得た。藩の収入を増やし、逼迫した財政を立て直すことを目的とした。
「見返り美人図」は、江戸時代前期の元禄文化を代表する、肉筆浮世絵の傑作である。この作品を描いたのは、「浮世絵の祖」と称される菱川師宣である。当時の華やかな服飾文化を反映しており、後ろを振り返る女性の姿が描かれている。
江戸幕府は、全国の大名を徳川氏との関係性によって、親藩・譜代大名・外様大名の三つに分類して統治した。親藩とは、徳川氏の親戚にあたる大名のことで、幕府の重要な地位には就かなかった。親藩の中でも特に重要なのは、尾張・紀伊・水…
江戸時代、徳川将軍を頂点とする幕藩体制のもと、全国の大名がそれぞれの領地を治めていた。諸藩は、年貢米や特産物を販売するために、大坂などの主要都市に蔵屋敷を設置した。諸藩は、武士に学問や武道を教え、人材を育成するために藩校…
江戸時代、幕府や藩は財政難に苦しみ、第5代将軍徳川綱吉の時代には貨幣の質を落として発行し、第8代将軍徳川吉宗は享保の改革で新田開発や年貢増収を図った。江戸時代中期には、新井白石や田沼意次が特産物の生産奨励や専売制を導入し…
江戸幕府は、金山・銀山を支配し、全国統一の貨幣として金貨・銀貨・銭貨の「三貨」を発行し、貨幣経済を普及させた。江戸時代中期以降、農村でも商品作物の生産が広がり、肥料などの購入や販売に貨幣が使われるようになり、自給自足から…
江戸時代には、農村で自家消費ではなく市場で売って現金を得るための商品作物の栽培が広がり、貨幣経済が浸透していった。貨幣経済の広がりとともに、各地で手工業が発達し、経済活動が活発になった。農民の生活も自給自足から物資を購入…
江戸幕府は、オランダや中国との貿易を独占し、長崎の出島を唯一の窓口として厳しく管理した。江戸時代初期には朱印船貿易が行われたが、その後は銅や俵物などを輸出し、洋書などの輸入も一部で認められた。ロシアのラクスマンなど外国か…
江戸幕府は鎖国政策のもと、長崎貿易で中国(清)へいりこやふかひれ、干しあわびなどの加工海産物である俵物を輸出しました。琉球王国は薩摩藩を介して中国へ昆布などを輸出し、また奄美や琉球で生産された黒砂糖は薩摩藩の重要な財源と…
江戸時代に確立された身分秩序は、大きく士農工商の四つの身分に分けられ、それぞれに役割と義務が定められていた。江戸幕府は、主従関係や上下の秩序を重んじる朱子学を奨励し、身分秩序を正当化する思想的支柱とした。幕府は、この厳格…
江戸時代、幕府は松平定信が主導した寛政の改革において、江戸に流入した農民を故郷の農村に帰す旧里帰農令などを出し、農村の復興と年貢の安定を図った。江戸時代の農村では、綿や茶などの商品作物の栽培が広まり、自給自足から市場での…
江戸時代には、幕府や諸藩が新田開発を奨励し、干拓や用水路の整備などによって耕地面積が大きく拡大した。農業技術の進歩として、千歯こきや備中ぐわなどの新しい農具が普及し、また下肥などの肥料の利用も進んだ。これらの技術革新によ…
江戸時代、幕府は五人組などの制度で農民を統制し、年貢を徴収したが、重い負担やキリスト教弾圧などから島原・天草一揆のような大規模な反乱も起こった。江戸時代の農民は二毛作などの農業技術の発展により生産性を高め、問屋から原料を…
江戸時代、幕府が農民を監視・統制するために、年貢の納入や犯罪の防止について連帯責任を負わせた制度を五人組という。江戸幕府は、数軒の家を一つのグループとして、年貢の納入や犯罪の防止について互いに監視させ、連帯責任を負わせた…
江戸時代、幕府は大阪や長崎などの重要都市を直轄地(天領)として支配し、政治・経済の中心とした。都市では、米の買い占めや物価上昇に抗議して、民衆が裕福な商人や米屋を襲う打ちこわしが起こった。飢饉などにより農村から都市への人…
江戸時代、金貨などの貨幣の価値は、主にその貨幣に含まれる貴金属の量によって決められていた。徳川綱吉の時代、幕府の財政難を解消するため、小判に含まれる金の含有量を減らす元禄の貨幣改鋳が行われた。金の含有量を減らした貨幣が大…
江戸時代、幕府は金山開発を進め、全国統一の貨幣として金貨・銀貨・銭貨からなる三貨の体系を確立し、貨幣経済を普及させた。江戸時代には、東日本で金貨、西日本で銀貨が主に流通したため、異なる種類の貨幣を交換する両替が盛んに行わ…
江戸幕府は、全国支配の体制を整えるため、佐渡金山などの主要な鉱山を直轄地として直接支配した。幕府は、鉱山から産出される金や銀をもとに、全国統一の貨幣である三貨を発行し、貨幣経済を普及させた。石見銀山などから産出された銀は…
江戸時代、現在の島根県に位置する石見銀山や兵庫県の生野銀山などから大量の銀が産出され、幕府の重要な財源となった。徳川家康が奨励した朱印船貿易や、長崎の出島を通じて行われたオランダなどとの貿易において、日本から海外へ輸出さ…
江戸時代、日本で採掘された銅は、唯一の貿易港であった長崎を通じて、主に清やオランダへ輸出されました。江戸時代には、秋田の鉱山や愛媛県の別子銅山などで銅が盛んに採掘されました。銅の輸出は、江戸時代の日本の貿易において重要な…
江戸時代に発達した浮世絵の一種で、複数の色を重ねて刷る多色刷りの技術によって、鮮やかな色彩を表現した版画である。19世紀初め、江戸を中心に栄えた化政文化などの庶民文化の中で、庶民の生活や風景を描く芸術として流行した。葛飾…
江戸幕府はキリスト教の布教を禁じるため、ポルトガル船の来航を禁止し、中国(清)とオランダに限定して長崎での貿易を許可した。鎖国体制下においても、長崎は出島を拠点として、対馬、薩摩、松前とともに江戸幕府が対外交流を維持した…
江戸時代、大名が支配し、そこから年貢などを徴収した土地を領地と呼んだ。江戸幕府が定めた参勤交代では、大名は一年おきに領地と江戸を往復した。領地からの収入は大名の財政を支えたが、幕府は武家諸法度などで大名の領地支配を統制した。
江戸時代後期に、江戸を中心とした化政文化の時期に、庶民の間で風景画が描かれるようになりました。特に葛飾北斎は『富嶽三十六景』を、また歌川広重は『東海道五十三次』などの優れた風景画を残しました。これらの風景画は、大胆な構図…
江戸時代には天候不順などにより農作物が不作となり、大規模な飢饉がたびたび発生した。飢饉は農村を荒廃させ、食料を求める百姓一揆を増加させ、都市への人口流出も引き起こした。幕府は松平定信による寛政の改革で囲米の制を設けるなど…
南京条約は、1840年にイギリスと清の間で起こったアヘン戦争の講和条約である。この条約により、清はイギリスに香港を譲り渡した。清はイギリスに多額の賠償金を支払うことになった。
アヘン戦争での清の敗北を知った江戸幕府が、従来の異国船打払令を緩和して、外国船に薪水を与える方針に転換した。この方針は、日本近海に現れる外国船に対して燃料や水、食料を与え、穏やかに退去させることを目的としていた。欧米列強…
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーは、4隻の黒船を率いて浦賀に来航し、日本に開国を要求した。ペリー来航の背景には、太平洋に進出したアメリカがアヘン戦争後の清との貿易のため、日本を中継・補給拠点にしようとした…
浦賀は、1853年にアメリカのペリーが来航し、日本に開国を求めた場所である。この出来事は1853年に起こり、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが黒船を率いて来航した。ペリーは日本に開国を迫り、その後の日米和親条約締結へ…
1853年、アメリカのペリーが日本に開国を求めて浦賀に来航した際、その軍艦は黒船と呼ばれた。黒船は、産業革命で開発された蒸気機関を動力とする蒸気船であった。その威容は、当時の日本人に大きな衝撃を与え、「泰平の眠りをさます…
1854年に江戸幕府がアメリカと結んだ日米和親条約によって、下田が開港された。下田は、アメリカ船への薪水・食料の補給を目的として、箱館(函館)とともに開港された。下田の開港は、日本の鎖国体制を転換させ、開国へと向かう重要…
1854年に江戸幕府とアメリカの間で結ばれた日米和親条約によって、箱館は開港されました。箱館は、日米和親条約によって下田とともに開港された港の一つです。箱館の開港は、日本の鎖国体制が転換し、開国へと向かう大きな一歩となり…
幕末の開港当初、日本と欧米では金と銀の交換比率が異なり、外国人はこの差を利用して銀を日本の金に交換し、国外へ持ち出した。この金銀交換比率の差を利用した外国人の行動により、日本国内から大量の金貨が流出し、国内の物価が急激に…
1858年に井伊直弼がアメリカと結んだ日米修好通商条約により、横浜などの港が開港され、自由貿易が始まりました。この条約は、日本に領事裁判権を認めず、関税自主権がないという不平等な内容でした。アメリカでは、奴隷制や貿易政策…
幕末の開国後、日本と外国の金銀交換比率が異なっていたため、金貨が大量に国外へ流出した。1858年の日米修好通商条約締結などにより貿易が始まると、主にアメリカやイギリスとの間で金貨の流出が加速した。金貨の流出は国内の物価を…
幕末、江戸幕府の大老であった井伊直弼が、朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を調印したことに反対する勢力を弾圧した事件を安政の大獄という。この弾圧により、幕府の政策を批判した吉田松陰をはじめ、多くの大名や公家、志士らが処罰…
1861年に始まったアメリカ南北戦争は、奴隷制の存廃や関税問題をめぐり、工業が盛んな北部と農業が盛んな南部が対立して起こりました。アメリカ南北戦争は、最終的に北部が勝利し、アメリカ合衆国の国家統一が維持されました。南北戦…
アメリカ合衆国第16代大統領として、南北戦争中に奴隷解放宣言を発表し、北部の勝利と合衆国の統一に貢献した。1863年のゲティスバーグ演説では、「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉で民主政治の理想を表現した。…
幕末、尊王攘夷運動の中心であった長州藩が、1863年に下関海峡を通過する外国船を砲撃したことが、四国艦隊下関砲撃事件のきっかけとなった。1864年、長州藩の外国船砲撃に対し、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦…
幕末期に広まった、外国勢力を武力で排除しようとする政治思想であり、天皇を尊ぶ尊王思想と結びついて尊王攘夷として広まった。江戸幕府は当初、外国船を武力で追い払う異国船打払令を出し、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃する…
1866年、京都で対立していた薩摩藩と長州藩を和解させ、坂本龍馬が仲介して結ばれた。倒幕に向けて協力するために、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允らが話し合って締結した。この同盟によって軍事力を強めた両藩は、のちに大政奉…
1866年に、対立していた薩摩藩と長州藩を仲介し薩長同盟を結ばせた。長崎で日本初の商社といわれる亀山社中を組織して、貿易活動や海運業に従事した。土佐藩主に政権を天皇へ返還する大政奉還をすすめ、新しい国づくりの指針として船…
幕末の開国によって物価が上昇し、社会不安が高まる中で、民衆の不満が爆発する形で「ええじゃないか」が流行しました。「ええじゃないか」は、天から神札が降ってきたという噂をきっかけに、民衆が歌い踊りながら練り歩き、世直しを期待…
幕末の開国後、日米修好通商条約によって貿易が始まると、特に生糸や米などの国内産品が海外へ大量に輸出された。また、国内外の金銀交換比率の違いから金が大量に流出したため、幕府は貨幣の質を下げて対応した。これらの要因により、国…
1867年、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上した出来事を大政奉還という。大政奉還の直後、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言した王政復古の大号令が出された。大政奉還と王政復古の大号令は、その後の鳥羽・伏見…
1867年末、徳川慶喜の大政奉還を受け、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言した王政復古の大号令によって、明治新政府が成立した。明治新政府は、1868年に五箇条の御誓文を発表し、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」など、合…
明治新政府が1868年に明治天皇が神に誓う形式で発表した「五箇条の御誓文」に、「万機公論に決すべし」という方針が示された。「万機公論」とは、「広く会議を興し、すべての政治は世論に基づいて決定すべきである」という、合議によ…
北海道函館市にある、星形が特徴の西洋式城郭を何といいますか。戊辰戦争の最終局面である箱館戦争の舞台となった場所はどこですか。箱館戦争において、五稜郭を拠点として新政府軍と戦ったのは旧幕府軍でした。
明治政府がその後の政治の基本方針として発表した文書を五箇条の御誓文といいます。この基本方針は、1868年に明治天皇が神に誓う形式で発表されました。その内容には、広く会議を起こして公論で政治を決めることなどが盛り込まれてい…
王政復古の大号令により新政府の樹立が宣言された後、薩摩藩や長州藩などを中心に組織されたのが新政府軍である。新政府軍は、1868年の鳥羽・伏見の戦いを端緒として、旧幕府軍との間で約1年半にわたる戊辰戦争を戦った。新政府軍は…
王政復古の大号令により新政府の樹立が宣言された後、これに反発した旧幕府軍は、薩摩・長州を中心とする新政府軍と戦った。1868年に京都近郊で起こった鳥羽・伏見の戦いを端緒とし、約1年半にわたって旧幕府軍と新政府軍の間で繰り…
大政奉還後、朝廷による王政復古の大号令が出され、旧幕府軍と新政府軍が京都近郊で衝突した。この戦いでは、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府軍が旧幕府軍に勝利した。1868年に始まったこの戦いは、その後の戊辰戦争の端緒となり、…
明治政府が1869年に、全国の藩主から土地(版)と人民(籍)を天皇に返還させた政策を版籍奉還という。この政策は、新政府が中央集権国家を確立するための重要な第一歩であった。版籍奉還の後、さらに政府は廃藩置県を実施し、藩を廃…
明治政府が殖産興業や富国強兵を進めるために、欧米の進んだ技術や学問、制度を導入する目的で、高い給与で招いた外国人を「お雇い外国人」と呼びます。彼らは技術者や学者として、日本の近代化に大きく貢献し、特に官営模範工場などでの…
明治政府が国家の統一と統治能力の強化を目指し、地方の権限を中央に集中させた政治体制を中央集権という。中央集権化を進めるため、明治政府は藩主が所持していた土地(版)と人民(籍)を天皇に返還させる版籍奉還を行った。さらに18…
明治政府は1871年に廃藩置県を実施し、それまでの藩を廃止して府や県を置き、中央集権国家を確立するために県令を派遣しました。県令は、廃藩置県によって新たに設置された府や県を統治するため、中央政府から直接任命され現地へ送り…
明治政府は、国民皆学を目指して1872年に、日本で最初の近代的な学校制度である学制を発布した。この学制は、6歳以上の男女すべてに小学校教育を受けさせることを目指した。近代教育は、欧米諸国に並ぶ国力を養う富国強兵を達成する…
明治政府が安定した財源を確保するため、江戸時代の年貢に代わり、土地の価格を基準に税を納めさせる制度を導入しました。1873年に始まったこの制度では、土地の所有者に地券を発行し、地価の3パーセントを現金で納めることとされま…
薩摩藩出身で、明治政府の三傑の一人として、近代国家の建設に尽力した。岩倉具視を全権大使とする使節団の一員として欧米を視察し、帰国後は国内の近代化を優先する方針を主張した。初代内務卿として殖産興業を推進し、強力な指導力から…
明治政府が1873年に、身分に関わらず国民すべてに兵役を課す国民皆兵を原則として発布した法令。満20歳になった男子に兵役の義務を課し、近代的な軍隊を組織した。欧米列強に対抗するため、経済を発展させ軍隊を強化する富国強兵政…
明治政府は、旧来の身分制度を廃止するため、士族の帯刀を禁止し、家禄を廃止するなどの政策を進めた。身分制度の廃止により、国民は四民平等となり、1873年には身分に関わらず兵役の義務を課す徴兵令が出された。福沢諭吉は『学問の…
明治政府が安定した財源を確保するため、土地の所有者に納税義務を課す地租改正を行った。地租改正に際して、明治政府は土地の所有権を認め、納税義務を明確にするため、土地所有者に地券を交付した。これにより、土地所有者は土地の地価…
明治政府は、欧米諸国に対抗するため、経済を発展させ軍隊を強化する富国強兵政策を進めた。明治時代初期、欧米諸国に派遣され、近代的な制度や文化を学んだ使節団を岩倉使節団という。19世紀後半、欧米諸国がアジアに進出する中で、日…
明治政府が発布した徴兵令により、満20歳以上の男子には兵役の義務が課せられた。この義務は、新政府が富国強兵や国民皆兵を目指し、西暦1873年に発布した法令によって定められた。兵役の義務は農民にとって重い負担となり、各地で…
明治時代初期、都市部を中心に欧米の文化や生活様式が取り入れられ、社会が西洋化した現象を文明開化という。幕末から明治時代にかけて、福沢諭吉は『学問のすゝめ』などを著し、欧米の近代思想を日本に紹介した。日本は不平等条約の改正…
明治政府は、近代国家建設のために安定した財源を確保する必要があり、そのために地租改正を行った。地租改正では、従来の収穫高に応じた物納から、土地の地価を基準とした現金納付へと変更された。この改革により、政府は米価の変動に左…
1858年に江戸幕府とアメリカの間で結ばれた日米修好通商条約は、日本に領事裁判権を認めさせ、日本には関税自主権がないという不平等な内容でした。日米修好通商条約によって、函館・横浜・長崎・新潟・神戸の五つの港が開港され、貿…
明治時代、政府は富国強兵や北方警備の目的で、北海道の開拓と統治を行う開拓使を設置した。北海道の開拓を実際に進めたのは、農業に従事しながら北方警備も兼ねた屯田兵と呼ばれる人々であった。この開拓は、特に北海道を対象とし、ロシ…
明治政府が、欧米列強に追いつくために富国強兵をスローガンに掲げ、近代的な産業を育成しようとした政策。欧米の進んだ技術や機械を導入し、群馬県の富岡製糸場などの官営模範工場を設立して、産業の近代化を進めた。この政策により、生…
ビスマルクは、19世紀後半にドイツ帝国を成立させ、強力な君主権と軍事力を背景に急速な工業化を進めた。明治時代に制定された大日本帝国憲法は、ビスマルクが関わったドイツのプロイセン憲法を参考に作成された。ビスマルクの在任中、…
1871年に、プロイセンを中心にドイツ帝国が成立し、日本の岩倉使節団が欧米に派遣されていた時期と重なった。明治政府は、君主の権力が非常に強いことを特徴とするプロイセン(ドイツ)の憲法を参考に、大日本帝国憲法の草案作成を進…
1871年に明治政府が不平等条約の改正交渉と欧米の近代国家制度の調査のため、欧米に派遣した大規模な使節団を岩倉使節団という。岩倉使節団の副使として欧米を視察した伊藤博文は、帰国後、初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の…
明治政府は、不平等条約の改正交渉と欧米の進んだ制度の視察のため、1871年に岩倉使節団を派遣し、岩倉具視はその特命全権大使を務めた。岩倉具視は、帰国後、武力を用いてでも朝鮮を開国させようとする征韓論に反対し、その結果、西…
明治時代、西洋の制度や技術を取り入れる文明開化の一環として、飛脚に代わる近代的な通信手段として郵便制度が創設された。郵便制度は、電信の開通や電信網の整備とともに、明治政府が進めた通信制度の近代化の重要な柱であった。郵便制…
1872年、明治政府は日本で最初の近代的な学校制度である学制を公布した。この制度は、すべての国民が教育を受けられることを目指す国民皆学の理念のもと、身分や性別を問わず教育機会を提供した。しかし、当初は家計の負担や労働力喪…
明治政府が殖産興業を推進するため、欧米の技術を取り入れて設立した政府直営の工場を官営模範工場という。官営模範工場では、西洋の機械や技術を導入し、近代的な生産方法を普及させ、日本の産業を育成することを目的とした。その代表例…
明治政府が殖産興業政策の一環として、1872年に群馬県に設立した官営模範工場である。日本の主要な輸出品であった生糸の増産と品質向上、近代製糸技術の普及と人材育成を目的とし、フランスの技術が導入された。日本の軽工業の発展を…
明治政府は1872年に、日本で最初の近代的な学校制度である学制を公布し、国民皆学を目指しました。学制によって設置された小学校では、身分や性別に関わらず、すべての国民が教育を受けられるようになりました。この制度は、すべての…
1872年に明治政府が公布した学制により、すべての国民が教育を受けることを目指したが、当初は家計の負担などから不満も生じた。学制発布後の明治初期には、特に女子の就学率が男子に比べて大幅に低い傾向にあった。明治時代末期の1…
明治時代、横浜は日本の主要な貿易港として発展し、特に生糸の最大の輸出拠点となった。1872年、日本の近代化を象徴する最初の鉄道が、新橋と横浜の間で開通した。群馬県の富岡製糸場などで生産された生糸は、横浜港から海外へ輸出さ…
明治時代に、欧米の自由や平等といった思想を日本に紹介した代表的な啓蒙思想家である。『学問のすゝめ』を著し、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という一節で、個人の独立と実学の重要性を説いた。文明開化が進む明治初期…
明治政府は、輸出用の生糸の品質向上と増産を図るため、1872年に現在の群馬県に富岡製糸場を建設した。富岡製糸場は、フランスの技術を取り入れた官営模範工場として、日本の近代化と軽工業の発展を支えた。明治時代中期には、群馬県…
明治政府は近代国家建設のため、1872年に学制を発布し、国民に教育を受けさせる義務を定めた。国力増強を目指す中で、1907年には義務教育の期間が4年間から6年間に延長され、日露戦争後の社会を支える人材育成が図られた。義務…
明治政府が富国強兵や殖産興業を進める中で、西洋の技術として導入され、文明開化の象徴の一つとなった。特に主要な輸出商品であった生糸を、産地から輸出港の横浜まで運搬するなど、日本の産業発展に大きく貢献した。新橋と横浜の間で開…
明治政府は、1873年に税制改革として地租改正を開始し、安定した財源を確保しようとしました。土地の所有者に地券を発行し、地価の3%(後に2.5%)を現金で納めさせる制度でした。この改革により、古代の墾田永年私財法から続く…
明治維新の三傑の一人として新政府で活躍したが、朝鮮への使節派遣を巡る征韓論で対立し、1873年に政府を去った。政府を去った後、不平士族に擁立され、1877年に鹿児島で起こった日本最大かつ最後の士族反乱である西南戦争を指導…
1874年に板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出したことをきっかけに、国会の開設を求める自由民権運動が全国に広がった。1880年には国会期成同盟が結成され、政府は翌1881年に国会開設の勅諭を出して10年後の国会開設を…
明治初期、一部の藩出身者が権力を独占する政府の政治体制は、有司専制と呼ばれ、専制政治として批判された。1874年、板垣退助らが政府に提出した民撰議院設立の建白書は、少数の官僚による専制政治を批判し、公選の議員による議会の…
板垣退助は、1874年に有司専制を批判し、公選の議員による議会の開設を求める民撰議院設立の建白書を政府に提出した。この建白書を契機として、板垣退助は国民の政治参加や国会開設を求める自由民権運動の中心人物として活躍した。1…
明治時代初期の1874年に、政府を去った板垣退助らが、政府の専制政治を批判して提出した。国民が選んだ議員による国会の早期開設を求め、一部の藩出身者による有司専制を批判した。この建白書の提出は、国民の自由と権利を求め、国会…
1874年に板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出したことをきっかけに、国民の自由や権利の確立、国会の開設などを求めて始まった政治運動。この運動を推進した板垣退助は日本最初の政党である自由党を結成し、また大隈重信も立憲改…
千島列島は、明治時代に日本がロシアとの間で結んだ1875年の条約によって、領有が確定しました。この条約は樺太・千島交換条約と呼ばれ、千島列島が日本領となる代わりに、樺太がロシア領と定められました。これにより、日本とロシア…
明治政府が北海道の開拓と北方警備を目的として設けた。移住者が農業に従事しながら、有事の際には警備や防衛の役割を担った。特にロシアに対する警備が重視され、1875年の樺太・千島交換条約とも関連が深い。
樺太・千島交換条約は、日本の明治時代初期にあたる1875年に、日本とロシアの間で結ばれた国境画定のための条約である。この条約により、日本は千島列島の全島を領有する代わりに、樺太全島をロシア領と定めた。この条約は、日露通好…
1875年、日本は軍艦雲揚を朝鮮沿岸に派遣し、挑発行為を行った江華島事件を起こした。江華島事件をきっかけに、日本は翌1876年に朝鮮と日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させるとともに、領事裁判権や海岸測量権などを獲得した。江…
明治政府は、旧武士階級であった士族から特権を奪う改革を進め、彼らの不満が高まった。1877年には、西郷隆盛を中心とした鹿児島県の士族が、明治政府に対して西南戦争と呼ばれる最大規模の反乱を起こした。この反乱が鎮圧されたこと…
明治政府の改革によって特権を失った士族の不満が高まる中、1877年に西郷隆盛を指導者として鹿児島で起こった反乱を西南戦争という。明治政府と旧士族との間で起こった日本最後の内戦であり、政府軍によって鎮圧されたことで、武力に…
1877年に西郷隆盛を中心とした士族たちが、日本最大かつ最後の士族反乱である西南戦争を起こした場所は鹿児島である。明治政府に対する士族の反乱のうち、鹿児島で1877年に西郷隆盛を首領として起こされた最大規模の反乱を西南戦…
自由民権運動が高まる中、1880年に大阪で結成され、政府に国会開設を強く求めた組織。板垣退助らが提出した民撰議院設立の建白書に始まる、国会開設を求める運動の中で結成された。この運動の高まりは、後の国会開設の詔や日本初の政…
大隈重信は、明治政府内で国会を早期に開設するよう主張したため、1881年の明治十四年の政変で政府を追放された。政府を追放された大隈重信は、1882年に立憲改進党を結成し、イギリス流の議院内閣制を理想として国会の早期開設を…
明治時代、国民の政治参加を求める自由民権運動の高まりや、政府による国会開設の約束を背景に、政党が結成され始めた。1881年には、板垣退助を党首とする日本初の本格的な政党である自由党と、大隈重信を党首とする立憲改進党が結成…
自由民権運動の高まりの中、1881年に板垣退助を党首として結成された。日本で最初の本格的な政党であり、フランス流の急進的な民主主義を掲げた。国会開設を求める自由民権運動を推進し、後に立憲改進党とともに政府に働きかけた。
中江兆民は明治時代の思想家で、フランスのルソーの思想を日本に紹介しました。彼はルソーの思想を通じて、人間は生まれながらにして自由で平等であるという天賦人権論を広めました。中江兆民の思想は、国民の権利を主張する自由民権運動…
明治時代、実業家の渋沢栄一らが中心となり、イギリス製の機械を導入して1882年に設立された、日本初の民間による大規模な紡績工場を大阪紡績会社という。大阪紡績会社は、日本の軽工業発展の象徴となり、明治時代の産業革命期におけ…
明治時代、国会開設時期をめぐる対立(明治十四年の政変)で政府を追われた大隈重信が、1882年に結成した政党を立憲改進党という。立憲改進党は、イギリス流の議院内閣制を理想とし、国会の早期開設を目指して活動した。立憲改進党は…
明治政府の外務卿として、不平等条約改正を有利に進めるため、鹿鳴館を建設して欧米風の文化を積極的に取り入れた。欧化政策によって欧米諸国に日本の近代化を示し、不平等条約の改正交渉を進めたが、その内容が批判され失敗に終わった。…
1885年に内閣制度が創設されると、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任し、近代的な政府の仕組みを確立しました。岩倉使節団の一員として欧米を視察した経験を活かし、ドイツのプロイセン憲法などを参考に大日本帝国憲法の草案作成に中…
明治政府が近代国家としての体制を整えるため、1885年に最高行政機関として創設した制度。内閣制度の創設とともに、初代内閣総理大臣に就任した人物は伊藤博文である。国会開設運動の高まりを経て創設され、後に大日本帝国憲法や帝国…
1885年に創設された内閣制度において、日本で最初に内閣総理大臣に就任した人物は伊藤博文である。初代内閣総理大臣は、ドイツで憲法を学び、大日本帝国憲法の草案作成に中心的な役割を果たした。内閣総理大臣は、天皇を補佐し、行政…
明治政府は、倒幕の中心となった薩摩や長州などの出身者で構成される藩閥政府として発足し、富国強兵や殖産興業を基本政策とした。明治政府は、近代産業育成のため富岡製糸場などの官営模範工場を設立し、また国民皆学を目指して学制を公…
1886年に起きたノルマントン号事件は、イギリス船の沈没時に日本人乗客が見捨てられた事件である。この事件では、不平等条約によって外国人に認められていた領事裁判権のために、イギリス人船長が軽い刑となり、日本国内で強い批判が…
明治時代に日本が欧米諸国と結んだ不平等条約には、外国人が日本国内で罪を犯しても日本の法律で裁けない領事裁判権と、日本が自由に税率を決められないという内容が含まれていた。不平等条約の不当性を国民に強く認識させた事件として、…
明治政府は、欧米の制度を視察し不平等条約の改正交渉を行うため、岩倉使節団を派遣したが、当初は成功しなかった。不平等条約の改正を有利に進めるため、政府は鹿鳴館を建設して欧米風の文化を取り入れる欧化政策を進めたが、1886年…
明治時代、岡倉天心は、来日したアメリカ人のフェノロサと共に、日本美術の価値を再評価する活動を行った。明治初期に起きた廃仏毀釈により多くの文化財が失われる中、岡倉天心は古寺や宝物の保護に尽力した。岡倉天心は、日本美術の伝統…
明治政府が欧米諸国に対し、日本が近代化したことを示すことで、不平等条約の改正を目指した政策。外務卿井上馨を中心に、欧米の外交官を招いて舞踏会などを催した鹿鳴館がその象徴である。この政策は、特に領事裁判権の撤廃交渉を進める…
枢密院は、大日本帝国憲法下において、天皇の最高諮問機関として、国の重要事項を審議しました。伊藤博文が作成した大日本帝国憲法の草案は、枢密院で審議され、その公布に深く関わりました。枢密院は、大日本帝国憲法のもとで設置され、…
明治時代、帝国議会開設当初の衆議院議員選挙は、1889年に制定された衆議院議員選挙法によって制限選挙が定められた。この制限選挙では、選挙権は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限定されていた。そのため、この制度は…
伊藤博文が中心となり、ドイツの憲法を参考に作成され、1889年に発布された。天皇が主権を持ち、国民(臣民)の権利は法律の範囲内で認められ、帝国議会が設置された。日本が立憲国家として近代化を進める上で重要な役割を果たし、不…
明治初期、国民の政治参加や国会の開設を求める自由民権運動が高まる中、政府は伊藤博文を中心に憲法制定の準備を進めた。1889年に公布された大日本帝国憲法は、ドイツのプロイセン憲法を参考に、天皇が国民に与える形式をとった近代…
明治時代初期の衆議院議員選挙では、満25歳以上の男子で、直接国税を15円以上納める者にのみ選挙権が与えられた。日露戦争後の増税により、直接国税を納める人が増え、選挙権を持つ人が実質的に拡大した。このように、直接国税の納税…
明治時代に制定された大日本帝国憲法のもとでは、臣民の権利は認められていたものの、それはあくまで「法律の範囲内」という制限付きであった。大日本帝国憲法は天皇を主権者とし、国民の権利を法律の範囲内で認めたアジア初の近代憲法で…
貴族院は、1889年に発布された大日本帝国憲法に基づき、日本の帝国議会を構成する二院の一つとして設置された。その議員は、国民の選挙で選ばれる衆議院とは異なり、皇族や華族、天皇が任命する勅任議員などで組織された。貴族院は衆…
明治時代に制定された大日本帝国憲法に基づき、1890年に帝国議会が初めて開かれ、立法機関として二院制が採用されました。二院制は、国民の選挙で選ばれる衆議院と、皇族や華族などで構成される貴族院の二つの議院から成り立っていま…
明治初期、国民の政治参加を求める自由民権運動が起こり、板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出して国会の開設を要求した。明治時代に設置された国会は帝国議会と呼ばれ、憲法に基づいた政治を行い、足尾銅山鉱毒事件のように政府の責…
大日本帝国憲法に基づいて、1890年に開設された日本の議会。貴族院と衆議院の二院制で構成され、衆議院は国民の選挙で選ばれた議員によって組織された。立法機関として、政府の予算成立や法律の制定に同意する権限を持っていた。
1890年の最初の総選挙では、有権者は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子に限定されていた。この制度は、納税額によって選挙権が制限される制限選挙であり、有権者は国民のごく一部に限られていた。日露戦争後の増税などに…
明治時代の日本の産業革命は、製糸業とともに軽工業の中心として進展し、綿糸の自給と輸出を可能にしました。紡績工場では、主に10代から20代の若い女性が安価な労働力として働き、過酷な長時間労働が常態化していました。紡績業の発…
明治時代に産業革命が進む中で、大阪などに大規模な紡績工場が作られ、機械制生産によって綿糸が大量に生産されるようになった。国内での生産量が増加した結果、1890年代後半には綿糸の輸出量が輸入量を上回り、日本は輸出国へと転換…
大日本帝国憲法が発布された後、1890年に帝国議会とともに開設された。貴族院とともに二院制を構成し、国民による選挙で選ばれた議員によって組織された。大日本帝国憲法下において、国の立法を担う機関の一つであった。
明治時代、国民が選んだ議員で構成される国会の開設を求める「民撰議院設立の建白書」が出され、後に衆議院議員が誕生した。衆議院議員は、国民の代表として国会で政治を動かし、国民の意見を政府に伝える役割を担った。明治時代には、足…
大日本帝国憲法が発布された後、日本で初めて1890年に衆議院議員総選挙が行われた。この選挙では、満25歳以上の男子で直接国税を15円以上納める者にのみ選挙権が与えられていた。衆議院議員総選挙の結果、日本で近代的な帝国議会…
明治時代の外務大臣である陸奥宗光は、1894年にイギリスとの間で日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃に成功した。同じく明治時代の外務大臣である小村寿太郎は、1911年にアメリカなどとの間で日米通商航海条約を調印し、…
1894年、朝鮮で起こった甲午農民戦争をきっかけに、日本と清の間で勃発した戦争である。1895年に結ばれた下関条約で日本が獲得した遼東半島を、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって清に返還することになった。戦争で得た…
1894年に外務大臣の陸奥宗光がイギリスとの間で調印した条約。この条約によって、幕末以来の不平等条約で日本が悩まされていた領事裁判権(治外法権)の撤廃に成功した。また、日本の関税自主権の一部回復も実現し、不平等条約改正に…
1894年に朝鮮半島で起こった農民による反乱を甲午農民戦争という。甲午農民戦争は、別名東学党の乱とも呼ばれる。この反乱は、日本と清の間で起こった日清戦争の直接的なきっかけとなった。
明治時代に外務大臣を務め、不平等条約改正に尽力した人物。1894年にイギリスとの間で日英通商航海条約を締結し、不平等条約の一つである領事裁判権の撤廃に成功した。この条約改正は、幕末以来の不平等条約の課題解決に向けた大きな…
幕末に結ばれた不平等条約の一つで、日本国内で外国人が罪を犯しても日本の法律で裁けず、その国の領事が裁判を行う権利を治外法権ともいう。不平等条約の改正を求める世論が高まるきっかけとなった、イギリス船の沈没時に日本人乗客が見…
1895年、日清戦争の講和条約である下関条約で日本が獲得した遼東半島をめぐって起こった出来事である。日本に遼東半島の返還を要求したロシア、ドイツ、フランスの三カ国による干渉である。この干渉により日本は遼東半島を清に返還せ…
1895年、日清戦争の講和条約として結ばれた下関条約では、清が朝鮮の独立を認め、日本に遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲し、多額の賠償金を支払うことが定められました。しかし、条約締結直後、日本が獲得した遼東半島の清への返還を…
1895年、日清戦争の講和のために山口県下関で結ばれた下関条約では、清が朝鮮の独立を認め、日本に遼東半島などを譲渡することなどが定められたが、その直後に三国干渉が起こった。1905年、日露戦争の講和条約であるポーツマス条…
日清戦争の講和条約である下関条約で日本が得た賠償金は、官営の八幡製鉄所建設の資金源となった。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約では、日本はロシアから賠償金を得られず、国民の不満が日比谷焼き打ち事件などの暴動につながっ…
黒田清輝は、明治時代にフランスに留学し、西洋画の技法や印象派の影響を受けた明るい画風を学んだ。帰国後、黒田清輝は白馬会を創設して日本の近代洋画の発展に尽力し、後進の育成にも貢献した。黒田清輝の代表作には、箱根の芦ノ湖畔の…
岩倉使節団に最年少の女子留学生としてアメリカへ留学し、帰国後に女子英学塾を創設したのは津田梅子である。女子英学塾は、日本の女子高等教育の発展に尽力することを目的として創設された。女子英学塾は、現在では津田塾大学として、そ…
1900年に清で起こった義和団事件は、日清戦争後の列強による中国分割に反発した民衆が外国勢力の排斥を掲げて起こした反乱である。この事件では、外国勢力を排除しようとした義和団と呼ばれる宗教結社が中心となり、北京の公使館を包…
日清戦争の賠償金を主な資金源として、日本初の本格的な官営製鉄所として建設された。1901年に福岡県北九州で操業を開始し、原料の鉄鉱石を中国から輸入するのに便利な立地であった。日本の重工業発展の基礎となり、その後の近代産業…
明治政府は、近代的な産業を育成し富国強兵を目指す殖産興業政策の一環として、国が直接経営する官営工場を建設しました。その代表例である八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金を資金に福岡県に建設され、1901年に操業を開始しました。官…
明治時代に発生した足尾銅山鉱毒事件において、被害農民の救済に尽力した人物は田中正造である。田中正造は衆議院議員として、国会で政府の責任を厳しく追及し、被害住民の救済を訴え続けた。議員辞職後も、田中正造は明治天皇への直訴を…
明治時代、日本初の本格的な官営製鉄所である八幡製鉄所が建設されたのは、現在の福岡県である。この製鉄所は、日清戦争で得た賠償金を主な資金として、日本の重工業発展の基盤として福岡県に建設された。1901年に操業を開始したこの…
鉄鋼業や機械工業など、大規模な設備と資本を必要とする産業を重工業といい、明治時代には富国強兵や殖産興業をめざす政府によって推進された。重工業の発展を象徴する施設として、日清戦争で得た賠償金を資金源に、現在の福岡県北九州市…
1902年に日本がロシアの南下政策に対抗するため、イギリスとの間で結んだ軍事同盟である。この同盟は、日本が日露戦争を有利に進める上で大きな支えとなり、日本の国際的地位向上に貢献した。第一次世界大戦前の国際情勢における三国…
与謝野晶子は、明治から昭和にかけて活躍した歌人で、情熱的な歌集『みだれ髪』を著した。日露戦争の際には、出征した弟を思い、戦争の悲惨さと個人の生命の尊さを訴える詩『君死にたまふことなかれ』を雑誌『明星』に発表した。彼女の作…
ロシアの南下政策に対抗し、朝鮮半島や満州での日本の権益を確保するため、日本が1904年にロシアと開戦した戦争。この戦争では、日本海海戦で軍艦三笠が活躍し、また与謝野晶子が弟の出征に際して反戦の詩を発表した。アメリカの仲介…
1905年に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が結ばれた際、その仲介役を務めたのはアメリカの大統領であった。1911年、外務大臣の小村寿太郎がアメリカとの交渉により、輸入品への関税を自主的に決める権利である関税自主権…
1905年、日露戦争の講和条約として、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により締結された。この条約により、日本はロシアから遼東半島南部の租借権や南満州鉄道の利権などを獲得したが、多額の賠償金は得られなかっ…
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で賠償金が得られなかったことが、この事件の大きな原因となりました。多額の戦費と重税に苦しんでいた国民は、政府への不満を爆発させました。この不満が、東京の日比谷公園での集会をきっかけに…
明治時代に発生した代表的な暴動の一つに、日露戦争の講和条約に不満を持った人々が1905年に起こした日比谷焼き打ち事件がある。この暴動は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で、日本がロシアから賠償金を得られなかったこと…
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約により、日本がロシアから譲り受けた遼東半島南部の鉄道利権などを基に設立された会社。鉄道経営だけでなく、炭鉱開発や都市建設など多角的な事業を展開し、日本の満州進出の拠点となった。日本の…
日本は日露戦争に勝利した後、朝鮮半島への影響力を強め、1910年に韓国併合を行いました。韓国併合によって、日本は大韓帝国を完全に支配下に置き、朝鮮総督府を設置して植民地支配を開始しました。この併合は、日本の植民地支配の拡…
三民主義は、中国の孫文が唱えた、民族の独立と近代国家の建設を目指す思想である。この思想は、1911年に起こった辛亥革命を指導し、清を倒す原動力となった。革命の結果、1912年に中華民国が建国され、孫文は臨時大総統に就任した。
1911年に辛亥革命が起こり、清朝が滅亡した後、三民主義を唱えた孫文が臨時大総統となり中華民国が建国されました。1912年に南京を首都として建国された中華民国は、アジアで最初の共和国でした。孫文が唱えた三民主義は、日本を…
明治時代に資本主義が発展し、工場で働く人々が増える中で、さまざまな労働問題が起こりました。工場では、特に女性や年少者が低賃金や長時間労働といった過酷な労働条件で働かされていました。このような状況に対し、1911年には日本…
明治時代、日本の近代化を支えた製糸業や紡績業では、多くの女性労働者が働き、その労働力の過半数を占めていた。劣悪な労働環境や長時間労働が社会問題となり、1911年には工場法が制定され、年少者や女性の労働時間などが制限された…
孫文は、民族の独立・民権の伸長・民生の安定を掲げる三民主義を唱え、清を倒す革命運動を指導しました。1911年に起こった辛亥革命を指導し、翌1912年にアジアで最初の共和国である中華民国を建国しました。建国された中華民国で…
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約では、全権として調印にあたった。1911年には外務大臣として、長年の課題であった関税自主権の完全回復を実現し、不平等条約改正を完了させた。明治時代末期の外務大臣として、日本の国際的地…
辛亥革命は、清を倒し、新しい国を建てることを目指して、孫文が三民主義を唱えて指導した革命である。この革命は1911年に始まり、これにより清が滅亡した。辛亥革命の結果、翌1912年に中華民国が建国され、アジア初の共和国とし…
明治時代の紡績工場では、主に若い女性が1日11時間にも及ぶ過酷な長時間労働を強いられていた。このような長時間労働は、日本の産業革命や資本主義の発展に伴って生じた社会問題の一つである。過酷な労働環境を改善するため、1911…
不平等条約によって、日本が自国の関税率を自由に決められない状態が続いていた。1911年、外務大臣の小村寿太郎が欧米諸国との交渉によって、この権利を回復させた。これにより、幕末以来の課題であった不平等条約の改正が完全に達成…
1914年に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパ列強の対立を背景に、日本は日英同盟を理由に参戦した。この戦争は、世界各地を巻き込んだ総力戦となり、1918年に終結した。戦争中、日本は大戦景気で経済的に発展し、戦後は国際平…
明治時代、初代内閣総理大臣の伊藤博文は、君主権の強いプロイセンの憲法を参考に大日本帝国憲法の草案を作成した。日清戦争後、日本が獲得した遼東半島を清に返還するよう、ロシア・フランスとともに三国干渉を行った国の一つである。医…
明治時代初期に、西洋の文化や生活様式、制度が積極的に取り入れられ、日本社会が急速に近代化した現象を文明開化という。この時期には、鉄道の開通や郵便制度の開始、電信網の整備が進み、食文化では牛鍋が流行するなど、人々の生活が大…
明治時代の産業革命期に、栃木県で発生した日本初の本格的な公害問題は、足尾銅山鉱毒事件である。足尾銅山鉱毒事件は、栃木県にある足尾銅山の鉱毒が原因で発生した。足尾銅山鉱毒事件の解決のため、被害農民の立場から政府の責任を厳し…
足尾銅山鉱毒事件は、明治時代に発生した日本初の公害問題である。この事件では、衆議院議員の田中正造が被害農民の救済と政府の責任追及に尽力した。田中正造は議員辞職後、明治天皇への直訴を試みるなど、生涯を公害反対運動に捧げた。
野口英世は、明治から大正時代にかけて、主に細菌学の分野で活躍した。彼は黄熱病などの研究で世界的に活躍し、人類の公衆衛生向上に貢献した。その功績から、現在では千円札の肖像にも採用されている。
明治時代に、日本が近代化を進めるために、鉄鉱石を原料として八幡製鉄所が建設された。八幡製鉄所は、原料となる鉄鉱石を中国から調達しやすく、国内の石炭も利用できる北九州に建設された。八幡製鉄所の建設費用は、日清戦争で得た賠償…
北里柴三郎は、感染症の分野でペスト菌を発見し、また破傷風の血清療法を開発した。その功績により、彼は世界的な医学者として高く評価され、近代日本医学の父と称された。明治時代に活躍し、熊本県出身である北里柴三郎は、日本の近代科…
津田梅子は、明治時代に岩倉使節団に最年少の女子留学生として同行し、アメリカで学んだ。帰国後、津田梅子は女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設した。津田梅子は、日本の女子高等教育の発展に大きく貢献した。
明治時代初期、北海道では幌内鉄道が建設され、炭鉱から産出される石炭を港へ輸送した。日清戦争の賠償金などを活用して八幡製鉄所が建設され、その燃料として石炭が利用された。福岡県の筑豊炭田など国内の石炭は、日本の重工業発展を支…
明治時代、欧米列強は工業製品の市場と原料の供給地を求めて、アジアやアフリカへの進出を強めた。明治時代、日本は当初、綿糸や綿織物などの製品を輸入していたが、産業の発達により綿花を輸入し、加工した製品を輸出する貿易構造へと変…
日清戦争の講和条約である下関条約によって、日本が清から割譲された地域の一つが台湾である。この条約で日本は台湾の他に、澎湖諸島や遼東半島も清から譲り受けた。しかし、日本が獲得した遼東半島は、ロシア・ドイツ・フランスによる三…
与謝野晶子が、弟の出征をきっかけに日露戦争の悲惨さを訴えるために発表した詩。個人の生命の尊さを訴え、戦争への悲しみと平和への願いを込めた作品である。雑誌明星に発表され、当時の社会に大きな反響を呼び、新しい文学運動の象徴と…
明治政府は、日清戦争の約8倍にのぼる莫大な戦費が必要となった日露戦争の財源を確保するため、大幅な増税を行った。重い増税に耐えてきた国民は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で賠償金が得られなかったことに不満を募らせ、…
明治時代に制定された大日本帝国憲法では、天皇が国の主権者(統治権の総攬者)と定められた。この憲法は、天皇が国民に与える欽定憲法の形式をとり、ドイツ(プロイセン)の憲法を手本として君主の強い権限を特徴とした。天皇の相談に応…
明治時代、政府は近代化を進める中で、女性には家庭を支える役割を重視し、良妻賢母の育成を目的とした女子教育も導入された。その後、女子教育の発展に尽力した人物として、岩倉使節団に最年少の女子留学生として同行し、帰国後に女子英…
福沢諭吉が明治時代初期に著した啓蒙書で、欧米の思想を紹介した。『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』という一節で、個人の独立と学問の重要性を説いた。この書物は、明治時代の文明開化期に、近代的な啓蒙思想を広める…
明治政府は、欧米諸国に対抗し近代国家としての基盤を固めるため、経済を発展させて国力を養い、軍隊を強化して防衛力を高める富国強兵を基本政策とした。富国強兵の経済面では、近代的な産業を育成する殖産興業を推進し、富岡製糸場など…
明治時代に日本で急速に進んだ工業化は、特に製糸業や紡績業といった軽工業を中心に発展した。工業化の進展により、それまで輸入に頼っていた綿糸などが自給できるようになり、やがて主要な輸出品へと変化した。工業化は、都市への人口集…
19世紀後半以降、資本主義が発展した欧米列強が、工業製品の市場や原料供給地を求めて植民地を拡大していった動きを帝国主義という。列強は、アジアやアフリカの地域を武力などで支配し、工業製品の原料入手や製品販売の市場とした。欧…
日露戦争では、日清戦争の約8倍にもおよぶ莫大な戦費が必要となり、政府は国民に増税を課してその財源を確保した。多大な戦費と犠牲を払って戦った日露戦争の講和条約であるポーツマス条約では、日本はロシアから賠償金を得ることができ…
新橋と横浜の間で、日本で初めて鉄道が開通したのは1872年のことである。新橋・横浜間の鉄道開通は、明治政府が目指した日本の近代化を象徴する出来事であった。新橋を起点とする鉄道の整備は、その後の日本の交通網の発展に大きく貢…
明治時代、日本の伝統美術を継承・発展させるため、政府は東京美術学校を設立し、日本画の指導が行われました。明治から昭和にかけて活躍した日本画家横山大観は、西洋画の技法を取り入れ、新しい日本画の創造に努めました。急速な西洋化…
明治時代、栃木県で発生した日本初の公害事件である足尾銅山鉱毒事件は、渡良瀬川流域に甚大な被害をもたらした。明治時代中期、栃木県などの生糸産地から輸出港の横浜へ生糸を運ぶための鉄道が整備された。栃木県に位置する足尾銅山は、…
日露戦争では、日清戦争をはるかに上回る約8.5万人もの死者を出し、国民に大きな負担を強いた。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約では、日本はロシアから賠償金を得ることができなかった。多大な犠牲を払ったにもかかわらず賠償…
明治時代にフランスで洋画を学び、代表作「湖畔」などで知られる画家は黒田清輝である。彼は印象派の影響を受けた。「湖畔」は、箱根の芦ノ湖畔の情景を描き、明るい光の表現を取り入れた画風が特徴である。「湖畔」などの作品を通じて、…
19世紀の産業革命によって生じた資本主義社会の格差や貧困などの問題に対する批判として生まれた。ドイツの思想家マルクスらが、生産手段を社会全体で共有し、平等な社会を目指す思想として体系化した。資本家と労働者の対立をなくし、…
明治時代には、欧米から近代医学などの学問が導入され、感染症の原因究明と予防を目的とした細菌学の研究が始まった。特に北里柴三郎はペスト菌の発見や破傷風の血清療法を開発し、野口英世は黄熱病などの病原体研究で世界的な業績を残し…
舞姫は、明治時代に森鴎外が自身のドイツ留学の経験をもとに執筆した小説です。この作品は、当時の欧米文化と日本の間で揺れ動く知識人の心情を描いたものです。「舞姫」は、明治時代に発展した近代文学の初期の傑作として、日本の文学史…
明治政府は、近代的な製糸技術の普及と外貨獲得のため、群馬県に富岡製糸場などの官営模範工場を設立し、製糸業の発展を推進した。製糸業で生産された生糸は、明治時代に日本の主要な輸出品となり、特にアメリカ向けの輸出によって日本の…
明治政府は、日本の産業を近代化させるため、西洋の新しい機械や技術を導入し、官営模範工場を各地に設立した。西洋技術の導入は、富岡製糸場などの工場で生産性を飛躍的に向上させ、工場の近代化を推し進めた。産業分野だけでなく、日本…
明治時代、政府が設立した東京美術学校では、当初日本画が中心だったが、後に西洋画の指導も行われるようになり、国際的な展覧会での出品物にも変化が見られた。フランスで西洋画を学び、帰国後に白馬会を創設して日本の近代洋画の発展に…
明治時代から昭和初期にかけて、銀行・貿易・鉱業など多岐にわたる業種を傘下に持ち、日本の経済を独占的に支配した大規模な企業グループを財閥という。日本の代表的な財閥には、三井・三菱・住友などがある。第一次世界大戦期には輸出で…
明治時代に日本の産業が発展する中で、足尾銅山から流れ出た鉱毒が原因で発生した、日本初の本格的な公害事件である。足尾銅山から流出した鉱毒は渡良瀬川に流れ込み、周辺地域の農作物や住民に深刻な被害をもたらした。この問題の解決の…
明治時代の日本の産業革命は、主に製糸業や紡績業といった軽工業を中心に進展した。軽工業の発展により、日本は綿糸や生糸を大量に生産し、日清戦争後には主要な輸出品として経済を拡大させた。軽工業の工場では、多くの女性労働者が働き…
明治時代後半、日本の経済は軽工業の発展により、輸出額が輸入額を上回る輸出超過を達成しました。この輸出超過は、特に生糸や綿糸などの繊維製品の生産が機械制工場で盛んになり、海外への輸出が増加したことで実現しました。輸出超過は…
明治政府は、欧米列強による帝国主義の動きに対抗し、不平等条約の改正を目指して富国強兵をスローガンに近代化を進めた。近代化政策の一環として、殖産興業を掲げ、富岡製糸場などの官営工場を建設して産業を育成し、郵便や電信などの通…
明治政府は、欧米列強に対抗し国力を高めるため、富国強兵をスローガンに殖産興業政策を進め、近代産業の育成を図った。政府は、群馬県の富岡製糸場などの官営模範工場を設立し、鉄道や電信などの交通・通信網を整備して、欧米の技術を導…
日清戦争後の下関条約で日本が獲得した遼東半島は、ある出来事によって清に返還させられた。この返還は、ロシア・ドイツ・フランスの3国が日本に圧力をかけた三国干渉によって行われた。この出来事は、日本が臥薪嘗胆を誓い、その後の日…
日清戦争の講和条約である下関条約で、日本が清から割譲された中国東北部にある半島を遼東半島という。しかし、その直後にロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に圧力をかけ、清に返還させられた(三国干渉)。その後、日露戦争の講和条…
明治時代、日本の産業発展期に栃木県で発生し、鉱毒が原因で社会問題となった事件を足尾銅山鉱毒事件という。この事件では、銅山から流出した鉱毒が渡良瀬川を汚染し、流域の農作物や住民の生活に甚大な被害を与えた。被害を受けた農民の…
明治時代には、風刺画が国際情勢や社会問題を批判的に表現する視覚資料として用いられた。特に日清戦争前後の東アジアでは、日本、清、ロシアなどの列強が朝鮮や遼東半島をめぐって対立する様子が風刺画に描かれた。フランス人画家である…
明治政府が不平等条約の改正を有利に進めるため、欧米諸国に日本の近代化を示す欧化政策の象徴として建設された。欧米の外交官を招いて舞踏会などが催され、日本の文明化を誇示する場となった。外務卿井上馨を中心に、特に領事裁判権の撤…
明治時代に、アフリカなどで黄熱病の研究に取り組み、国際的な医療の発展に尽力した福島県出身の医学者は野口英世である。野口英世が黄熱病の研究で取り組んだのは、その病原体の解明であった。野口英世の黄熱病研究は、人類の公衆衛生向…
「女性は太陽であった」という言葉は、大正時代に平塚らいてうが中心となって進めた女性解放運動の中で提唱されました。この言葉は、平塚らいてうが創刊した文芸雑誌青鞜を通じて、女性の自由と権利を強く訴えるために使われました。この…
大正時代に、女性の地位向上と自由を求めて青鞜社を組織し、雑誌『青鞜』を発刊した人物は平塚らいてうである。平塚らいてうは、「元始、女性は実に太陽であった」という言葉で知られ、女性の社会的地位の向上と差別からの解放を目指す女…
平塚らいてうらが、女性の地位向上と自由を求めて、1911年に結成した女性による文芸結社。雑誌『青鞜』を発刊し、「元始、女性は実に太陽であった」という言葉で女性の権利拡大を訴えた。大正時代に、女性解放運動を先導し、その後の…
桂太郎は、明治から大正にかけて内閣総理大臣を3度務め、特に藩閥政治の中心人物として知られた。1912年、桂太郎が三度目の内閣を組織したことに対し、国民は藩閥政治を批判し、憲政擁護を求める運動を起こした。この運動は第一次護…
明治時代から大正時代初期にかけて、特定の藩出身者が政府の要職を独占し、政治の実権を握っていた体制を藩閥政治といいます。1912年、長州藩出身の桂太郎が再び内閣を組織したことに対し、藩閥政治を打破し憲法に基づいた政治を求め…
第一次世界大戦中、日本は日英同盟を理由に参戦し、ドイツが持っていた中国の山東省の権益を奪い、さらに1915年に中国政府へ二十一か条の要求を突きつけた。第一次世界大戦後のパリ講和会議で締結されたベルサイユ条約により、日本は…
吉野作造は、大正時代に民本主義を提唱した。民本主義は、主権の所在を問わず、政治の目的を民衆の利益に置き、その意向に従って政治を行うべきであるという考え方である。彼は大正デモクラシーの理論的支柱となり、政党内閣の確立や普通…
ロシア革命は、第一次世界大戦中の1917年に、戦争による困窮を背景に起こりました。この革命は、レーニンの指導によって、世界で初めて社会主義政府が成立した出来事です。ロシア革命によって、ロシアはソビエト社会主義共和国連邦を…
1918年、シベリア出兵を見越した米の買い占めなどによる米価高騰に対し、富山県の漁村の主婦らから始まった全国的な暴動を米騒動という。1918年の米騒動の後に発足した、衆議院に議席を持つ立憲政友会の総裁が首相を務める日本初…
第一次世界大戦後、アメリカ合衆国第28代大統領のウィルソンは、平和原則として十四か条の平和原則を提唱しました。彼は、世界初の国際平和維持組織である国際連盟の設立を提唱しましたが、アメリカは国内の反対により加盟しませんでし…
1918年、第一次世界大戦中に起こったロシア革命に干渉するため、日本が軍隊を派遣した。この軍事行動は、日本がアメリカやイギリスなどとともに軍隊を派遣した国際的な出来事であった。シベリア出兵を見越した米の買い占めなどにより…
1918年に成立した原敬内閣は、衆議院の第一党が組織した日本で最初の本格的な政党内閣であり、二大政党制の基礎を築いた。大正末期から昭和初期にかけて、衆議院の多数を占める立憲政友会と立憲民政党の二大政党が交互に政権を担当す…
寺内正毅内閣は、第一次世界大戦中に起きたロシア革命の影響を抑えるため、日本を含む各国とともにシベリア出兵を行った。1918年、シベリア出兵を見越した米の買い占めなどにより米価が高騰し、富山県の主婦たちの行動をきっかけに全…
大正時代、米騒動の混乱後に首相となり、平民宰相と呼ばれた人物は原敬である。原敬は、陸軍・海軍・外務大臣以外の閣僚を政党員で組織し、日本初の本格的な政党内閣を成立させた。爵位を持たない衆議院議員として首相になったことから、…
1918年、米騒動の混乱後に、立憲政友会の総裁である原敬が組織した、日本で初めての本格的政党内閣を指す。この内閣は、陸軍・海軍・外務大臣以外の閣僚をすべて立憲政友会の党員で構成し、衆議院の第一党を基盤とした。本格的政党内…
1918年、富山県の主婦たちの行動をきっかけに全国に広がった民衆運動を米騒動という。米騒動は、第一次世界大戦中の物価高騰に加え、シベリア出兵を見越した商人による米の買い占めが原因で米価が急騰したことにより発生した。米騒動…
1919年には、第一次世界大戦を終結させるベルサイユ条約が結ばれた。1919年には、日本の植民地支配下にあった朝鮮で三・一独立運動が、中国では五・四運動が起こった。1919年には、ドイツで世界で初めて生存権を保障したワイ…
大正時代に平塚らいてうらが設立し、女性の地位向上を目指した団体。女性の政治活動の自由を求める運動を展開し、参政権獲得を目指した。雑誌青鞜の創刊者である平塚らいてうが中心となって活動した。
第一次世界大戦後、アメリカ大統領のウィルソンが、パリ講和会議で民族自決の原則を提唱した。民族自決とは、それぞれの民族が自らの政治的地位や帰属を他国の干渉なしに決定すべきであるという原則である。この原則は、日本の植民地支配…
第一次世界大戦後のドイツで制定されたワイマール憲法は、世界で初めて社会権を認めた。この憲法は1919年に制定され、当時、世界で最も民主的な内容とされた。社会権には国民が人間らしい生活を送る権利である生存権などが含まれ、労…
第一次世界大戦後、イギリスの植民地支配下にあったインドで、ガンディーが指導した独立運動。武力を用いず、イギリス製品の不買や塩の行進などで抵抗する、非暴力・不服従の態度で完全な自治を求めた。この運動は、朝鮮の三・一独立運動…
全国水平社は、大正時代の1922年に、被差別部落の人々が部落差別からの解放と人権の確立を目指して結成した。西光万吉らが中心となり、被差別部落の人々自身が人間としての尊厳を求めて立ち上がった。結成大会は京都で開かれ、自らの…
第一次世界大戦後、アメリカのウィルソン大統領が国際平和維持のために設立を提唱した。提唱国であるアメリカは、国内の議会の強い反対により、国際連盟に加盟しなかった。史上初の国際平和維持組織として1920年に発足し、日本は常任…
四カ国条約は、第一次世界大戦後のワシントン会議において、1921年から1922年にかけて締結されました。この条約は、第一次世界大戦後の軍縮と太平洋の秩序維持を目的に締結されました。四カ国条約の締結に伴い、1902年から続…
日英同盟は、第一次世界大戦後の1921年から1922年にかけて、アメリカ合衆国の呼びかけで開催されたワシントン会議で解消された。日英同盟の解消は、ワシントン会議で話し合われた海軍の軍縮や中国の主権尊重など、東アジア・太平…
1922年には、部落差別からの解放を目指して全国水平社が結成された。同年には、小作料の引き下げなどを目指す日本農民組合も結成され、農民運動が活発化した。また、世界ではレーニンを指導者とするソビエト社会主義共和国連邦が成立…
第一次世界大戦後の世界的な民主主義の高まりを受け、大正時代に日本で自由や民主主義を求める政治的・社会的な風潮が広がった。大正デモクラシーの思想的な支柱となり、民衆の幸福と意向を政治に反映させるべきだと吉野作造が唱えた主義…
大正時代、都市部を中心に大衆文化が花開く中で、ラジオ放送の開始(1925年)などとともに、大衆雑誌が普及した。娯楽性の高い内容で、週刊誌や月刊誌、子供向け雑誌など多様な種類があり、大正時代末期には1冊1円の円本も登場し、…
大正時代、女性運動の中心人物である平塚らいてうは、雑誌『青鞜』を創刊し、「元始、女性は太陽であった」と訴えた。彼女たちは、女性の社会的地位の向上と女性差別の解消を目指し、特に女性参政権の獲得を強く求めた。この運動は大正デ…
大正時代には、自由主義や民主主義を求める大正デモクラシーの風潮の中で、社会運動が活発化した。労働者が賃上げや労働条件の改善を求める労働争議や、農民が地主に対して小作料の引き下げなどを求める小作争議が全国で増加した。政府は…
納税資格の撤廃は、大正時代の1925年に加藤高明内閣のもとで実現した。これにより、それまでの納税額による制限が廃止され、満25歳以上の男子全員に衆議院議員の選挙権が与えられた。この改正によって有権者数は大幅に増加し、日本…
大正時代初期に、特定の藩出身者が政治を独占する藩閥政治を批判し、憲法に基づいた政治を守ることを求めて起こった運動で、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとした。この運動は、当時の桂太郎内閣を退陣に追い込むなど、大きな影響を…
第一次世界大戦中の1917年、ロシアで革命が起こり、レーニンの指導のもと、世界初の社会主義政府が樹立された。ソビエト政府の樹立を受け、日本を含む列強諸国が干渉のために行った軍事行動をシベリア出兵という。革命によって成立し…
大正時代から昭和初期にかけて、都市部を中心に西洋化が進み、新しい生活様式が広まった。洋服の着用や洋食の摂取、欧米の建築様式を取り入れた文化住宅などが普及した。モダンガール(モガ)やモダンボーイ(モボ)と呼ばれる人々が登場…
大正時代には、1冊1円という低価格で販売された円本や、ラジオ放送、雑誌などの新しいメディアが登場し、大衆文化が普及した。第一次世界大戦後の好景気や都市化の進展、教育の普及などを背景に、人々の生活水準が向上し、大衆が文化を…
第一次世界大戦中に日本が経験した未曾有の好景気を大戦景気といい、この時期に成金と呼ばれる人々が現れた。ヨーロッパ諸国が第一次世界大戦で生産を停止したことで、日本からの輸出が急増し、特に造船業などが発展して成金が生まれた。…
大正時代から昭和時代初期にかけて、都市化の進展とともに、多くの人々に親しまれるようになった娯楽の一つである。ラジオ放送などと並び、都市の居住者を中心に広まった大衆文化の代表的な存在であった。多くの人々が同じ文化を楽しみ、…
大正時代に吉野作造が提唱した、主権が誰にあるかに関わらず、民衆の意向を尊重して政治を行うべきだという考え方。大日本帝国憲法のもとで、民衆の意思を政治に反映させようとした。普通選挙の実施や政党内閣の確立を主張し、大正デモク…
第一次世界大戦中に日本が大戦景気に沸く中で、企業は利益を上げたが、労働者の賃金上昇は限定的であった。この時期、米などの物価が急激に上昇したが、賃金上昇はそれに追いつかず、庶民の生活は苦しくなった。賃金上昇が物価上昇に追い…
大正時代、工業化の進展などにより、地方から都市への人口集中が進み、都市化が急速に進展した。都市化の進展に伴い、洋服の着用や洋食の摂取など生活の洋風化が進み、都市部を中心に女性の社会進出も活発になった。都市の居住者を中心に…
第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本の二十一か条の要求が認められたことに反発し、中国で1919年に始まった民族運動を五・四運動という。五・四運動は、中国の北京で学生を中心に始まり、日本の中国進出に反対する反帝国主義・民…
第一次世界大戦後、民主主義を否定し独裁的な政治運動であるファシズムが台頭し、また1920年に発足した国際連盟では常任理事国を務めた。第二次世界大戦中の1940年、日本とドイツとともに日独伊三国同盟を結び、枢軸国として連合…
昭和初期、1923年の関東大震災で一時的に減少した日本の貿易額は、1929年に始まった世界恐慌の影響で1930年以降に急落した。世界恐慌により、日本の輸出額と輸入額はともに大幅に減少し、経済不況が深刻化した。日米開戦直前…
1923年9月1日、日本の関東地方で発生し、甚大な被害をもたらした大規模な自然災害を関東大震災という。関東大震災は、横浜港などの貿易拠点に大きな被害を与え、その後の金融恐慌など経済的混乱の一因となった。第一次世界大戦後か…
1927年、関東大震災後の不況が続く中、当時の大蔵大臣の失言をきっかけに発生した。銀行の経営不安から預金者が一斉に預金を引き出そうとする取り付け騒ぎが各地で起こり、急場をしのぐために裏面が白紙の紙幣が印刷されるなどの対応…
昭和時代(戦前)の1927年に、不況の深刻化や銀行倒産のうわさから、多くの銀行が経営危機に陥った経済的混乱を金融恐慌という。金融恐慌では、多くの人々が預金を引き出そうと銀行に詰めかけ、多くの中小銀行が休業や倒産に追い込ま…
1929年にアメリカで発生し、世界的な不況を引き起こした経済的な出来事を世界恐慌という。この恐慌は、アメリカのニューヨーク株式市場での株価暴落をきっかけに始まった。世界恐慌は各国に深刻な不況をもたらし、その後の第二次世界…
1929年の世界恐慌による経済混乱を背景に、ドイツでヒトラー率いるナチス(ナチ党)が政権を掌握した。ナチスは一党独裁体制を築き、言論や思想の自由を奪うとともに、公共事業や軍備拡張によって不況からの脱却を図った。ナチスはア…
1929年に始まった世界恐慌に対し、アメリカのフランクリン・ローズベルト大統領が実施した経済政策である。政府が積極的に経済に介入し、公共事業による失業者の救済や労働者の権利保護を進めたことが特徴である。テネシー川流域開発…
1929年の世界恐慌による経済混乱を背景に、ドイツでナチ党の指導者として国民の支持を集め、1933年に政権を握った。議会制民主主義を否定し、ワイマール憲法を停止して一党独裁体制を築き、アーリア民族の優越を掲げてユダヤ人を…
1929年に始まった世界恐慌への対策として、自国経済の保護を図るためにとられた。イギリスやフランスなどの植民地を持つ国が、自国と植民地の間で関税を下げ、他国の製品には高い関税をかけて排他的な経済圏を作った。この政策は国際…
アメリカ合衆国大統領のルーズベルトは、1929年に始まった世界恐慌による経済危機に対応するため、大統領に就任した。彼は、政府が積極的に経済に介入し、公共事業による失業者救済や労働者の権利保護を進めるニューディール政策を実…
1929年に始まった世界恐慌で資本主義諸国が不況に陥る中、社会主義体制下のソ連が経済成長を続けるために推進した。国家が生産量や資源配分を決定する計画経済の一環として、重工業化と農業集団化を進めた。資本主義諸国が経済停滞に…
1929年の世界恐慌による不況に対し、政府が雇用を創出し、景気を回復させるために行う大規模な建設工事などを公共事業という。アメリカのローズベルト大統領は、世界恐慌からの脱却を目指し、ダム建設などの公共事業を柱とするニュー…
昭和初期には、ワシントン会議やロンドン海軍軍縮条約の締結など、国際協調の動きが進み、政党内閣がその外交を担いました。しかし、1929年の世界恐慌をきっかけに、各国は国際協調よりも自国の利益を優先し、ブロック経済などの保護…
1929年に起こった世界恐慌は、世界経済に大きな打撃を与え、各国で失業率が急増する原因となった。この失業率の急増に対し、アメリカでは公共事業を大規模に行い、雇用を創出することで失業率の低下を目指した。この政策は、当時のア…
1929年にニューヨークでの株価暴落に始まる世界恐慌が日本に波及し、発生した経済危機を昭和恐慌という。昭和恐慌により、特に農村では生糸や繭、米などの農産物の価格が暴落し、深刻な打撃を受けた。農産物の価格暴落により農家は極…
1929年に起こった世界恐慌の後、各国は自国の景気回復を優先し、植民地との間で高い関税を設けるブロック経済を進めた。アメリカでは、フランクリン・ローズベルト大統領が、公共事業など政府が経済に積極的に介入するニューディール…
1929年にアメリカのニューヨーク株式市場で起こった、経済の混乱を引き起こした出来事。この出来事をきっかけに、世界規模の深刻な不況である世界恐慌が始まった。日本経済も深刻な不況に陥り、特に農村では昭和恐慌と呼ばれる窮乏状…
国家が生産目標や資源配分を直接管理する経済体制を計画経済といい、特にソ連がこの体制を推進した。ソ連は計画経済のもと、工業生産を飛躍的に成長させるため、五か年計画と呼ばれる経済政策を実施した。1929年に始まった世界恐慌の…
1929年にアメリカで始まった世界恐慌は、1930年代初頭の日本にも波及し、農産物価格に大きな影響を与えた。世界恐慌により、主要な輸出品である生糸の価格や、記録的な豊作となった米の価格が暴落した。農産物価格の暴落は、農村…
昭和時代、日中戦争から太平洋戦争にかけて、軍需品の生産を優先するために導入された。国家が経済活動を制限する統制経済の一環として、生活必需品を自由に購入できないようにし、特定の量を割り当てる制度であった。食料や衣料品などの…
1929年に始まった世界恐慌は、世界経済に大きな混乱をもたらし、多くの国で失業者が増大した。不況期には、政府が大規模な公共事業を立ち上げ、仕事を失った人々に雇用機会を直接提供することで所得を確保させる経済手法がとられた。…
1929年に始まった世界恐慌への対策として、各国が自国の経済を守るために他国からの輸入品に高い関税をかけるようになった。イギリスやフランスなどの国々は、自国と植民地・従属国との貿易を優遇し、それ以外の国からの輸入品には高…
1930年に調印されたロンドン海軍軍縮条約は、戦艦以外の補助艦の保有量を制限する国際条約であった。この条約は、二大政党が交互に政権を担当した政党内閣の時代に、当時の首相であった浜口雄幸によって締結された。ロンドン海軍軍縮…
第一次世界大戦後、国際協調の動きの中で、アメリカの提唱によりワシントン会議が開かれ、海軍主力艦の保有制限が話し合われた。1930年には、補助艦の保有量を制限するロンドン海軍軍縮条約が調印され、さらなる軍備の抑制が図られた…
1930年代に入ると、それまで続いていた政党内閣の時代が終わり、軍部が政治に強い影響力を持つようになりました。軍部が政治に介入する動きは、1932年の五・一五事件や1936年の二・二六事件といった事件によって加速しました…
1931年の満州事変以降、日本の行動は国際連盟などの国際社会から厳しく批判され、国際的孤立を深めていった。1933年、満州事変に関するリットン調査団の報告が採択されたことに反発し、日本は国際連盟を脱退した。国際連盟脱退に…
満州事変後、国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書で日本の行動が批判され、撤兵が勧告されたことに反発した。日本は1933年に国際連盟を脱退した。この脱退により、日本は国際社会で孤立を深めていった。
1931年の満州事変をきっかけに、日本が中国東北部に建国し、清の最後の皇帝である溥儀を元首とした国。国際連盟はリットン調査団を派遣して満州国を承認せず、これに反発した日本は国際連盟を脱退した。この建国は、その後の日中戦争…
日本が南満州鉄道の警備などのために、中国東北部に駐屯させた軍隊を関東軍という。1931年、関東軍は柳条湖事件を起こし、自ら南満州鉄道の線路を爆破した。この事件をきっかけに満州事変が始まり、翌年には清の最後の皇帝である溥儀…
1932年に海軍の青年将校らが犬養毅首相を暗殺した事件を五・一五事件という。五・一五事件では、海軍の青年将校らが当時の犬養毅首相を暗殺した。この事件によって、大正末期から続いていた政党政治が中断されることとなった。
五・一五事件は、1932年に海軍の青年将校らが当時の犬養毅首相を暗殺した事件である。この事件により、大正時代から続いていた政党政治(政党内閣)が終わりを告げた。五・一五事件は、日本の軍部の台頭と軍国主義化が進むきっかけの…
大正時代から昭和初期にかけて、議会の多数を占める政党が組織する政党内閣による政治が行われました。しかし、1932年に起きた五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、政党内閣の時代は終わりを告げました。これ以降、軍部が政治に強い…
1932年、海軍の青年将校らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件により、政党内閣の慣例が途絶え、政党政治は事実上終わりを告げた。五・一五事件以降、軍部の政治的発言力が増し、政党内閣に代わって軍人や官僚が中心となる内閣が組織…
犬養毅は、昭和初期に内閣総理大臣を務めた政治家である。1932年、五・一五事件で海軍の青年将校らによって暗殺された。この事件により、大正時代から続いていた政党政治が事実上終わりを告げた。
満州事変の発生を受け、国際連盟が事実関係の調査のためにイギリスのリットンを団長として派遣した。その報告書では、日本が建国した満州国を承認せず、日本軍の撤退を勧告した。これに反発した日本は、1933年に国際連盟を脱退した。
第一次世界大戦後のヨーロッパで台頭したファシズムは、民主主義を否定し、個人よりも民族や国家を重視して、軍事力で領土拡大を目指す独裁的な政治運動であった。ファシズムは、イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党が、ドイツで…
昭和初期、大正デモクラシー期の政党内閣が終わり、軍部が政治に対して強い影響力を持つようになった。軍部の政治的発言力が高まる中、1936年には二・二六事件が起こり、一部の青年将校が政府要人を暗殺し東京の中心部を占拠した。こ…
1937年、北京郊外で発生した盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国の間で日中戦争が本格的に始まった。戦争の長期化に伴い、1938年には国家総動員法が制定され、政府は国民生活や物資を戦争のために動員できるようになった。日中戦…
1938年、日中戦争の長期化に備えて制定された法律は、国家総動員法である。この法律は、長期化する日中戦争において、政府が戦争に必要な人や物資を効率的に動員することを目的とした。議会の承認なしに国民や物資を戦争に動員できる…
1938年(昭和13年)、日中戦争の長期化に備え、政府が戦時体制を強化するために制定した法律。政府が議会の承認なしに、戦争に必要な労働力や物資を強制的に動員することを可能にした。この法律により、国民生活は統制経済のもと、…
日中戦争の長期化に伴い、1938年に政府が議会の承認なしに人的・物的資源を動員できるように制定された法律を国家総動員法という。1940年には、軍部主導の戦時体制を支えるため、既存の政党が解散・合流して大政翼賛会が結成され…
日中戦争の長期化に伴い、政府が戦争遂行のために物資や労働力を動員する目的で、この体制がとられた。特に1938年に制定された国家総動員法により、政府は議会の承認なしに国民や物資を強制的に動員できるようになった。この法律によ…
昭和初期の混乱期に首相に就任し、日中戦争が長期化する中で、日本の政治を主導した。1938年には、日中戦争の遂行のため、政府が議会の承認なしに国民や物資を動員できる国家総動員法を制定した。1940年には、政党を解散させ、国…
1939年、ドイツが隣国ポーランドに軍事侵攻した。このポーランドへの侵攻をきっかけに、第二次世界大戦が始まった。これを受けて、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。
日中戦争から太平洋戦争期にかけて、労働力不足を補うために行われた。学生や女性が軍需工場や軍事施設での労働に強制的に従事させられた。この制度は、日本が国家総動員法を制定し、総力戦体制へと移行する中で実施された。
1940年、日中戦争の長期化に伴い、国民を戦争協力へ動員するため、既存の政党が解散し、大政翼賛会が結成された。1940年、日本はドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結び、枢軸国としての体制を固め、欧米諸国との対立を深めた。…
日中戦争が長期化する中、日本は中国への物資補給路である援蒋ルートを遮断し、さらに資源確保のため、1940年にフランス領インドシナ北部へ進駐した。1941年には、日本が東南アジアの資源獲得を目指してフランス領インドシナ南部…
日中戦争が長期化する中で、日本が挙国一致の戦時体制を整え、国民を戦争協力へ動員するために結成された。1940年に近衛文麿内閣のもとで結成された。既存の政党を解散・統合し、軍部による政治支配が進む中で日本の軍国主義化を象徴…
日中戦争の長期化や戦時体制の強化が進む中で、国民全体が政府の方針に協力する体制を目指した。この体制を整えるため、1940年に既存の政党が解散し、大政翼賛会が結成された。これにより国民を戦争協力へ動員し、政府の政策を強力に…
1940年、日本がドイツ、イタリアと結んだ軍事同盟を日独伊三国同盟という。日中戦争が続く中、日本はABCD包囲網など欧米諸国との対立を深め、日独伊三国同盟を結んで枢軸国としての体制を固めた。日独伊三国同盟の締結は、第二次…
枢軸国は、第二次世界大戦において、日本、ドイツ、そしてイタリアの三か国が中心となって形成された同盟国である。枢軸国の関係を強固にしたのは、1940年に締結された日独伊三国同盟であり、これは互いの勢力圏を認め合う軍事同盟で…
アメリカなどによる対日石油輸出禁止などの経済封鎖を背景に、日本が真珠湾攻撃を行い、1941年に始まった戦争を太平洋戦争と呼ぶ。日本はアジア諸国の欧米からの解放を掲げ、大東亜共栄圏の建設を唱え、国内では軍事費が膨張する戦時…
1941年、日本が日中戦争を続ける中で、アメリカとの対立が深まり、ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。アメリカ太平洋艦隊の拠点であるハワイの真珠湾を奇襲し、同時にマレー半島など南方への進攻を開始した。この攻撃に…
日本がフランス領インドシナへ進駐したことや、日本の石油輸入依存度が高かったことが、アメリカによる石油禁輸の背景にあった。石油禁輸は、日本の中国大陸や東南アジアへの進出を阻止するため、アメリカが1941年に実施した。石油禁…
太平洋戦争中、戦場へ送られた成人男子の不足により深刻化した労働力不足を補うため、学徒動員が行われた。学徒動員では、中学生や女学生を含む学生や生徒が、軍需工場や軍事施設での労働に強制的に従事させられた。学徒動員は、広義には…
太平洋戦争中、アメリカ軍による日本の都市部への空襲が激しくなったことを背景に実施された。軍事施設や工場がある都市部の小学生を対象に、子供たちの命を守ることを目的とした。親元を離れて地方の農村へ避難し、学校単位などで共同生…
第二次世界大戦末期、都市部への空襲が激しくなったことを背景に実施された。都市部の小学生などの子供たちが、親元を離れて農村部などの安全な地域へ集団で避難し、命を守ることを目的とした。学童疎開とも呼ばれ、疎開先の地域では一時…
1945年8月6日、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国によって、日本の広島に世界で初めて原子爆弾が投下された。この兵器は原子爆弾と呼ばれ、一瞬にして都市を壊滅させ、甚大な被害をもたらした。被爆した建物の一部は原爆ドームとし…
第二次世界大戦末期、日本は連合国から無条件降伏を求められた。この要求は、1945年にアメリカ・イギリス・中国などが発表したポツダム宣言によって日本に突きつけられた。日本がこの要求を受諾したことで、第二次世界大戦は終結した。
第二次世界大戦末期、日本の都市部は、アメリカ軍などによる空襲を受けました。空襲の激化により、子供たちの安全を確保するため、学童疎開や集団疎開が実施されました。これは、都市部への空襲を避けるため、小学生などが親元を離れて農…
1945年7月、アメリカ・イギリス・中国の連合国が日本に無条件降伏を求めた宣言をポツダム宣言という。1945年8月、アメリカ軍は日本の広島と長崎に原子爆弾を投下し、多くの犠牲者を出した。日本はポツダム宣言を受諾し、194…
第二次世界大戦において、日本やドイツなどの枢軸国と戦った、アメリカ、イギリス、中国などを中心とする国々を連合国と呼ぶ。第二次世界大戦末期の1945年5月、連合国軍の攻勢を受けて、枢軸国の一角であったドイツは無条件降伏した…
第二次世界大戦末期、日本国内で唯一の激しい地上戦となった沖縄戦では、多くの一般住民が犠牲になった。沖縄戦では、日本軍の司令部が置かれた首里城が破壊されるなど、多くの文化財も失われた。沖縄戦は、日本がポツダム宣言を受諾し、…
19世紀後半、アメリカで起こった南北戦争では、当時のアメリカ大統領が奴隷解放宣言を発布し、北軍を勝利に導いた。第一次世界大戦後、アメリカ大統領は十四か条の平和原則を提唱し、国際連盟の設立を主導するなど、国際秩序の形成に大…
満州事変や五・一五事件、二・二六事件などを経て、軍部が政治に介入し、その発言力を強めて政党政治が衰退していった。日中戦争の長期化を背景に、政府が議会の承認なしに人や物資を徴用できるようにした国家総動員法が制定された。これ…
昭和時代(戦前)に、五・一五事件では海軍の、二・二六事件では陸軍の青年将校が中心となって事件を起こした。彼らは、当時の政党政治や社会状況に不満を抱き、国家改造を目指してテロやクーデター未遂事件を起こした。これらの事件は、…
日本では、1925年にラジオ放送が始まり、戦後の1953年にはテレビ放送が開始され、情報伝達の手段が多様化していった。1950年代後半から1960年代にかけて、テレビは高度経済成長とともに急速に普及し、プロ野球などの娯楽…
戦前、国民の思想や政治運動を厳しく取り締まり、自由な言論を抑圧した法律。第二次世界大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により、日本の民主化改革の一環として廃止された。この法律の廃止により、国民の政治活動や言論の自由が…
第二次世界大戦末期、日本に無条件降伏を求めるため、アメリカ・イギリス・中国の3か国が共同で発表した宣言。日本は1945年8月にこの宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結した。ポツダム宣言受諾後、日本はサンフランシスコ平和条約…
第二次世界大戦後、日本は1945年からサンフランシスコ平和条約締結までの間、連合国軍総司令部(GHQ)による占領下に置かれました。占領下の日本は、1948年のロンドンオリンピックなど、国際的なイベントへの参加が認められな…
第二次世界大戦後、国際平和と安全の維持を目的として、1945年に国際連盟の反省を踏まえて設立された国際組織。日本は、1956年に日ソ共同宣言によってソ連との国交を回復し、その支持を得て国際社会への復帰を果たす形で加盟が実…
第二次世界大戦後の民主化改革の一環として、日本で女性に参政権が認められたのは1945年のことであった。これにより、満20歳以上の男女すべてに選挙権と被選挙権が与えられた。翌年の1946年に行われた戦後初の総選挙では、初め…
日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結した。戦争終結後、海外からの引き揚げによる人口移動や、女性に参政権が与えられるなどの大きな社会変化があった。第二次世界大戦終結後、世界の平和と安全を目…
第二次世界大戦後、日本の民主化を進めるため、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって行われた経済改革を総称して経済民主化という。経済民主化の柱の一つとして、経済を支配していた財閥を解体し、独占を排除する政策が行われた…
第二次世界大戦後、日本の民主化を進めるため、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導のもとで行われた。日本経済を独占的に支配していた三井や三菱などの巨大企業集団を解体し、経済の集中を排除して公正な競争を促すことを目的と…
第二次世界大戦後の1945年の選挙法改正により、満20歳以上の男女すべてに選挙権が与えられた。これは、戦後の民主化政策の一環として、特に女性に初めて参政権が認められた重要な出来事である。戦前の普通選挙法で認められていた満…
1946年に公布され、翌1947年に施行された日本の最高法規で、主権在民、基本的人権の尊重、平和主義の三原則を掲げている。恒久平和を願い、戦争放棄を定めた平和主義は、戦後の日本の国際社会への復帰や非核三原則の決議など、平…
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導のもと、日本の民主化政策の一環として農村の改革が行われた。この改革では、政府が地主の土地を強制的に買い上げ、それを実際に耕作していた小作人に安く売り渡した。その…
第二次世界大戦の終結後、旧植民地や占領地、戦地など海外各地から日本本土へ帰還した人々を引揚者と呼ぶ。引揚者には、旧満州や朝鮮半島などにいた民間人だけでなく、戦地にいた軍人も含まれ、軍人の帰還は特に「復員」と呼ばれた。引揚…
第二次世界大戦後、日本国憲法の精神に基づき、GHQの指導による民主化政策の一環として、1947年に教育基本法が制定された。この法律は、個人の尊厳を重んじ、民主主義教育の理念を掲げ、9年間の義務教育や男女共学、教育の機会均…
1949年に中間子の存在を予言した理論物理学の研究で、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞した人物は湯川秀樹である。小説『雪国』などの作品で知られ、1968年に日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した作家は川端康成…
第二次世界大戦後、中国では国民党との内戦に勝利した毛沢東率いる共産党が、1949年に中華人民共和国を建国した。日本は、1972年に日中共同声明を発表し、中華人民共和国との国交を正常化させ、長年の不正常な状態に終止符を打っ…
1949年、中国で毛沢東率いる共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を成立させた。中華人民共和国の成立は冷戦を激化させ、アメリカの日本占領政策が逆コースへと転換するきっかけとなった。中華人民共和国が成立した1949年に…
毛沢東は、蒋介石率いる国民党との国共内戦に勝利し、1949年に中華人民共和国を建国した。彼は、中華人民共和国の初代主席として、社会主義国家の建設を指導した。1972年の日中国交正常化では、中国側の指導者として田中角栄首相…
湯川秀樹は、1949年に、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。彼は、理論物理学における中間子の存在を予言した功績により、物理学賞を受賞した。湯川秀樹は、この功績で世界的に認められた物理学者である。
第二次世界大戦後、日本を占領し、民主化を進めるために設置された連合国軍最高司令官総司令部の略称をGHQという。GHQは、日本の経済を支配していた財閥解体や、地主から土地を買い上げて小作人に安く売り渡す農地改革などの民主化…
1950年に始まった朝鮮戦争の際、アメリカ軍向けに大量の軍需物資が日本で生産・調達され、日本の戦後経済復興を加速させた。1951年に日本とアメリカの間で結ばれた日米安全保障条約により、アメリカ軍が日本国内に軍事基地を置く…
1950年代から1970年代にかけて、主要なエネルギー源が石炭から石油へと転換した現象をエネルギー革命という。エネルギー革命は日本の高度経済成長を支えたが、石油の大量消費は公害問題を深刻化させ、1971年には環境庁が設置…
「三種の神器」は、第二次世界大戦後の高度経済成長期に登場し、人々の生活を大きく変えた。「三種の神器」とは、1950年代後半から1960年代にかけて普及した白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の三つの家電製品を指す。これらの…
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国とソ連は冷戦と呼ばれる対立状態にあり、科学技術や軍事の優位性を競う宇宙開発競争が繰り広げられた。1950年代以降の冷戦期には、産業革命以来の技術革新が進み、人類初の有人宇宙飛行が実現するな…
昭和時代(戦後)の高度経済成長期に、国民の所得増加とともに急速に普及した。1950年代後半には、特に白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ、人々の憧れとなった。これらの普及により、家事の負担が軽減され…
1950年、冷戦が激化する中で朝鮮半島で勃発した国際紛争。この戦争により、日本はアメリカ軍からの軍需物資などの注文を受け、朝鮮特需と呼ばれる経済的な活況を呈し、戦後の経済復興のきっかけとなった。日本では、連合国軍総司令部…
1950年に朝鮮戦争が始まると、日本は特需景気と呼ばれる好景気になった。これは、日本に駐留していたアメリカ軍から、軍需物資などの大量の注文が相次いだことによる。これにより、戦後の日本経済は急速に回復し、高度経済成長のきっ…
昭和時代(戦後)の1950年代半ばから1970年代前半にかけて、日本の経済が飛躍的に発展した時期を高度経済成長と呼び、国民の生活は大きく変化した。高度経済成長期には、テレビ、電気洗濯機、冷蔵庫などの家庭用電化製品が普及し…
1950年に勃発した朝鮮戦争による朝鮮特需は、GHQの占領政策転換と相まって、日本の経済復興を急速に進めた。朝鮮特需によって日本経済は戦前の水準にまで回復し、1951年のサンフランシスコ平和条約締結とGATT加盟により国…
1950年代半ばから1970年代初めにかけての高度経済成長期には、鉄鋼業とともに自動車産業が日本の経済を大きく支えた。1960年代には、国民所得の増加に伴い、冷蔵庫やテレビとともに自動車が新三種の神器と呼ばれ、一般家庭に…
1950年代半ばから1970年代初頭の高度経済成長期に、日本の経済を支える主力産業として、鉄鋼や自動車などの分野が飛躍的に発展した。太平洋沿岸や瀬戸内海沿岸に石油化学コンビナートや製鉄所が建設され、太平洋ベルトと呼ばれる…
1950年代半ばから1970年代初めにかけて、日本経済が急速に発展し、特に重化学工業が日本の主力産業となった時期を高度経済成長という。所得の増加により、白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が三種の神器と呼ばれて普及し、19…
1951年、当時の吉田茂首相が調印し、日本が主権を回復して国際社会に復帰した条約。この条約と同時に、日米安全保障条約が結ばれ、アメリカ軍の日本国内への駐留が認められた。ソ連などが調印せず、日本は国際社会への復帰を果たした…
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国を中心とする資本主義陣営と対立し、冷戦と呼ばれる緊張状態を招いた社会主義陣営の中心国。1951年に日本と連合国諸国との間で結ばれたサンフランシスコ平和条約には、条約内容への不満から調印しな…
日本が連合国と1951年に調印し、主権を回復した条約をサンフランシスコ平和条約という。主権回復により、日本は独立国家として国際社会への復帰を果たした。この条約調印時の内閣総理大臣は吉田茂であり、沖縄などはアメリカの統治下…
吉田茂は、第二次世界大戦後の昭和時代に日本の内閣総理大臣を務めました。彼は1951年にサンフランシスコ平和条約に全権として調印し、日本の国際社会への復帰に尽力しました。この条約の発効により日本の独立が回復し、同時に日米安…
日本がサンフランシスコ平和条約で主権を回復したのと同時に、アメリカ軍の日本国内への駐留を認めるために1951年に結ばれた条約である。1960年には、より対等な関係を目指して日米相互協力及び安全保障条約として改定され、これ…
1954年、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験により、日本の漁船第五福竜丸が被爆したことが、原水爆禁止運動の大きなきっかけとなった。この事件をきっかけに、日本国内で核兵器の禁止を求める署名運動が広がり、翌19…
朝鮮戦争の勃発を機に、日本国内の治安維持のために創設された警察予備隊が、自衛隊の前身となった。1954年に発足した自衛隊は、日本の防衛を主な目的とする組織である。自衛隊の発足は、日本の高度経済成長期における国家の再建と国…
1955年に保守勢力が合同して自由民主党が、革新勢力が統一して日本社会党がそれぞれ結成されたことで始まった政治体制。この体制では、自由民主党が長期にわたり政権を担い、日本社会党がこれに対抗する二大政党の構図が続いた。これ…
1955年にインドネシアのバンドンで、植民地支配から独立したアジア・アフリカの国々が集まって開かれた会議。この会議では、植民地主義に反対し、平和十原則を採択して、新興独立国の団結を世界に示した。冷戦下でアメリカとソ連の二…
冷戦下の東西対立が続く中、植民地支配から独立した新興独立国が、武力によらない平和的な関係を築くことを目指して提唱した考え方。この考え方は、1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議で、主要な原則の一…
昭和時代(戦後)、アジアやアフリカでは第二次世界大戦後に多くの国が植民地支配から独立した。1955年には、インドネシアのバンドンで、植民地支配への反対や平和共存を訴えるアジア・アフリカ会議が開催された。1960年代には、…
1955年に保守勢力を結集して自由民主党を結成し、内閣総理大臣として戦後の日本政治を主導した。鳩山一郎内閣は、1956年にソ連との日ソ共同宣言に調印し、両国の国交を回復させた。この宣言により、ソ連の支持を得て、日本は同年…
日本は1956年に日ソ共同宣言を経て国際連合への加盟が実現した。国際連合への加盟は、サンフランシスコ平和条約による独立回復に続く、日本の国際社会への復帰を象徴する出来事であった。この加盟は、1960年の日米安全保障条約の…
1956年に日本とソビエト連邦との間で署名され、両国間の戦争状態を終結させて国交を回復した宣言。この宣言により、日本の国際連合への加盟を阻んでいた要因がなくなり、同年、日本は国際社会へ復帰した。これはサンフランシスコ平和…
「アフリカの年」とは、1960年にアフリカ大陸で17カ国が植民地支配から一斉に独立した出来事を指します。第二次世界大戦後、アジア・アフリカ地域では民族自決の動きが高まり、多くの国が独立を果たしました。アフリカ諸国の独立に…
1960年代に本格化したベトナム戦争は、冷戦下において社会主義陣営の北ベトナムと資本主義陣営のアメリカが支援する南ベトナムとの間で戦われた。ベトナム戦争の戦況はマスメディアを通じて世界に伝えられ、日本やアメリカでは反戦運…
1960年に池田勇人内閣が、国民の生活水準向上を目指して所得倍増計画を打ち出した。この計画は、戦後の復興期を終え、日本が高度経済成長期に入る中で、国民所得を10年間で2倍にすることを目標とした。計画は経済発展を加速させ、…
昭和時代(戦後)の高度経済成長期には、人々の生活水準が向上し、様々な家電製品の普及率が急速に高まった。特に1960年代には、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が「三種の神器」と呼ばれて普及し、その後自動車やカラーテレビも広まった。こ…
第二次世界大戦後、資本主義陣営はアメリカ合衆国を中心とし、自由主義や市場経済を掲げた国家群を指します。資本主義陣営は、第二次世界大戦後の冷戦において、ソ連を中心とする社会主義陣営(東側)と対立しました。日本は高度経済成長…
1962年、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営が対立する冷戦のさなか、キューバ危機が発生した。この危機は、ソ連がアメリカのすぐ近くにあるキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことで、核戦争…
戦後、日本の国際社会への復帰を象徴する出来事として、1964年に東京オリンピックが開催された。東京オリンピックの開催は、日本の高度経済成長期と重なり、これに合わせて東海道新幹線が開通するなど、インフラ整備が進んだ。オリン…
東海道新幹線は、日本で初めての本格的な高速鉄道として、1964年に開通し、同年に開催された東京オリンピックとともに、日本の高度経済成長を象徴する出来事となった。この新幹線は、1950年代半ばから1970年代初めにかけての…
日韓基本条約は、日本と大韓民国(韓国)との間で1965年に締結された。この条約により、両国の国交が正常化され、大韓民国政府が朝鮮半島における唯一の合法的な政府として認められた。日韓基本条約は、サンフランシスコ平和条約や日…
1967年には、高度経済成長に伴い深刻化した公害問題に対処するため、公害対策基本法が制定された。同じく1967年には、ベトナム戦争を背景に、東南アジア諸国の平和と経済成長を目的としてASEANが結成された。これらの出来事…
昭和時代(戦後)の高度経済成長期には、地方から都市部へ若年層を中心に大規模な人口移動が起こった。この人口移動により、都市部では人口が集中し過密問題が、地方では人口が減少し過疎問題が深刻化した。1967年には日本の人口が1…
昭和時代(戦後)の高度経済成長期に、急速な工業化に伴い、大気汚染や水質汚濁などの公害が深刻化した。特に三重県四日市市では、石油コンビナートの排煙によるぜんそくなどの健康被害が発生した。住民による公害裁判や運動が活発化し、…
高度経済成長期に企業の生産活動によって引き起こされた、大気汚染や水質汚濁などの環境破壊を公害問題と呼ぶ。深刻な公害問題に対処するため、1967年に制定された公害対策の基本となる法律を公害対策基本法という。環境保全に関する…
非核三原則とは、核兵器を持たず、核兵器を作らず、核兵器を持ち込ませずという日本の基本方針である。この原則は、1967年に国会で決議され、当時の佐藤栄作首相が提唱した。日本の平和主義の象徴であり、提唱した佐藤栄作首相はノー…
1970年代の石油危機を乗り越えた日本経済は、1980年代後半に株価や地価が異常に高騰するバブル経済に突入した。この時期は、企業や個人が投機目的で株式や土地を買い漁り、実体経済とかけ離れた価格上昇が続いた。しかし、199…
大阪万博は、高度経済成長期の1970年に、アジアで初めて大阪で開催された国際博覧会である。この博覧会は「人類の進歩と調和」をテーマとし、芸術家の岡本太郎が制作した太陽の塔がシンボルとなった。大阪万博は、日本が高度経済成長…
佐藤栄作は、アメリカの統治下にあった沖縄を1972年に日本へ返還することに尽力した。彼は「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を提唱し、その功績によりノーベル平和賞を受賞した。沖縄返還は、ベトナム戦争におけるア…
1972年、日本の田中角栄首相が中華人民共和国を訪問し、日中共同声明を調印して両国の国交を正常化した。この声明により、日本と中華人民共和国との間の不正常な状態に終止符が打たれ、日本は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政…
1972年の日中共同声明によって国交が正常化された後、1978年に日本と中国の間で結ばれた条約。日本と中国が恒久的な平和と友好を誓い、両国の関係をさらに発展させることを目的とした。冷戦下の国際情勢において、東アジアの国交…
第二次世界大戦後、沖縄はアメリカの施政権下に置かれ、日本本土とは異なる統治が続いた。1972年に田中角栄内閣のもとで沖縄返還が実現し、日本政府は非核三原則を順守することを表明した。沖縄返還は日本の国際社会への復帰を象徴す…
田中角栄は1972年に内閣総理大臣に就任し、それまでの外交方針を転換して中華人民共和国との関係改善を目指しました。北京を訪問し、日中共同声明に調印することで、日本と中国の国交を正常化させました。この国交正常化により、日本…
昭和時代(戦後)、日本とアメリカの間で結ばれた日米安全保障条約により、アメリカ軍が日本国内に軍事基地を置くことが認められた。サンフランシスコ平和条約後もアメリカの統治下にあった沖縄は、特にベトナム戦争の際にアメリカ軍の重…
経済活動が停滞し、企業の生産や売上が減少し、失業者が増える状態を不況といい、昭和時代(戦後)には1973年の石油危機が大きな原因となった。石油危機による不況は、それまで続いていた日本の高度経済成長を終わらせ、戦後初めてマ…
1973年の第四次中東戦争をきっかけとした原油価格の急騰により、世界経済が混乱した。この影響で、日本国内では物価が急激に上昇し、社会に大きな混乱をもたらした。この出来事を機に、日本の高度経済成長が終わりを告げ、経済構造の…
1973年の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が高騰し、世界的な不況を招いた石油危機を契機に、日本は省エネルギー化を推進した。日本企業は、この危機を乗り越えるために経営の合理化を進め、効率的な生産体制を確立することで省エ…
1973年の第4次中東戦争をきっかけに、石油の供給が制限され、石油価格が大幅に高騰した。この石油価格の高騰は、世界経済に深刻な打撃を与え、石油危機と呼ばれた。日本では、この石油価格の高騰により、それまで続いていた高度経済…
1973年に第四次中東戦争をきっかけに、石油輸出国機構(OPEC)が原油価格を大幅に引き上げたことで発生した。日本では物価が急上昇する狂乱物価となり、トイレットペーパーなどの買いだめ騒動が起こった。この出来事を機に、19…
世界の主要国の首脳が集まり、経済や政治などの重要課題を話し合う国際会議であるサミットは、別名先進国首脳会議とも呼ばれる。サミットは、1975年にフランスで初めて開催され、日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリアなどが参…
日本が高度経済成長を遂げた後、特に1980年代に顕著になった、国と国との間の経済的な対立を貿易摩擦という。日本の自動車などの工業製品の輸出が急拡大したことで、主にアメリカとの間で発生した。日本の貿易黒字が継続・増大し、相…
第二次世界大戦後、資本主義のアメリカ合衆国と社会主義のソ連が、直接の武力衝突を避けながら対立した状態を冷戦という。冷戦期には、東アジアで中華人民共和国が建国され、朝鮮戦争やベトナム戦争など各地で代理戦争が起こった。198…
第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の指令により、日本の民主化を目的として行われた一連の改革を戦後改革という。経済の民主化を進めるため、巨大な企業集団を解体する財閥解体や、地主から土地を買い上げて小…
1980年代後半、地価や株価が実体経済を超えて異常に高騰したバブル経済が発生しました。1989年のベルリンの壁崩壊を象徴として、長年続いた冷戦が終結へと向かいました。1980年代末には、東西の対立構造が解消され、世界は冷…
1980年代後半に、株価や地価が実体経済を超えて異常に高騰した経済状況を何というか。バブル景気では、土地や株式の価格が実体経済以上の価値で取引される過熱した状態が続いた。1990年代初めにバブル景気が崩壊すると、日本は長…
1980年代後半、銀行の過剰な融資を背景に土地や株式への投資が過熱し、実体経済を超えて地価や株価が異常に高騰しました。1990年代初頭、過熱した投資が沈静化し、高騰していた地価や株価が急落したことでバブル経済は崩壊しまし…
冷戦の終結に伴い、複数の共和国が独立してソビエト社会主義共和国連邦が消滅しました。中東地域では、イラクのクウェート侵攻をきっかけとして湾岸戦争が発生しました。1989年のマルタ会談で冷戦の終結が宣言された後、世界は新たな…
1989年にアメリカとソ連の首脳がマルタ会談を行い、第二次世界大戦後から続いた冷戦の終結を宣言しました。1991年にソビエト社会主義共和国連邦が消滅し、複数の独立国家に分かれるという歴史的な出来事が起こりました。ソ連の解…
1990年にイラクが隣国のクウェートに侵攻したことが、湾岸戦争の直接的な原因となりました。1991年、国際連合の決議に基づき、アメリカを中心とする多国籍軍が派遣されて戦闘が行われました。1989年のマルタ会談で冷戦の終結…
1992年に制定された国際平和協力法に基づき、日本は国連の平和維持活動への協力を開始しました。この法律により、自衛隊が初めて派遣された国としてカンボジアが挙げられます。平和維持活動は、紛争地における停戦監視や復興支援など…
沖縄戦終結50周年を記念して、1995年に糸満市の平和祈念公園に建立されました。国籍や軍人・民間人の区別を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名が刻まれています。当時の沖縄県知事であった大田昌秀は、この記念碑の建設…
阪神・淡路大震災は1995年に発生し、兵庫県南部を中心として甚大な被害をもたらしました。この震災は、日本で多くの人々が被災地支援に駆けつけたことからボランティア元年と呼ばれるようになりました。震災後の教訓から、国は災害時…
2011年に発生した東日本大震災は、東北地方の太平洋沿岸部を中心に大きな被害をもたらしました。東日本大震災では、巨大な地震のあとに発生した津波が沿岸の市街地に押し寄せ、甚大な被害を与えました。東日本大震災の影響により、福…
2011年に発生した東日本大震災の巨大津波が、福島第一原子力発電所に深刻な被害を与えました。この事故をきっかけに、日本政府は脱原発や再生可能エネルギーへの転換をめざす政策を進めることとなりました。発電所の周辺地域では、放…
日本と世界の歴史 対照年表
日本のできごとが、世界ではどの時代のどんなできごとと同じころだったのかを並べた対照年表です。「聖徳太子のころ、世界では何が起きていたか」といったタテ(時代)とヨコ(世界)のつながりをつかむと、歴史全体の流れが立体的に理解できます。中学入試・高校入試でもよく問われます。
| 時代 | 年 | 日本のできごと | 同じころの世界 |
|---|---|---|---|
| 古代 | 前3000頃 | 縄文文化が続く | エジプト・メソポタミア文明がおこる |
| 古代 | 前221 | 稲作が広まる(弥生) | 秦が中国を統一(始皇帝) |
| 古代 | 57 | 奴国の王が漢に使いを送る(金印) | ローマ帝国が地中海を支配 |
| 古代 | 239 | 邪馬台国の卑弥呼が魏に使い | 三国時代の中国(魏・呉・蜀) |
| 古代 | 593 | 聖徳太子が摂政となる | 隋が中国を統一(589) |
| 古代 | 610頃 | 遣隋使を送る(607) | ムハンマドがイスラム教をおこす |
| 古代 | 645 | 大化の改新 | 唐が栄える |
| 古代 | 794 | 平安京に都をうつす | カール大帝が西ヨーロッパを統一 |
| 中世 | 1096 | 院政が行われる | 十字軍が始まる |
| 中世 | 1192 | 源頼朝が征夷大将軍(鎌倉幕府) | モンゴル帝国がおこる(1206) |
| 中世 | 1274・81 | 元寇(文永・弘安の役) | フビライ=ハンの元が中国を支配 |
| 中世 | 1338 | 室町幕府が開かれる | 英仏の百年戦争(1339〜) |
| 中世 | 1492 | 戦国の世が近づく | コロンブスが西インド諸島に到達 |
| 中世 | 1517 | 戦国大名が各地に台頭 | ルターが宗教改革を始める |
| 近世 | 1543・49 | 鉄砲・キリスト教が伝わる | 大航海時代(スペイン・ポルトガル) |
| 近世 | 1600 | 関ヶ原の戦い | イギリス東インド会社の設立 |
| 近世 | 1603 | 徳川家康が江戸幕府を開く | ヨーロッパで絶対王政が広がる |
| 近世 | 1776 | 幕府政治が続く(鎖国) | アメリカ独立宣言 |
| 近世 | 1789 | 寛政の改革 | フランス革命 |
| 近代 | 1840 | 天保の改革 | アヘン戦争(清×イギリス) |
| 近代 | 1853 | ペリーが来航 | クリミア戦争 |
| 近代 | 1868 | 明治維新 | アメリカ南北戦争が終わる(1865) |
| 近代 | 1889 | 大日本帝国憲法の発布 | 帝国主義が世界に広がる |
| 近代 | 1914 | 第一次世界大戦に参戦 | 第一次世界大戦(〜1918) |
| 現代 | 1929 | 昭和恐慌 | 世界恐慌がおこる |
| 現代 | 1941 | 太平洋戦争が始まる | 第二次世界大戦(1939〜1945) |
| 現代 | 1945 | 終戦・戦後改革 | 国際連合が発足する |
| 現代 | 1956 | 国際連合に加盟 | 米ソの冷戦が続く |
歴史の重要人物 年表(時代順)
歴史に出てくる重要人物28人を、活躍した時代順にならべました。「だれが・いつ・何をした人か」を一気に確認できます。上の年表の「人物」ボタンを押すと、人物だけにしぼって時代ごとに見ることもできます。
| 時代 | 人物 | 何をした人か |
|---|---|---|
| 飛鳥 | 聖徳太子しょうとくたいし | 十七条の憲法や冠位十二階を定め、遣隋使を送った |
| 飛鳥 | 中大兄皇子なかのおおえのおうじ | 中臣鎌足とともに大化の改新を進め、のちの天智天皇 |
| 奈良 | 聖武天皇しょうむてんのう | 仏教の力で国を守ろうと東大寺と大仏をつくらせた |
| 奈良 | 行基ぎょうき | 橋や用水路をつくり、民衆に仏教を広めて大仏づくりに協力 |
| 平安 | 桓武天皇かんむてんのう | 平安京に都をうつし、律令政治を立て直そうとした |
| 平安 | 藤原道長ふじわらのみちなが | 娘を天皇のきさきにして摂関政治の全盛を築いた |
| 平安 | 紫式部むらさきしきぶ | 長編小説『源氏物語』を書いた |
| 平安 | 平清盛たいらのきよもり | 武士で初めて太政大臣となり、日宋貿易を行った |
| 鎌倉 | 源頼朝みなもとのよりとも | 鎌倉に幕府を開き、武士による政治を始めた |
| 鎌倉 | 北条時宗ほうじょうときむね | 執権として元寇(文永・弘安の役)を退けた |
| 室町 | 足利尊氏あしかがたかうじ | 室町幕府を開いた初代将軍 |
| 室町 | 足利義満あしかがよしみつ | 金閣を建て、明との勘合貿易を始めた |
| 安土桃山 | 織田信長おだのぶなが | 室町幕府をほろぼし、楽市・楽座などで天下統一を進めた |
| 安土桃山 | 豊臣秀吉とよとみひでよし | 全国を統一し、太閤検地や刀狩を行った |
| 江戸 | 徳川家康とくがわいえやす | 関ヶ原の戦いに勝ち、江戸幕府を開いた |
| 江戸 | 徳川家光とくがわいえみつ | 参勤交代を制度化し、鎖国を完成させた |
| 江戸 | 徳川吉宗とくがわよしむね | 享保の改革を行った八代将軍 |
| 江戸 | 杉田玄白すぎたげんぱく | 『解体新書』を出し、蘭学の発展に貢献した |
| 江戸 | 本居宣長もとおりのりなが | 『古事記伝』を著し、国学を大成した |
| 幕末 | ペリーぺりー | 黒船で浦賀に来航し、日本に開国をせまった |
| 幕末 | 坂本龍馬さかもとりょうま | 薩長同盟を仲立ちし、倒幕の動きを進めた |
| 幕末 | 西郷隆盛さいごうたかもり | 明治維新で活躍し、のち西南戦争を起こした |
| 明治 | 明治天皇めいじてんのう | 五箇条の御誓文を出し、明治の新政府を進めた |
| 明治 | 伊藤博文いとうひろぶみ | 初代内閣総理大臣。大日本帝国憲法づくりの中心 |
| 明治 | 福沢諭吉ふくざわゆきち | 『学問のすゝめ』を書き、欧米の考えを広めた |
| 明治 | 板垣退助いたがきたいすけ | 自由民権運動を進め、国会開設を求めた |
| 大正 | 原敬はらたかし | 本格的な政党内閣をつくった「平民宰相」 |
| 昭和 | 吉田茂よしだしげる | 戦後の首相としてサンフランシスコ平和条約を結んだ |




















