
【自動採点一問一答】中学2年社会・歴史問題まとめ|無料プリントテストあり
テスト前の確認や復習に使える中学2年生の社会・歴史テスト200問です。ランダムで20問出題されます。ブックマークして何度もトライしてね。
ランダム20問出題!何点とれるかな?
出題範囲:中学2年生の学習範囲
中学2年生の社会科では、主に地理と歴史の2つの分野を深く学んでいきます。学校や教科書によって進め方や扱う範囲に多少の違いはありますが、一般的に学習する歴史の内容は以下のようになります。
歴史分野:中世~近世、近代へ
中1で学んだ古代(~平安時代)に続き、中2では主に武士が活躍し始めた時代から江戸時代、そして近代の始まりまでを学習します。
主な学習内容(時代ごと):
- 中世
- 鎌倉時代: 武士の台頭、源頼朝と鎌倉幕府の成立、御家人制度、執権政治、元寇(モンゴル襲来)とその影響、鎌倉仏教と文化
- 南北朝時代・室町時代: 建武の新政、足利尊氏と室町幕府の成立(京都)、守護大名、勘合貿易(日明貿易)、応仁の乱と戦国時代への移行、民衆の成長(惣、一揆)、室町文化(北山文化、東山文化)
- 戦国時代: 戦国大名の登場(下剋上)、鉄砲伝来、キリスト教伝来
- 近世
- 安土桃山時代: 織田信長・豊臣秀吉による天下統一事業(楽市・楽座、検地、刀狩)、南蛮貿易、桃山文化
- 江戸時代:
- 徳川家康と江戸幕府の成立、幕藩体制(大名統制、武家諸法度、参勤交代)
- 身分制度(士農工商)、鎖国政策とその影響(出島での貿易)
- 産業の発達(農業技術の向上、新田開発、商業・交通網の整備)
- 江戸時代の文化(元禄文化、化政文化)、学問の発達(蘭学、国学)
- 幕政改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)
- 幕末:ペリー来航と開国、尊王攘夷運動、倒幕運動、大政奉還、戊辰戦争
- 近代の始まり
- 明治時代(初期): 明治維新、新政府の成立、五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県、四民平等、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業、文明開化など
学習のポイント:
- 各時代の政治・社会・経済・文化の特徴をつかむこと。
- 時代の移り変わり(なぜ次の時代になったのかという原因・結果)を理解すること。
- 歴史上の出来事や人物が、現代の日本にどのようにつながっているかを考えること。
公民分野について
公民分野(政治、経済、現代社会、国際関係など)の本格的な学習は、主に中学3年生から始まります。ただし、歴史の学習の中で、現代の政治や社会の仕組みにつながる考え方(例えば、江戸時代の「郷挙里選」のような仕組みや、明治維新での制度改革など)に触れる機会はあります。
中学2年生の社会科は、地理では日本の多様な姿を、歴史では日本の社会が大きく変化していくダイナミックな時代を学びます。覚えることも多いですが、なぜそうなったのか、現代とどうつながっているのかを考えながら学ぶと、より深く理解でき、面白さも増すはずです。
資料(地図、年表、写真、グラフなど)をしっかり読み取る練習も大切になります。頑張ってくださいね!
中学生の一問一答(社会・理科)
一問一答|中学2年生の歴史の問題
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、その後鎌倉幕府を開いた人物は誰でしょう?
①平清盛
②源義経
③源頼朝
正解は『源頼朝』
源頼朝は、兄である源義経らの活躍により平氏を滅ぼした後、朝廷から政治の実権を奪い、1192年に征夷大将軍に任命され、鎌倉に武家政権(鎌倉幕府)を開きました。
鎌倉幕府で、将軍が御家人に領地の支配を保障したり、新たな領地を与えたりすることを何というでしょう?
①奉公
②御恩
③地頭
正解は『御恩』
御恩とは、将軍が御家人に対して行う保護や恩恵のことです。具体的には、先祖伝来の領地の支配を認める「本領安堵(ほんりょうあんど)」や、手柄に応じて新たな領地を与える「新恩給与(しんおんきゅうよ)」がありました。御家人はこの御恩に対し、「奉公」で応えました。
御家人が将軍に対して行う、京都や鎌倉の警備、戦いへの参加などの義務を何というでしょう?
①御恩
②奉公
③守護
正解は『奉公』
奉公とは、御家人が将軍に対して負う軍役や経済的な負担などの義務のことです。平時には京都大番役(京都の警備)や鎌倉番役(幕府の警備)、戦時には将軍に従って戦いました。将軍と御家人の間の御恩と奉公の関係が、鎌倉幕府の基盤でした。
源頼朝の死後、将軍を助けて幕府の実権を握った役職は何でしょう?
①管領
②執権
③連署
正解は『執権』
執権は、鎌倉幕府の政務を統括する役職で、将軍を補佐する立場でしたが、頼朝の死後は北条氏が世襲し、幼い将軍や名目上の将軍に代わって幕府の実権を握りました。
1221年、朝廷が幕府を倒そうとして起こし、失敗に終わった戦いを何というでしょう?
①保元の乱
②平治の乱
③承久の乱
正解は『承久の乱』
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を目指して起こした兵乱です。しかし、北条政子(頼朝の妻)の呼びかけに応じた御家人たちの奮闘により幕府軍が勝利し、乱後、幕府は朝廷の監視を強めるため、京都に六波羅探題を設置しました。
鎌倉幕府が、承久の乱の後、朝廷の監視や西国の御家人の統率のために京都に設置した役所は何でしょう?
①守護
②地頭
③六波羅探題
正解は『六波羅探題』
六波羅探題は、承久の乱後に幕府が京都の六波羅(平安時代の平氏の拠点)に設置した出先機関です。朝廷の監視、京都の警備、西国の御家人の統率、裁判などを担当し、幕府の西国支配を強化する役割を果たしました。
鎌倉時代に定められた、武士の社会で初めての法律(武家法)は何でしょう?
①大宝律令
②武家諸法度
③御成敗式目(貞永式目)
正解は『御成敗式目(貞永式目)』
御成敗式目(貞永式目)は、1232年に執権の北条泰時が中心となって制定した、日本初の体系的な武家法です。頼朝以来の先例や武士社会の慣習(道理)に基づいて、御家人の権利や義務、紛争解決の基準などを定めました。後の武家法の基本となりました。
13世紀後半、2度にわたって日本に襲来したモンゴル帝国の軍勢を何というでしょう?
①倭寇
②元寇
③刀伊の入寇
正解は『元寇』
元寇は、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(元)とその属国である高麗の連合軍による日本への侵攻です。1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の2度にわたり、主に九州北部に来襲しましたが、日本の武士たちの抵抗や暴風雨(神風)などにより、撃退されました。
元寇の際、鎌倉幕府の執権として指揮をとった人物は誰でしょう?
①北条泰時
②北条時宗
③北条高時
正解は『北条時宗』
北条時宗は、元寇という国難に際して、元の皇帝フビライ=ハンの要求を断固として拒否し、2度にわたる襲来に対して、御家人を動員して防衛の指揮をとりました。しかし、戦後の恩賞が不十分だったため、御家人の幕府への不満が高まる原因ともなりました。
元寇の後、生活が苦しくなった御家人を救うために鎌倉幕府が出した法令は何でしょう?
①徳政令(永仁の徳政令)
②地租改正
③株仲間解散令
正解は『徳政令(永仁の徳政令)』
永仁の徳政令は、1297年に鎌倉幕府が出した法令で、元寇の戦費負担や分割相続などで困窮した御家人が手放した領地を無償で取り戻させたり、借金を帳消しにしたりするものでした。しかし、かえって金融が混乱し、御家人の信用を低下させるなど、効果は限定的で、幕府の権威を揺るがす一因となりました。
鎌倉時代に、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、身分に関係なく誰でも極楽浄土へ往生できると説いた宗派は何でしょう?
①禅宗
②浄土宗
③日蓮宗
正解は『浄土宗』
浄土宗は、法然が開いた鎌倉新仏教の一つです。難しい修行や学問ではなく、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えること(専修念仏)によって、阿弥陀仏の力で誰もが救われると説き、貴族から武士、庶民まで広く信仰されました。
浄土宗の教えを発展させ、「悪人こそが阿弥陀仏の救いの本来の対象である」という悪人正機説を説いた、親鸞が開いた宗派は何でしょう?
①浄土真宗(一向宗)
②時宗
③臨済宗
正解は『浄土真宗(一向宗)』
浄土真宗は、法然の弟子であった親鸞が開いた宗派です。親鸞は、自力で善行を積めない凡夫(特に悪人)こそ、阿弥陀仏の本願による救いの対象であると説き(悪人正機説)、徹底した他力本願を主張しました。肉食妻帯も認め、民衆に広く受け入れられました。
座禅を組むことによって自力で悟りを開くことを目指す、武士の気風に合って広まった仏教の宗派の総称は何でしょう?
①密教
②念仏宗
③禅宗
正解は『禅宗』
禅宗は、インドから中国を経て伝わった仏教の一派で、座禅による精神統一を通じて悟りを目指します。鎌倉時代には、栄西が伝えた臨済宗や、道元が伝えた曹洞宗があり、特に質実剛健を重んじる武士たちの間で広く信仰されました。鎌倉の建長寺や円覚寺は代表的な禅寺です。
「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることで、国も人も救われると説き、他宗派を激しく批判した、日蓮が開いた宗派は何でしょう?
①真言宗
②天台宗
③日蓮宗(法華宗)
正解は『日蓮宗(法華宗)』
日蓮宗は、日蓮が開いた宗派です。法華経こそが釈迦の正しい教えであるとし、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること(唱題)を重視しました。元の襲来などを法華経を軽んじたことによる国難であるとし、幕府や他宗派を厳しく批判したため、度々弾圧を受けました。
琵琶法師によって語り継がれた、平氏の栄華と滅亡を描いた軍記物語は何でしょう?
①源氏物語
②平家物語
③太平記
正解は『平家物語』
平家物語は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語です。平清盛一門の栄枯盛衰を中心に、源平の争乱を描いています。「諸行無常」「盛者必衰」という仏教的な無常観が底流にあり、琵琶法師によって語り物として広まりました。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して始めた、天皇中心の新しい政治を何というでしょう?
①大化の改新
②建武の新政
③明治維新
正解は『建武の新政』
建武の新政は、1333年に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が始めた、天皇親政による政治です。しかし、武士の不満や公家重視の政策などにより、わずか2年余りで崩壊し、南北朝時代の動乱へとつながりました。
建武の新政に不満を持った武士を率いて、後醍醐天皇に反旗を翻し、京都に新たな天皇を立てて室町幕府を開いた人物は誰でしょう?
①楠木正成
②新田義貞
③足利尊氏
正解は『足利尊氏』
足利尊氏は、鎌倉幕府打倒に功績がありましたが、建武の新政における武士への恩賞の不満などから後醍醐天皇と対立。京都を占領して光明天皇を擁立し、自らは征夷大将軍となって室町幕府を開きました。後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、南北朝時代が始まりました。
室町幕府で、将軍を補佐する最も重要な役職で、有力な守護大名が交代で就任したものは何でしょう?
①執権
②管領
③老中
正解は『管領』
管領は、室町幕府における将軍に次ぐ最高職で、政務を統轄しました。主に足利氏一門の有力守護大名である斯波氏、細川氏、畠山氏の三家(三管領)が交代で任命されました。
室町時代、地方で力を強め、領地内の武士や民衆を支配した大名を何というでしょう?
①御家人
②地頭
③守護大名
正解は『守護大名』
守護大名は、鎌倉時代の守護が、南北朝時代の動乱を通じて任国内の武士を家臣化し、荘園や公領を侵食するなどして、領国支配を強めて大名化したものです。室町幕府は有力な守護大名の連合政権という側面も持っていました。
室町幕府の3代将軍で、南北朝の合一を実現し、明との勘合貿易を始め、金閣を建てた人物は誰でしょう?
①足利尊氏
②足利義満
③足利義政
正解は『足利義満』
足利義満は、室町幕府の最盛期を築いた将軍です。1392年に南北朝の合一を果たし、京都の室町に「花の御所」を造営。明から「日本国王」に封じられて勘合貿易を開始し、京都北山に金閣(鹿苑寺金閣)を建立しました。この時代の文化を北山文化といいます。
室町時代に、明との間で行われた正式な貿易で、倭寇と区別するために用いられた証明書は何でしょう?
①朱印状
②勘合符
③過所
正解は『勘合符』
勘合符は、日明貿易(勘合貿易)において、正式な遣明船であることを証明するために用いられた割符です。日本と明がそれぞれ同じ台帳(勘合底簿)を持ち、渡航の際に持参した割符と照合することで、倭寇などの密貿易船と区別しました。
室町時代中期に朝鮮王朝が、対馬の宗氏の要請で作った、農作業の効率を向上させた農具は何でしょう?
①唐箕
②千歯扱
③備中鍬
正解は『備中鍬』
備中鍬は、朝鮮半島から伝わった深耕用の鍬です。従来の鍬よりも深く耕すことができるため、土地の生産力を高め、農業の発達に貢献しました。千歯扱は脱穀用、唐箕は選別用の農具で、これらも江戸時代にかけて普及しました。
室町時代、村ごとや荘園ごとに農民が自治的な組織を作り、用水路の管理や年貢の納入などを共同で行った組織を何というでしょう?
①株仲間
②惣(惣村)
③五人組
正解は『惣(惣村)』
惣(惣村)は、室町時代に近畿地方を中心に発達した農民の自治組織です。寄合を開いて村の掟を定め、用水の管理、祭礼の運営、年貢の共同納入などを行いました。時には、領主に対して年貢の減免などを要求する土一揆を起こすこともありました。
室町時代に、年貢の軽減や徳政令(借金の帳消し)などを求めて、農民が団結して領主や幕府に抵抗した行動を何というでしょう?
①打ちこわし
②百姓一揆(土一揆)
③国人一揆
正解は『百姓一揆(土一揆)』
土一揆(つちいっき/どいっき)は、室町時代に頻発した農民(土民)による蜂起です。特に、1428年の正長の徳政一揆は有名で、近畿地方一帯に広がり、幕府に徳政令の発布を要求しました。この後も土一揆は各地で起こりました。
足利義満の時代の、公家文化と武家文化が融合した華やかな文化を何というでしょう?金閣がその代表的な建築物です。
①天平文化
②国風文化
③北山文化
正解は『北山文化』
北山文化は、室町幕府3代将軍足利義満の時代(14世紀末~15世紀初頭)に、京都の北山を中心に栄えた文化です。伝統的な公家文化と、禅宗の影響を受けた武家文化が融合した点が特徴で、金閣(鹿苑寺金閣)や能(観阿弥・世阿弥親子が大成)、連歌などが代表的です。
室町幕府の8代将軍で、銀閣を建て、書院造や水墨画、茶の湯などが発展した時代の人物は誰でしょう?
①足利義教
②足利義政
③足利義昭
正解は『足利義政』
足利義政は、室町幕府8代将軍です。政治的には応仁の乱を招くなどしましたが、文化面では京都東山に銀閣(慈照寺銀閣)を建立し、わび・さびを基調とする東山文化が栄えました。
足利義政の時代の、禅宗の影響を受け、簡素で洗練された美(わび・さび)を重んじる文化を何というでしょう?銀閣がその代表的な建築物です。
①桃山文化
②東山文化
③元禄文化
正解は『東山文化』
東山文化は、室町幕府8代将軍足利義政の時代(15世紀後半)に、京都の東山山荘(現在の慈照寺)を中心に栄えた文化です。北山文化の華やかさとは対照的に、禅宗の精神に基づいた「わび」「さび」といった簡素で幽玄な美意識を特徴とします。銀閣、書院造、水墨画(雪舟など)、茶の湯、生け花などが発展しました。
1467年に京都で始まり、約11年間続いた内乱で、これを機に幕府の権威は失墜し、戦国時代へと突入するきっかけとなった戦いを何というでしょう?
①承久の乱
②応仁の乱
③島原の乱
正解は『応仁の乱』
応仁の乱は、将軍の後継者争いや、有力守護大名である細川氏と山名氏の対立などが原因で起こった大規模な内乱です。主戦場となった京都は焼け野原となり、乱後は幕府の権威が大きく低下し、守護大名が領国支配を強めたり、実力のある者が領主を倒して国を支配する下剋上の風潮が広まり、戦国時代へと移っていきました。
応仁の乱以降、実力のある者が身分の上の者を倒して権力を握る風潮を何というでしょう?
①下剋上
②尊王攘夷
③富国強兵
正解は『下剋上』
下剋上は、下の身分や地位の者が、上の身分や地位の者を実力で倒して、その地位を奪い取ることです。応仁の乱以降の戦国時代には、守護代が守護大名を倒したり、家臣が主君を追放したりする例が各地で見られ、社会の流動性が高まりました。
戦国時代に、自分の領国を独自の方法で支配した大名を何というでしょう?
①守護大名
②国人領主
③戦国大名
正解は『戦国大名』
戦国大名は、応仁の乱以降、守護大名やその家臣(守護代)、国人領主などの中から実力で台頭し、領国を一元的に支配した大名です。城下町を建設し、家臣団を編成し、分国法(領国独自の法律)を定めるなどして、富国強兵に努めました。
1543年、現在の鹿児島県にある島にポルトガル人が漂着し、日本に初めて伝わった武器は何でしょう?
①大砲
②火縄銃(鉄砲)
③火薬
正解は『火縄銃(鉄砲)』
1543年、種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲(火縄銃)が伝えられました。この新しい武器は、戦国時代の合戦の方法を大きく変え、織田信長などが積極的に導入しました。堺(大阪府)や国友(滋賀県)などで国産化も進みました。
1549年、現在の鹿児島市に来航し、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師は誰でしょう?
①ルイス・フロイス
②ガスパル・ヴィレラ
③フランシスコ・ザビエル
正解は『フランシスコ・ザビエル』
フランシスコ・ザビエルは、スペイン人のイエズス会宣教師で、1549年に鹿児島に上陸し、日本で初めてキリスト教(カトリック)の布教を行いました。その後、平戸、山口、京都などを訪れましたが、約2年で日本を離れました。彼の来日以降、多くの宣教師が来日し、キリスト教は西日本の大名や民衆の間に広まりました。
キリスト教の信者のことを、当時何と呼んだでしょう?
①仏教徒
②神主
③キリシタン
正解は『キリシタン』
キリシタンは、ポルトガル語の「クリスタン(Cristão)」が語源で、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本のキリスト教徒を指す言葉です。宣教師の布教活動により、特に九州地方を中心にキリシタン大名も現れるなど、一時的に信者が増加しました。
織田信長が、商工業を発展させるために、座(同業者組合)の特権を廃止し、誰でも自由に営業できるようにした政策は何でしょう?
①検地
②刀狩
③楽市・楽座
正解は『楽市・楽座』
楽市・楽座は、織田信長や豊臣秀吉などが、城下町の繁栄や商工業の活性化を目的として実施した政策です。市での税(市場税)を免除する「楽市」と、座(同業者組合)の特権を廃止して自由な営業を認める「楽座」を組み合わせ、商工業者の活動を促進しました。
1575年、織田信長が武田勝頼の騎馬隊を鉄砲隊で破った戦いは何でしょう?
①桶狭間の戦い
②長篠の戦い
③関ヶ原の戦い
正解は『長篠の戦い』
長篠の戦いは、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼軍との間で行われた戦いです。信長は、大量の鉄砲を組織的に用い、馬防柵を築くなどの戦術で、当時最強といわれた武田の騎馬隊に大勝しました。鉄砲の有効性を示し、戦術の転換点となった戦いとされます。
織田信長が、天下統一の拠点として琵琶湖畔に築いた壮大な城は何でしょう?
①名古屋城
②安土城
③大阪城
正解は『安土城』
安土城は、織田信長が1576年から現在の滋賀県近江八幡市に築いた城です。高層の天主(天守)を持ち、内部は豪華な障壁画で飾られるなど、権力を示すための新しい時代の城郭でした。天下統一事業の拠点となりましたが、本能寺の変後に焼失しました。
1582年、天下統一を目前にした織田信長が、家臣の明智光秀に裏切られて京都で自害した出来事を何というでしょう?
①応仁の乱
②本能寺の変
③関ヶ原の戦い
正解は『本能寺の変』
本能寺の変は、1582年6月、家臣の明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺に滞在していた主君の織田信長を襲撃した事件です。信長は自害し、天下統一事業は中断されました。この後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を討ち、信長の後継者としての地位を確立しました。
織田信長の後を継ぎ、全国統一を成し遂げた人物は誰でしょう?
①徳川家康
②豊臣秀吉
③明智光秀
正解は『豊臣秀吉』
豊臣秀吉は、もとは尾張の農民出身とされますが、織田信長に仕えて頭角を現し、本能寺の変後は明智光秀を討って信長の後継者となりました。その後、巧みな外交と軍事力で各地の大名を従え、1590年に関東の北条氏を滅ぼして全国統一を完成させました。
豊臣秀吉が、全国の土地の広さや収穫量(石高)を調べ、年貢を確実に取り立てるために実施した政策は何でしょう?
①楽市・楽座
②刀狩
③太閤検地
正解は『太閤検地』
太閤検地は、関白・太閤となった豊臣秀吉が全国的に実施した検地(土地調査)です。統一された基準(枡や単位)で田畑の面積と等級を調査し、予想収穫量を米の体積(石高)で表しました。これにより、土地の所有者(耕作者)を確定し、石高に基づいて年貢(村単位で納める村高制)や軍役を課す体制を確立しました。荘園制は完全に崩壊しました。
豊臣秀吉が、農民や寺社から刀や槍などの武器を取り上げ、一揆を防ぎ、兵農分離を進めるために実施した政策は何でしょう?
①検地
②刀狩
③楽市・楽座
正解は『刀狩』
刀狩(刀狩令)は、1588年に豊臣秀吉が全国に出した法令で、農民が刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武器を持つことを禁止し、提出を命じたものです。表向きは、武器を農具や仏像の材料にするとしていましたが、主な目的は農民の一揆を防止し、武士と農民の身分を明確に分ける(兵農分離)ことでした。
豊臣秀吉が、明の征服を目指して2度にわたり大軍を送った出来事を何というでしょう?
①元寇
②倭寇
③朝鮮出兵(文禄・慶長の役)
正解は『朝鮮出兵(文禄・慶長の役)』
朝鮮出兵(文禄の役:1592-1593、慶長の役:1597-1598)は、豊臣秀吉が明の征服を掲げて、その通過点となる朝鮮に大軍を送った侵略戦争です。しかし、朝鮮の民衆や水軍(李舜臣など)の抵抗、明の援軍などにより、目的を達することはできず、秀吉の死によって撤兵しました。この出兵は、日本国内の大名に大きな負担を与え、朝鮮にも甚大な被害をもたらしました。
織田信長や豊臣秀吉の時代に栄えた、壮大で豪華な文化を何というでしょう?城郭建築や狩野派の障壁画などが特徴です。
①北山文化
②東山文化
③桃山文化
正解は『桃山文化』
桃山文化は、織田信長・豊臣秀吉の時代(安土桃山時代、16世紀後半~17世紀初頭)に栄えた文化です。戦国大名や大商人たちの権力と富を背景に、壮大で豪華、そして人間味あふれる点が特徴です。代表的なものに、姫路城のような壮大な城郭建築、狩野永徳らに代表される金碧障壁画、千利休が大成した茶の湯などがあります。南蛮文化の影響も見られます。
茶の湯を大成し、豊臣秀吉にも仕えましたが、後に秀吉の怒りに触れて自害を命じられた人物は誰でしょう?
①観阿弥
②世阿弥
③千利休
正解は『千利休』
千利休は、堺の商人出身の茶人です。質素なわび茶の精神を追求し、茶の湯を芸術の域にまで高めました。織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕えましたが、後に秀吉と対立し、自刃を命じられました。彼の流派は、現在の茶道の基礎となっています。
豊臣秀吉の死後、全国の支配権をめぐって、1600年に起こった大きな戦いを何というでしょう?
①長篠の戦い
②小牧・長久手の戦い
③関ヶ原の戦い
正解は『関ヶ原の戦い』
関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死後、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との間で行われた天下分け目の戦いです。美濃国関ヶ原(現在の岐阜県)で行われ、東軍が勝利しました。この勝利により、徳川家康は全国支配の実権を握り、江戸幕府を開く基礎を固めました。
関ヶ原の戦いに勝利し、1603年に征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた人物は誰でしょう?
①豊臣秀頼
②徳川秀忠
③徳川家康
正解は『徳川家康』
徳川家康は、関ヶ原の戦いで勝利した後、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(現在の東京)に幕府を開きました。これにより、約260年間続く江戸時代が始まりました。
江戸幕府が、大名を統制するために定めた法律は何でしょう?大名の居城の修理制限や結婚の許可制などが定められました。
①御成敗式目
②武家諸法度
③公事方御定書
正解は『武家諸法度』
武家諸法度は、江戸幕府が大名や武士を統制するために制定した基本的な法律です。1615年の元和令が最初で、その後、将軍の代替わりごとに改定されました。学問や武芸の奨励、城の無断修理の禁止、大名間の無断結婚の禁止などが定められ、幕府への忠誠を求めました。
江戸幕府の3代将軍徳川家光の時に制度化された、大名に1年おきに江戸と領地を往復させる制度を何というでしょう?
①参勤交代
②楽市・楽座
③地租改正
正解は『参勤交代』
参勤交代は、江戸幕府が大名統制のために確立した制度です。原則として、すべての大名は1年ごとに江戸と自分の領地(国元)を行き来し、妻子は人質として江戸に住まわせることが義務付けられました。これにより、大名は多額の費用負担を強いられ、幕府への反抗力を削がれるとともに、江戸と地方の交通網の発達や文化交流を促す効果もありました。
江戸幕府のしくみで、幕府(将軍)と藩(大名)が全国の土地と人々を支配する体制を何というでしょう?
①律令体制
②荘園公領制
③幕藩体制
正解は『幕藩体制』
幕藩体制は、江戸時代の日本の支配体制です。全国の頂点に立つ江戸幕府(将軍)と、各地を支配する藩(大名)が、土地(幕領・藩領)と人民(武士・農民・町人など)を共同で支配する仕組みです。幕府は武家諸法度や参勤交代などで大名を厳しく統制しました。
江戸時代に定められた、武士を頂点とし、農民、職人、商人の順とされる身分制度を一般的に何と呼ぶでしょう?
①カースト制
②士農工商
③四民平等
正解は『士農工商』
士農工商は、江戸時代の基本的な身分制度を簡略的に表した言葉です。支配階級である武士(士)を最上位とし、人口の大部分を占め、年貢を納める農民(農)、手工業製品を作る職人(工)、商品を流通させる商人(商)が続く形が一般的とされました。実際には、これ以外にも多様な身分の人々が存在し、身分間の移動が全くなかったわけではありません。
江戸時代、人口の約8割以上を占め、主に村に住み、年貢を納める義務を負っていた身分は何でしょう?
①武士
②町人
③農民
正解は『農民』
農民(百姓)は、江戸時代の社会と経済の基盤を支える存在でした。人口の大半を占め、主に米などの作物を生産し、領主(幕府や大名)に年貢として納める義務を負っていました。村ごとに自治組織(村方三役など)があり、厳しい統制を受けながらも生活していました。
江戸時代の村で、年貢の徴収や幕府・藩からの命令伝達などに責任を負った、名主(庄屋)・組頭・百姓代などの役人を総称して何というでしょう?
①地侍
②村方三役
③町役人
正解は『村方三役』
村方三役(むらかたさんやく)は、江戸時代の村の指導者層で、名主(なぬし、関西では庄屋)、組頭(くみがしら)、百姓代(ひゃくしょうだい)の三役を指します。彼らは領主の支配の末端を担い、年貢の徴収、法令の伝達、村の運営、紛争の調停などを行いました。多くは世襲でしたが、百姓代は他の百姓の代表として選ばれることもありました。
江戸時代の村々で、犯罪防止や年貢納入の連帯責任などを目的として、数戸を単位として作られた隣組組織を何というでしょう?
①惣村
②寄合
③五人組
正解は『五人組』
五人組は、江戸幕府が農民や町人を統制するために設けた制度です。原則として隣接する五戸を一組とし、互いに監視し合い、犯罪の防止、年貢の完納、キリシタンの摘発などに連帯責任を負わせました。村や町の運営にも関わる重要な組織でした。
江戸幕府が、キリスト教を禁止し、貿易を管理・制限した政策を何というでしょう?
①海禁政策
②鎖国
③開国
正解は『鎖国』
鎖国は、江戸幕府が17世紀前半(主に徳川家光の時代)に完成させた対外政策です。キリスト教の禁止を徹底し、日本人の海外渡航と帰国を禁止し、貿易相手国と交易地を限定しました。完全に国を閉ざしたわけではなく、長崎の出島でオランダと中国(清)との貿易は続けられました。
島原・天草一揆の後、キリスト教徒を発見するために行われた、イエスやマリアの像などを踏ませる行為を何というでしょう?
①宗門改め
②踏絵
③寺請制度
正解は『踏絵』
踏絵は、江戸幕府がキリシタン(キリスト教徒)を発見するために用いた手法です。キリストや聖母マリアが描かれた板や金属製の像(踏絵板)を踏ませ、それをためらったり拒否したりする者をキリシタンとみなして摘発しました。主に長崎などで、正月に行われることが多かったです。
江戸幕府が、すべての人々をいずれかの仏教寺院の檀家(信徒)として登録させ、キリスト教徒ではないことを証明させた制度を何というでしょう?
①人別改帳
②寺請制度
③檀家制度
正解は『寺請制度』
寺請制度は、江戸幕府がキリスト教禁止を徹底するために導入した制度です。人々は必ずいずれかの仏教寺院の檀家となり、寺院がその人物がキリシタンではないことを証明する「寺請証文」を発行しました。これにより、寺院は民衆の戸籍管理のような役割も担うことになりました。
鎖国政策の下で、ヨーロッパの国として唯一、長崎の出島での貿易を許された国はどこでしょう?
①ポルトガル
②スペイン
③オランダ
正解は『オランダ』
江戸幕府は、キリスト教の布教を行わないことを条件に、プロテスタント国であるオランダとの貿易を長崎の出島に限定して許可しました。オランダ商館長が定期的に提出する「オランダ風説書」は、幕府にとって海外の情報を得るための貴重な手段となりました。
江戸時代の五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の起点となった場所はどこでしょう?
①京都(三条大橋)
②大阪(高麗橋)
③江戸(日本橋)
正解は『江戸(日本橋)』
江戸の日本橋は、江戸幕府によって五街道の起点と定められました。ここから全国各地へ向かう主要な街道が整備され、宿場町が設けられました。これにより、人や物資の移動が活発になり、江戸を中心とする全国的な交通網が形成されました。
江戸時代、大坂が「天下の何」と呼ばれ、全国の米や特産物が集まる商業の中心地となったでしょう?
①天下の台所
②天下の書庫
③天下の劇場
正解は『天下の台所』
大坂(現在の大阪)は、江戸時代に全国各地からの年貢米や特産物が集まる一大流通拠点となり、「天下の台所」と呼ばれました。蔵屋敷が立ち並び、米市場(堂島)や様々な商品の取引が活発に行われ、日本の経済の中心地として繁栄しました。
江戸時代の前半(17世紀末~18世紀初頭)、上方(京都・大坂)を中心に栄えた町人文化を何というでしょう?井原西鶴の浮世草子や近松門左衛門の人形浄瑠璃、松尾芭蕉の俳諧などが代表的です。
①桃山文化
②元禄文化
③化政文化
正解は『元禄文化』
元禄文化は、江戸時代前期、特に元禄年間(1688-1704)頃に、経済的に豊かになった上方(京都・大坂)の町人たちを主な担い手として栄えた文化です。現実的で人間味あふれる作品が多く、文学では井原西鶴の浮世草子や松尾芭蕉の俳諧、演劇では近松門左衛門の人形浄瑠璃や歌舞伎(市川團十郎など)、美術では尾形光琳の装飾画などが代表的です。
「奥の細道」などの紀行文や、「古池や蛙飛びこむ水の音」などの句で知られる、元禄時代を代表する俳諧師は誰でしょう?
①井原西鶴
②近松門左衛門
③松尾芭蕉
正解は『松尾芭蕉』
松尾芭蕉は、江戸時代前期を代表する俳諧師(俳人)です。各地を旅しながら多くの句を詠み、俳諧を芸術性の高い文学(蕉風俳諧)へと高めました。代表作に、東北・北陸への旅をまとめた紀行文「おくのほそ道」があります。
江戸幕府の8代将軍で、財政再建のために質素倹約を進め、新田開発を奨励し、公事方御定書を制定するなど、「享保の改革」を行った人物は誰でしょう?
①徳川綱吉
②徳川吉宗
③徳川家斉
正解は『徳川吉宗』
徳川吉宗は、紀州藩主から江戸幕府8代将軍となり、幕府財政の立て直しや政治の刷新を目指して享保の改革(1716-1745)を行いました。主な政策に、倹約令、上げ米の制(大名に石高に応じて米を献上させる)、新田開発の奨励、目安箱の設置(庶民の意見を聞く)、公事方御定書(裁判の基準となる法典)の制定などがあります。
享保の改革の一環として、徳川吉宗が裁判の基準を定めた法典は何でしょう?
①武家諸法度
②御成敗式目
③公事方御定書
正解は『公事方御定書』
公事方御定書(くじかたおさだめがき)は、8代将軍徳川吉宗の命令により、1742年に編纂された江戸幕府の基本法典(判例集)です。それまでの判例や法令を整理・集成し、裁判や刑罰の基準を明確にしました。幕府内部の機密文書とされ、一般には公開されませんでした。
江戸時代中期、田沼意次が、幕府の財政難を打開するために、商工業者の同業者組合である何を奨励し、税(運上金・冥加金)を取ったでしょう?
①座
②惣
③株仲間
正解は『株仲間』
株仲間は、江戸時代の商工業者(主に問屋)が幕府や藩の許可を得て結成した同業者組合です。田沼意次は、この株仲間を公認・奨励し、営業の独占権を与える見返りに、運上金(営業税)や冥加金(上納金)を納めさせることで、幕府の財政収入増加を図りました。しかし、物価上昇などを招き、賄賂政治との批判も受けました。
田沼意次の政治の後、老中となり、「寛政の改革」を行った人物は誰でしょう?祖父は徳川吉宗です。
①水野忠邦
②松平定信
③大岡忠相
正解は『松平定信』
松平定信は、白河藩主から老中となり、田沼時代の風潮を改めて幕政の立て直しを図るため、寛政の改革(1787-1793)を行いました。祖父である徳川吉宗の享保の改革を理想とし、倹約令、旗本・御家人の借金救済(棄捐令)、江戸への農民流入制限(旧里帰農令)、朱子学以外の学問の禁止(寛政異学の禁)、出版統制など、厳しい引き締め政策をとりました。
江戸時代、オランダ語を通じてヨーロッパの学問や文化を研究した学問を何というでしょう?
①国学
②蘭学
③儒学
正解は『蘭学』
蘭学は、鎖国下の日本で、唯一交易のあったオランダを通じて入ってきたヨーロッパの学術・文化を研究する学問です。医学、天文学、地理学、物理学、化学など多岐にわたり、杉田玄白や前野良沢らによる『解体新書』の翻訳・刊行は、蘭学発展の大きな契機となりました。
杉田玄白や前野良沢らが、オランダ語の医学書を翻訳して刊行した、日本の医学に大きな影響を与えた書物は何でしょう?
①ターヘル・アナトミア
②解体新書
③蘭学事始
正解は『解体新書』
『解体新書』は、1774年に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが、ドイツ人医師クルムスの解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を翻訳・刊行したものです。日本で初めての本格的な西洋解剖学の翻訳書であり、それまでの漢方医学中心だった日本の医学界に衝撃を与え、蘭学の発展を促しました。
江戸時代中期に、『古事記』を研究し、儒教や仏教の影響を受ける前の日本固有の精神(真心)を明らかにしようとした国学者は誰でしょう?
①新井白石
②荻生徂徠
③本居宣長
正解は『本居宣長』
本居宣長は、江戸時代中期の国学者です。伊勢松坂の医者でありながら、日本の古典、特に『古事記』を生涯かけて研究し、『古事記伝』を完成させました。彼は、漢意(からごころ、儒教や仏教など外来思想の影響)を排し、古代日本人の純粋な精神(真心、もののあはれ)を明らかにしようとし、国学を大成させました。彼の思想は、後の尊王攘夷運動にも影響を与えました。
日本全国を測量して歩き、非常に精密な日本地図『大日本沿海輿地全図』を作成した人物は誰でしょう?
①間宮林蔵
②伊能忠敬
③高橋景保
正解は『伊能忠敬』
伊能忠敬は、江戸時代後期の測量家・地理学者です。50歳を過ぎてから天文学と測量術を学び、幕府の命令を受けて1800年から1816年にかけて日本全国の沿岸を中心に測量を行いました。彼の測量データをもとに、弟子たちが『大日本沿海輿地全図』を完成させました。この地図は、近代的な測量技術に基づく最初の実測日本地図として、極めて高い精度を誇りました。
江戸時代の後期(19世紀初頭)、江戸を中心に栄えた町人文化を何というでしょう?葛飾北斎や歌川広重の浮世絵、十返舎一九の滑稽本、滝沢馬琴の読本などが有名です。
①元禄文化
②化政文化
③明治文化
正解は『化政文化』
化政文化は、江戸時代後期の文化・文政年間(1804-1830)頃に、江戸の町人を中心に栄えた文化です。皮肉や滑稽、退廃的・享楽的な傾向も見られますが、庶民的で多様な文化が花開きました。美術では葛飾北斎や歌川広重の浮世絵(風景画)、文学では十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などの滑稽本や滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などの読本、演劇では鶴屋南北の歌舞伎などが代表的です。
「富嶽三十六景」などの風景画で有名な、化政文化を代表する浮世絵師は誰でしょう?
①東洲斎写楽
②喜多川歌麿
③葛飾北斎
正解は『葛飾北斎』
葛飾北斎は、江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師です。風景画、美人画、役者絵、花鳥画、漫画(北斎漫画)など、幅広い分野で活躍し、斬新な構図や色彩で多くの傑作を残しました。代表作「富嶽三十六景」シリーズは、富士山を様々な角度から描いたもので、海外の芸術家にも影響を与えました。
「東海道五十三次」などの風景画で知られ、葛飾北斎とともに化政文化の浮世絵を代表する絵師は誰でしょう?
①歌川国芳
②歌川広重
③鈴木春信
正解は『歌川広重』
歌川広重は、江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師です。特に、叙情的な風景画を得意とし、「東海道五十三次」シリーズは、当時の旅の様子や各地の風景を描き、大衆の人気を博しました。「名所江戸百景」なども有名です。
子どもたちが読み書きや計算を学ぶために、江戸時代の町や村に普及した庶民の教育施設を何というでしょう?
①藩校
②寺子屋
③私塾
正解は『寺子屋』
寺子屋は、江戸時代に庶民の子弟を対象として普及した教育施設です。特定の宗派や身分に関係なく、町人や農民の子どもたちが、師匠(僧侶、武士、町人、農民など様々)から読み・書き・そろばん(計算)の基礎を学びました。江戸時代の識字率の高さに貢献しました。
1825年、幕府が、日本の沿岸に近づく外国船(中国・オランダ・朝鮮を除く)を、理由を問わず撃退するように命じた法令は何でしょう?
①鎖国令
②生類憐みの令
③異国船打払令(無二念打払令)
正解は『異国船打払令(無二念打払令)』
異国船打払令(無二念打払令)は、18世紀末から外国船の来航が増加したことを受けて、1825年に江戸幕府が出した法令です。清(中国)、オランダ、朝鮮以外の外国船が日本の沿岸に接近した場合、事情を尋ねることなく(無二念に)、直ちに砲撃して撃退することを命じました。これは、幕府の対外的な強硬姿勢を示すものでしたが、後にモリソン号事件などを引き起こし、批判されることになります。
1837年、元大阪町奉行所の役人で陽明学者の大塩平八郎が、飢饉に苦しむ人々を救うために大阪で起こした反乱は何でしょう?
①島原の乱
②天保の飢饉
③大塩平八郎の乱
正解は『大塩平八郎の乱』
大塩平八郎の乱は、1837年に、天保の飢饉による米価の高騰と、奉行所の救済策の不備に憤慨した元与力の大塩平八郎が、門弟や農民らとともに起こした武装蜂起です。彼は、豪商の屋敷などを襲撃し、貧民救済を訴えましたが、わずか1日で鎮圧されました。しかし、元幕府役人が反乱を起こしたことは、幕府や社会に大きな衝撃を与えました。
大塩平八郎の乱やモリソン号事件などを受け、老中の水野忠邦が幕政の立て直しを図った改革を何というでしょう?倹約令、株仲間の解散、人返し令などを行いましたが、失敗に終わりました。
①享保の改革
②寛政の改革
③天保の改革
正解は『天保の改革』
天保の改革は、1841年から1843年にかけて、老中の水野忠邦が中心となって行った幕政改革です。享保・寛政の改革を模範とし、綱紀粛正、倹約令、株仲間の解散(物価抑制目的)、江戸に流入した農民を強制的に帰郷させる人返し令、上知令(江戸・大坂周辺の土地を幕領にする、反対が多く撤回)などを実施しました。しかし、急激で厳しい政策は社会の反発を招き、効果を上げられずに失敗しました。
1853年、軍艦4隻を率いて日本の浦賀(神奈川県)に来航し、幕府に開国を要求したアメリカ東インド艦隊司令長官は誰でしょう?
①ハリス
②ペリー
③シーボルト
正解は『ペリー』
マシュー・ペリーは、アメリカ合衆国海軍の軍人で、東インド艦隊司令長官として、大統領フィルモアの国書を携え、蒸気船(黒船)を含む艦隊を率いて1853年に日本の浦賀に来航しました。武力を背景に日本の開国と通商を要求し、幕府に大きな衝撃を与えました。
ペリーの再来航を受け、1854年に江戸幕府がアメリカとの間で結んだ、下田と箱館(函館)の2港を開き、アメリカ船への物資補給などを認めた条約は何でしょう?
①日米修好通商条約
②日米和親条約
③神奈川条約
正解は『日米和親条約』
日米和親条約は、1854年にペリーとの間で結ばれた、日本が鎖国体制を改めて開国した最初の条約です(神奈川で締結されたため神奈川条約とも呼ばれます)。主な内容は、①下田・箱館(函館)の2港を開港し、薪水・食料・石炭などを供給すること、②漂着したアメリカ船員を救助すること、③アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること、などでした。ただし、この時点では自由な貿易は認められていませんでした。
1858年、幕府の大老井伊直弼が、朝廷の許可(勅許)を得ずにアメリカ総領事ハリスとの間で結んだ、貿易の開始や領事裁判権の承認、関税自主権の欠如などを内容とする不平等な条約は何でしょう?
①日米和親条約
②日米修好通商条約
③安政の五カ国条約
正解は『日米修好通商条約』
日米修好通商条約は、1858年に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと江戸幕府(大老・井伊直弼)との間で調印された条約です。神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)などの開港と自由貿易の開始、外国人の居留地設定などを定めました。しかし、日本側に治外法権(領事裁判権)を認め、関税自主権がない(協定関税制)という、日本にとって不利な内容を含む不平等条約でした。同様の条約がオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ばれました(安政の五カ国条約)。
日米修好通商条約などの不平等条約で、外国人が日本で罪を犯しても、日本の法律で裁かれず、その国の領事が本国の法律で裁く権利を何というでしょう?
①関税自主権
②最恵国待遇
③領事裁判権(治外法権)
正解は『領事裁判権(治外法権)』
領事裁判権は、治外法権の一種で、ある国の国民が相手国内で罪を犯した場合に、相手国の裁判権が及ばず、自国の領事が本国の法律に基づいて裁判を行う権利のことです。日米修好通商条約などで、日本はこの権利を欧米列強に認めさせられたため、日本の主権が侵害されている状態でした。
日米修好通商条約などの不平等条約で、輸入品にかける関税率を、日本が自由に決めることができない権利のことを、何がない状態というでしょう?
①領事裁判権がない
②関税自主権がない
③最恵国待遇がない
正解は『関税自主権がない』
関税自主権は、自国の関税率を自主的に決定できる国家の権利です。日米修好通商条約では、日本はこの権利を持たず、関税率は相手国との協定によって定められました(協定関税制)。これにより、日本は自国の産業を保護するための関税政策を自由に行うことができず、経済的に不利な立場に置かれました。
幕末に、天皇を尊び、外国勢力を打ち払おうとする思想・運動を何というでしょう?
①公武合体
②開国進取
③尊王攘夷(尊皇攘夷)
正解は『尊王攘夷(尊皇攘夷)』
尊王攘夷(そんのうじょうい)は、幕末期の日本の政治思想・運動です。「尊王」は天皇を尊び、幕府から政治の実権を取り戻そうとすること、「攘夷」は外国勢力を実力で排除しようとすることを意味します。当初は幕府も攘夷を掲げましたが、次第に朝廷(天皇)と結びついた反幕府的な運動へと発展し、倒幕運動の原動力の一つとなりました。
日米修好通商条約の調印などを強行し、反対派の大名や公家、志士たちを厳しく弾圧した、井伊直弼による政治弾圧を何というでしょう?
①蛮社の獄
②安政の大獄
③池田屋事件
正解は『安政の大獄』
安政の大獄は、1858年から1859年にかけて、幕府の大老・井伊直弼が行った大規模な政治弾圧です。将軍継嗣問題や条約勅許問題で対立した一橋派の大名や公家、尊王攘夷派の志士(吉田松陰、橋本左内など)を処罰(隠居、蟄居、死刑など)しました。この弾圧は強い反発を招き、井伊直弼自身の暗殺(桜田門外の変)につながりました。
1860年、安政の大獄に憤慨した水戸藩や薩摩藩の浪士らが、江戸城の桜田門外で大老の井伊直弼を暗殺した事件を何というでしょう?
①坂下門外の変
②桜田門外の変
③禁門の変
正解は『桜田門外の変』
桜田門外の変は、1860年3月、江戸城桜田門外で、登城途中の大老・井伊直弼が、水戸藩脱藩浪士らによって暗殺された事件です。安政の大獄に対する報復であり、幕府の最高権力者が白昼堂々殺害されたこの事件は、幕府の権威を大きく失墜させ、幕末の動乱を加速させました。
幕末に、長州藩の高杉晋作らが、藩士だけでなく、身分にとらわれずに農民や町人も参加させて組織した軍隊を何というでしょう?
①新選組
②白虎隊
③奇兵隊
正解は『奇兵隊』
奇兵隊は、1863年に長州藩の高杉晋作が、外国艦隊の下関砲撃事件などをきっかけに、藩の正規兵とは別に創設した軍事組織です。藩士だけでなく、農民、町人、僧侶など様々な身分の人々から志願者を募り、西洋式の訓練と装備を取り入れました。幕府との戦い(長州征討など)で活躍し、身分によらない兵士の有効性を示しました。
イギリスと結びついて藩政改革や軍備の近代化を進め、坂本龍馬らの仲介で長州藩と手を結び、倒幕の中心となった藩はどこでしょう?
①土佐藩
②薩摩藩
③会津藩
正解は『薩摩藩』
薩摩藩(現在の鹿児島県)は、西郷隆盛や大久保利通らの指導の下、幕末に大きな力を持った藩です。当初は公武合体(朝廷と幕府の協調)路線をとりましたが、生麦事件や薩英戦争を経て攘夷の不可能を悟り、イギリスに接近して軍備の近代化を進めました。その後、長州藩と薩長同盟を結び、武力による倒幕運動の中心勢力となりました。
幕府を支持し、京都の治安維持にあたった藩で、戊辰戦争では最後まで新政府軍と戦ったのはどこでしょう?
①長州藩
②薩摩藩
③会津藩
正解は『会津藩』
会津藩(現在の福島県西部)は、藩主松平容保が京都守護職に任命され、新選組などを配下において京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派(特に長州藩)と激しく対立しました。幕府への忠誠心が厚く、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心となって最後まで新政府軍に抵抗しましたが、若松城(鶴ヶ城)が落城し降伏しました。
対立していた薩摩藩と長州藩が、土佐藩の坂本龍馬らの仲介で、倒幕のために手を結んだ同盟を何というでしょう?
①日英同盟
②日露同盟
③薩長同盟
正解は『薩長同盟』
薩長同盟(薩長連合)は、1866年に、それまで敵対関係にあった薩摩藩と長州藩が、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介により、倒幕という共通の目的のために結んだ軍事同盟です。この同盟の成立により、倒幕運動は急速に進展し、明治維新の実現に大きな力となりました。
1867年、土佐藩などの進言を受け入れ、江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上したことを何というでしょう?
①版籍奉還
②廃藩置県
③大政奉還
正解は『大政奉還』
大政奉還は、1867年10月、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が、政権(大政)を朝廷(天皇)に返上することを申し出た出来事です。土佐藩の後藤象二郎らが坂本龍馬の船中八策をもとに進言したもので、慶喜はこれにより徳川家中心の新たな政治体制(公議政体)を目指しましたが、薩長両藩は武力による幕府の完全排除を目指しました。
大政奉還の後、薩長藩などを中心とする勢力が、天皇中心の新政府の樹立を宣言したことを何というでしょう?これにより江戸幕府は事実上滅亡しました。
①五箇条の御誓文
②王政復古の大号令
③版籍奉還
正解は『王政復古の大号令』
王政復古の大号令は、大政奉還後の1867年12月(旧暦)、薩摩・長州藩などの倒幕派が、朝廷を動かして発令させた宣言です。これにより、幕府、摂政、関白などの廃止と、天皇親政(神武創業の始めに基づく)の新政府樹立が宣言され、徳川慶喜には辞官納地(官職辞退と領地返上)が命じられました。江戸幕府は名実ともに終焉を迎えました。
1868年から1869年にかけて、新政府軍と旧幕府軍との間で行われた内戦を何というでしょう?鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いまで続きました。
①西南戦争
②戊辰戦争
③日清戦争
正解は『戊辰戦争』
戊辰戦争は、王政復古によって成立した明治新政府と、旧江戸幕府勢力およびこれに与した藩との間で行われた内戦です。1868年1月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、江戸城無血開城、東北地方での戦闘(会津戦争など)、箱館(函館)の五稜郭の戦いを経て、1869年5月に終結しました。この戦争の結果、新政府による全国統一が確立されました。
1868年、明治天皇が神々に誓うという形で、新政府の基本方針を示したものを何というでしょう?「広く会議をおこし万機公論に決すべし」などの内容が含まれます。
①教育勅語
②大日本帝国憲法
③五箇条の御誓文
正解は『五箇条の御誓文』
五箇条の御誓文は、1868年3月、明治天皇が天地神明に誓う形式で発表された明治新政府の基本方針です。①広く会議を開き、すべての政治は世論に従って決定する、②身分に関係なく心を一つにして国を治める、③国民各自がその志を遂げられるようにする、④旧来の悪習を打破する、⑤知識を世界に求めて国を発展させる、という内容で、近代国家建設への意欲を示しました。
明治新政府が、首都を京都から東京(旧江戸)に移したことを何というでしょう?
①遷都
②奠都(てんと)
③移都
正解は『遷都』
1868年(明治元年)に江戸が東京と改称され、翌1869年(明治2年)に明治天皇が京都から東京に移り、皇居(旧江戸城)を宮城と定めました。これにより、東京が日本の事実上の首都となりました(遷都)。奠都は、都を定める、という意味合いで使われることもあります。
1869年、全国の藩主(大名)に、土地(版)と人民(籍)を朝廷に返させた改革を何というでしょう?
①大政奉還
②廃藩置県
③版籍奉還
正解は『版籍奉還』
版籍奉還は、1869年に明治新政府が実施した改革で、全国の藩主(大名)が、支配していた土地(版図)と人民(戸籍)を形式的に朝廷(天皇)に返上したものです。これにより、土地と人民は形式上は天皇のものとなりましたが、旧藩主はそのまま知藩事に任命され、実質的な支配体制は大きくは変わりませんでした。中央集権化への第一歩となりました。
1871年、明治政府が、全国の藩を廃止して県を設置し、中央から府知事・県令を派遣して治めさせることで、中央集権体制を確立した改革を何というでしょう?
①版籍奉還
②地租改正
③廃藩置県
正解は『廃藩置県』
廃藩置県は、1871年に明治政府が断行した改革で、全国に残っていた藩をすべて廃止し、代わりに府と県を設置しました。旧藩主(知藩事)は罷免されて東京に移住させられ、中央政府から任命された府知事・県令が地方行政を行うことになりました。これにより、幕藩体制は完全に解体され、政府が全国を直接統治する中央集権国家の体制が確立しました。
明治政府が、江戸時代の身分制度を廃止し、「皇族・華族・士族・平民」の四つの身分に再編成した改革を何というでしょう?
①四民平等
②地租改正
③学制発布
正解は『四民平等』
四民平等は、明治維新期に行われた身分制度改革のスローガンです。1869年の版籍奉還後に公家と大名を「華族」、武士を「士族」、農工商などを「平民」とし、1871年の廃藩置県後に、原則として身分による職業選択や居住地の制限、苗字の使用、異なる身分間の結婚などが自由化されました。ただし、華族・士族には特権が残存し、完全な平等ではありませんでした。
1872年、明治政府が、国民すべてが教育を受けられるように、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」ことを目指して公布した近代的な学校制度の法令は何でしょう?
①教育勅語
②学制
③帝国大学令
正解は『学制』
学制は、1872年に明治政府が公布した、日本で最初の体系的な近代学校制度に関する法令です。フランスの学区制をモデルとし、全国を大学区・中学区・小学区に分け、国民皆学を目指して小学校の設置と就学を奨励しました。これにより、身分や性別に関わらず、国民が教育を受ける機会が(理念上は)開かれました。
1873年、明治政府が、土地の所有者に地券を発行して土地の所有権を認め、地価(土地の価格)の3%を現金で納めさせるようにした税制改革を何というでしょう?
①版籍奉還
②地租改正
③検地
正解は『地租改正』
地租改正は、1873年から明治政府が実施した土地・税制改革です。まず、土地の所有者を確定して地券を発行し、土地の売買を自由化しました。次に、土地の価格(地価)を定め、その地価の3%(後に2.5%に引き下げ)を、土地所有者が現金で政府に納める(地租)こととしました。これにより、従来の米納(年貢)から金納へと変わり、豊凶に関わらず安定した税収を政府にもたらしましたが、農民の負担は必ずしも軽減されず、反対一揆も起こりました。
1873年、明治政府が、近代的な常備軍を創設するために、満20歳以上の男子から兵士を徴収する制度を定めた法令は何でしょう?
①武家諸法度
②徴兵令
③治安維持法
正解は『徴兵令』
徴兵令は、1873年に明治政府が公布した、国民皆兵を原則とする近代的な軍隊制度を創設するための法令です。「血税」という言葉が誤解を招き反対一揆も起きましたが、これにより満20歳に達した男子から抽選などで兵役を義務付け、士族中心の旧来の軍隊から、国民を基盤とする常備軍へと転換を図りました。ただし、当初は多くの免役規定がありました。
明治政府が、近代産業を育成し、資本主義経済を発展させるために進めた政策を何というでしょう?官営模範工場の設立などがその例です。
①文明開化
②富国強兵
③殖産興業
正解は『殖産興業』
殖産興業は、明治政府が「富国強兵」を実現するための基本政策の一つとして推進した、近代産業の育成策です。政府が主導して、西洋の技術や制度を導入し、官営模範工場(富岡製糸場など)を設立したり、鉄道・電信などのインフラを整備したり、民間企業の育成を支援したりしました。これにより、日本の資本主義経済の基礎が築かれました。
明治時代の初めに、欧米の文化や生活様式が急速に取り入れられ、社会や人々の暮らしが大きく変化した風潮を何というでしょう?
①殖産興業
②富国強兵
③文明開化
正解は『文明開化』
文明開化は、明治初期に、西洋の文明や文化が急速に流入し、日本の制度や社会、人々の生活様式が大きく変化した現象や風潮を指します。洋服、洋食(牛肉など)、洋風建築(レンガ造りなど)、太陽暦の採用、鉄道の開通、新聞の発行、散髪脱刀令などがその例です。政府も積極的に推進しましたが、一方で伝統文化との軋轢も生じました。
鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の命令で編纂された、優美で技巧的な歌風で知られる和歌集は何でしょう?
①万葉集
②古今和歌集
③新古今和歌集
正解は『新古今和歌集』
新古今和歌集は、鎌倉時代初期の1205年頃、後鳥羽上皇の院宣により編纂された勅撰和歌集です。藤原定家、藤原家隆らが撰者となり、技巧的で象徴的な歌風(新古今調)を特徴とし、平安時代の古今和歌集と並び称されます。
東大寺南大門に安置されている、鎌倉時代の力強い武士の気風を反映した、運慶・快慶ら慶派の仏師によって作られた彫刻は何でしょう?
①阿修羅像
②弥勒菩薩半跏思惟像
③金剛力士像(仁王像)
正解は『金剛力士像(仁王像)』
東大寺南大門金剛力士像は、鎌倉時代初期の1203年に、仏師運慶・快慶らによって造立されました。写実的で力強い表現は、鎌倉時代の武士の精神や時代の活気を反映しているとされ、鎌倉彫刻の最高傑作の一つです。
鎌倉時代後期、幕府の御家人の窮乏に対し、借金の帳消しなどを命じた永仁の徳政令でしたが、かえって経済を混乱させた理由の一つは何でしょう?
①武士が借金をしなくなったから
②商人が御家人にお金を貸さなくなったから
③農民が反発したから
正解は『商人が御家人にお金を貸さなくなったから』
永仁の徳政令は、御家人が売却・質入れした土地の無償返還や借金の帳消しを命じましたが、これにより金融業者(商人や高利貸し)は御家人への貸し付けを渋るようになりました。結果的に御家人はさらに資金調達が困難になり、幕府への不満を高める一因となりました。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政が短期間で崩壊した主な理由の一つは何でしょう?
①外国からの侵略があったから
②天皇が政治に関心を持たなかったから
③武士への恩賞が不公平で、公家を重視したから
正解は『武士への恩賞が不公平で、公家を重視したから』
建武の新政は、鎌倉幕府打倒に功績のあった武士たちへの恩賞が不十分・不公平であったことや、旧来の貴族(公家)を重視する政策をとったことなどから、多くの武士の不満を買いました。これが足利尊氏の離反を招き、政権崩壊の大きな原因となりました。
室町幕府で、鎌倉の支配を担当するために置かれた役職は何でしょう?足利氏の一族が代々就任しました。
①六波羅探題
②鎌倉公方(かまくらくぼう)
③鎮西探題
正解は『鎌倉公方(かまくらくぼう)』
鎌倉公方は、室町幕府が東国(関東地方)支配のために鎌倉府に置いた長官です。足利尊氏の子基氏が初代となり、その子孫が世襲しました。京都の将軍を補佐する役割でしたが、次第に独立性を強め、幕府と対立することもありました。
室町時代に、守護大名が領国内の武士(国人)を家臣として組織化していく体制を何というでしょう?
①荘園制
②地頭請
③守護領国制
正解は『守護領国制』
守護領国制は、室町時代の守護大名が、南北朝の動乱などを通じて獲得した権限(半済令、使節遵行権など)を背景に、任国内の荘園や公領を侵食し、国人と呼ばれる在地武士を家臣団に組み入れて領国支配を強化していった体制のことです。
室町時代に発達した、同業者組合のことを何というでしょう?幕府や公家などに金銭を納めることで、営業の独占権などの特権を得ました。
①株仲間
②座
③惣
正解は『座』
座は、平安時代から存在しましたが、特に室町時代に商工業の各分野で発達した同業者組合です。寺社や公家、幕府などを本所(保護者)とし、金銭(座役)を納める見返りに、原料の仕入れや製品の販売における独占権や、関所の通行税免除などの特権を得ていました。
室町時代の京都などで活動した、高利貸しを営む業者を何というでしょう?土一揆の攻撃対象となることもありました。
①問屋
②馬借
③土倉(どそう)・酒屋
正解は『土倉(どそう)・酒屋』
土倉は質屋兼倉庫業者、酒屋は酒造業者ですが、室町時代の京都などでは、これらが有力な金融業者(高利貸し)としても活動しました。彼らは幕府に税(倉役・酒屋役)を納める代わりに保護されていましたが、しばしば徳政一揆(土一揆)の際に襲撃の対象となりました。
室町時代に、観阿弥・世阿弥親子によって大成された、能面をつけ、謡(うたい)と舞(まい)で物語が進行する演劇を何というでしょう?
①歌舞伎
②人形浄瑠璃
③能(能楽)
正解は『能(能楽)』
能は、猿楽や田楽などの伝統芸能をもとに、室町時代に観阿弥・世阿弥親子が、将軍足利義満の保護を受けて大成した歌舞劇です。洗練された動き(舞)と謡、美しい装束、そして能面を用いるのが特徴で、武家社会を中心に広まりました。狂言とともに能楽と総称されます。
室町時代に流行した、上の句(五七五)と下の句(七七)を交互に複数人で詠みつないでいく形式の和歌を何というでしょう?
①俳諧
②連歌
③狂歌
正解は『連歌』
連歌は、平安時代からありましたが、特に室町時代に、公家、武士、僧侶、庶民の間で広く流行した集団文芸です。五七五の長句と七七の短句を交互に付け合い、百句(百韻連歌)などを一巻とするのが一般的でした。飯尾宗祇などが大成者として知られます。
東山文化の時代に活躍し、「秋冬山水図」など、禅の精神を反映した力強い水墨画を描いた禅僧・画家は誰でしょう?
①狩野永徳
②長谷川等伯
③雪舟
正解は『雪舟』
雪舟は、室町時代中期(東山文化期)に活躍した禅僧であり、水墨画家です。明に渡って本場の水墨画を学び、帰国後は独自の力強く、構成的な画風を確立しました。代表作に「秋冬山水図」「天橋立図」などがあり、日本の水墨画を大成させました。
銀閣(慈照寺)の東求堂同仁斎に代表される、現在の和風住宅の原型となった、畳を敷き詰め、襖や障子で部屋を仕切る建築様式を何というでしょう?
①寝殿造
②書院造
③数寄屋造
正解は『書院造』
書院造は、室町時代中期(東山文化期)に成立・発展した武家住宅の様式です。床の間、違い棚、付書院などを設け、畳を敷き詰め、襖や障子で空間を仕切るのが特徴で、禅宗寺院の方丈建築の影響を受けています。後の日本の伝統的な住宅建築の基本となりました。
応仁の乱の後、守護大名に代わって実力で台頭した戦国大名が、領国を支配するために独自に定めた法律(家法)を総称して何というでしょう?
①御成敗式目
②武家諸法度
③分国法
正解は『分国法』
分国法は、戦国大名が、自身の領国(分国)を統治するために制定した独自の法規集です。家臣団の統制、領民支配、紛争解決、社会秩序の維持などを目的とし、その内容は各領国の実情に合わせて定められました。今川氏の「今川仮名目録」や武田氏の「甲州法度之次第」、伊達氏の「塵芥集」などが有名です。
戦国時代の有名な戦国大名で、「風林火山」の旗印で知られ、甲斐国(山梨県)を本拠地としたのは誰でしょう?
①上杉謙信
②武田信玄
③北条早雲
正解は『武田信玄』
武田信玄は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名です。巧みな領国経営(信玄堤など)と強力な騎馬軍団で知られ、越後の上杉謙信と川中島で度々戦いました。「風林火山」(孫子の兵法)を旗印とし、戦国時代屈指の名将とされます。
戦国時代の有名な戦国大名で、「越後の龍」と称され、義を重んじる戦いぶりで知られ、武田信玄のライバルであったのは誰でしょう?
①武田信玄
②織田信長
③上杉謙信
正解は『上杉謙信』
上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)の戦国大名です。自らを毘沙門天の化身と信じ、私利私欲のためではなく「義」を重んじて戦ったとされ、「越後の龍」と称されました。甲斐の武田信玄とは、信濃の支配をめぐって川中島で長年にわたり激戦を繰り広げました。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、ポルトガルやスペインとの間で行われた貿易を何というでしょう?
①勘合貿易
②朱印船貿易
③南蛮貿易
正解は『南蛮貿易』
南蛮貿易は、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて、日本とポルトガル・スペイン(当時、南蛮人と呼ばれた)との間で行われた貿易です。日本からは主に銀が輸出され、ポルトガル商人からは中国産の生糸や絹織物、鉄砲、火薬などが、スペイン商人からはメキシコ銀などがもたらされました。キリスト教の布教と密接に関連していました。
豊臣秀吉が、京都に建てた聚楽第や、伏見城などの内部を飾った、金箔地に濃い彩色で描かれた豪華な障壁画(襖絵など)を得意とした画派は何でしょう?
①土佐派
②狩野派
③琳派
正解は『狩野派』
狩野派は、室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年にわたり画壇の中心にあった日本絵画史上最大の画派です。特に安土桃山時代には、織田信長や豊臣秀吉の庇護を受け、狩野永徳らが城郭や寺院の内部を飾る、金箔地に鮮やかな色彩で花鳥、人物、山水などを描いた雄大で豪華な障壁画(金碧障壁画)を多く制作し、桃山文化を代表する芸術となりました。
1615年、徳川家康が豊臣氏を完全に滅ぼした戦いを何というでしょう?(冬の陣・夏の陣の総称)
①関ヶ原の戦い
②大坂の陣
③島原の乱
正解は『大坂の陣』
大坂の陣は、江戸幕府と豊臣家の間で行われた最後の戦いです。1614年の冬の陣と1615年の夏の陣からなり、徳川家康率いる幕府軍が大坂城を攻め、豊臣秀頼とその母・淀殿らを滅ぼしました。これにより、豊臣氏は完全に滅亡し、徳川氏による全国支配が確立しました。
江戸幕府における大名の区分のうち、関ヶ原の戦い以前から徳川氏に従っていた大名を何というでしょう?幕府の要職に就くことができました。
①親藩
②譜代大名
③外様大名
正解は『譜代大名』
譜代大名は、関ヶ原の戦い(1600年)以前から徳川氏に仕えていた家臣(大名)のことです。徳川家に対する忠誠心が高いとされ、幕府の老中などの重要な役職に任命される資格がありました。領地は比較的小規模なものが多く、江戸に近い戦略的に重要な場所に配置されることが多かったです。
江戸幕府における大名の区分のうち、関ヶ原の戦い以降に徳川氏に従うようになった大名を何というでしょう?有力な大名が多かったですが、幕政からは遠ざけられました。
①親藩
②譜代大名
③外様大名
正解は『外様大名』
外様大名は、関ヶ原の戦い以降に徳川氏に従属した大名のことです。前田氏(加賀)、島津氏(薩摩)、毛利氏(長州)など、大きな石高を持つ有力な大名が多く含まれていました。幕府からは警戒され、原則として老中などの幕府の要職に就くことはできず、江戸から遠い地域に配置されることが多かったです。
1637年、九州の島原・天草地方で、キリシタンへの弾圧や重い年貢に苦しんだ農民らが起こした大規模な一揆を何というでしょう?天草四郎が指導者とされました。
①大塩平八郎の乱
②島原の乱(島原・天草一揆)
③三閉伊一揆
正解は『島原の乱(島原・天草一揆)』
島原の乱(島原・天草一揆)は、1637年から1638年にかけて、肥前国島原藩と肥後国天草(幕府領)で起こった大規模な百姓一揆です。キリシタンへの厳しい弾圧と領主による過酷な年貢の取り立てが原因で、少年とされる天草四郎(益田時貞)を指導者として、多くの農民が蜂起しました。幕府は十数万の大軍で鎮圧しましたが、この一揆は幕府に衝撃を与え、鎖国体制とキリスト教禁教の強化につながりました。
江戸幕府が、キリスト教の禁制を徹底するため、毎年人々を寺院に集めてキリシタンではないことを証明させた制度を何というでしょう?
①踏絵
②宗門改め(しゅうもんあらため)
③五人組
正解は『宗門改め(しゅうもんあらため)』
宗門改めは、江戸幕府がキリスト教徒(キリシタン)の摘発と禁教の徹底を目的として、全国的に実施した宗教調査制度です。人々は必ずいずれかの仏教寺院の檀家となることを強制され(寺請制度)、毎年、役人や寺院によって宗派や家族構成などが調査され、帳簿(宗門人別改帳)に記録されました。これは戸籍のような役割も果たしました。
鎖国下の日本で、オランダ商館長が江戸に参府する際に、幕府に提出した海外の情報を記した報告書を何というでしょう?
①解体新書
②オランダ風説書(ふうせつがき)
③国別産物帳
正解は『オランダ風説書(ふうせつがき)』
オランダ風説書は、鎖国下の日本で、長崎のオランダ商館長が、年に一度(後に4年に一度)江戸に参府する際に、幕府に提出した海外事情に関する報告書です。ヨーロッパやアジアの国際情勢、出来事などが記されており、幕府が外部の情報を得るための数少ない貴重な情報源でした。
江戸時代、幕府や藩が、武士の子弟を教育するために設けた学校を何というでしょう?
①寺子屋
②藩校(藩学)
③私塾
正解は『藩校(藩学)』
藩校(藩学)は、江戸時代に各藩が、藩士(武士)とその子弟を教育するために設立した学校です。儒学(特に朱子学)を中心に、武芸、国学、蘭学なども教えられ、藩政を担う人材の育成を目的としました。有名な藩校に、会津藩の日新館、長州藩の明倫館などがあります。
元禄文化を代表する文学者で、「好色一代男」や「日本永代蔵」など、町人の生活や経済活動を生き生きと描いた浮世草子の作者は誰でしょう?
①松尾芭蕉
②近松門左衛門
③井原西鶴
正解は『井原西鶴』
井原西鶴は、江戸時代前期(元禄期)の大坂の町人出身の作家です。町人の恋愛を描いた好色物(『好色一代男』など)、町人の経済生活を描いた町人物(『日本永代蔵』『世間胸算用』など)、武士の世界を描いた武家物など、多様なテーマで、現実的かつ巧みな描写の浮世草子と呼ばれる小説を数多く著し、人気を博しました。
元禄文化を代表する劇作家で、「曽根崎心中」や「国性爺合戦」など、義理と人情の板挟みになる人々の姿を描いた人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を多く書いたのは誰でしょう?
①井原西鶴
②近松門左衛門
③鶴屋南北
正解は『近松門左衛門』
近松門左衛門は、江戸時代前期(元禄期)に活躍した人形浄瑠璃および歌舞伎の作者です。武士や町人の社会における義理と人情の葛藤をテーマにした世話物(『曽根崎心中』など)や、歴史上の出来事を題材にした時代物(『国性爺合戦』など)で数多くの傑作を生み出し、「日本のシェイクスピア」とも称されます。
元禄文化を代表する画家・工芸家で、「紅白梅図屏風」や「燕子花図屏風」など、装飾的で華やかな画風で知られ、琳派を大成させたのは誰でしょう?
①俵屋宗達
②尾形光琳
③狩野探幽
正解は『尾形光琳』
尾形光琳は、江戸時代中期(元禄期)に京都で活躍した画家・工芸家です。俵屋宗達の画風を受け継ぎ、大胆な構図と豊かな色彩、金銀箔などを効果的に用いた装飾性の高い画風で、独自の様式(琳派)を確立しました。絵画だけでなく、蒔絵などの工芸品にも優れた作品を残しています。
江戸時代中期、徳川吉宗による享保の改革で、財政収入を増やすために、大名に対し石高に応じて米を上納させた制度を何というでしょう?
①参勤交代
②検地
③上げ米の制
正解は『上げ米の制』
上げ米の制は、8代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として1722年に導入した制度です。幕府財政の窮乏を補うため、全国の大名に対し、石高1万石につき100石の米を幕府に上納させる代わりに、参勤交代の江戸在府期間を半年に短縮しました。一時的な財政改善には貢献しましたが、大名の負担増となり、1730年に廃止されました。
江戸時代中期、田沼意次が老中だった時代に、蝦夷地(北海道)の調査・開拓の可能性を探るために派遣された人物は誰でしょう?(複数回派遣)
①間宮林蔵
②最上徳内
③近藤重蔵
正解は『最上徳内』
最上徳内は、江戸時代中後期の探検家です。田沼意次の蝦夷地開発計画に基づき、幕府の役人として複数回にわたり蝦夷地(北海道)や千島列島を探検・調査しました。特に、国後島や択捉島に渡り、ロシアの南下に対する北方防備の重要性を認識しました。近藤重蔵や間宮林蔵も北方探検で知られます。
寛政の改革を行った松平定信が、幕府の学問所(昌平坂学問所)で教える学問を朱子学に限定し、他の学派(陽明学など)の講義を禁止した政策を何というでしょう?
①学制発布
②寛政異学の禁
③寺子屋の奨励
正解は『寛政異学の禁』
寛政異学の禁は、1790年に老中松平定信が、幕府の教学政策として発令したものです。幕府直轄の昌平坂学問所において、正学とされた朱子学以外の儒学諸派(古学、陽明学など)の講義を禁じました。これは、朱子学による思想統制を強化し、幕藩体制の教学的基盤を固めようとするものでした。
江戸時代後期、飢饉や災害に備えて、各地の藩や村が米などを貯蔵しておく制度を何というでしょう?松平定信も奨励しました。
①義倉・社倉
②徳政令
③株仲間
正解は『義倉・社倉』
義倉(ぎそう)・社倉(しゃそう)は、飢饉などに備えて穀物を備蓄しておくための制度・施設です。義倉は主に藩などが設置し、富裕層から穀物を徴収・貯蔵するもので、社倉は村などが自主的に設置・運営し、共同で穀物を積み立てるものでした。寛政の改革で松平定信はこれらの設置を奨励しました。
江戸時代の学問の一つで、古代日本の古典(古事記、日本書紀、万葉集など)を研究し、儒教や仏教の影響を受ける前の日本固有の精神や文化を探求しようとした学問を何というでしょう?
①蘭学
②儒学
③国学
正解は『国学』
国学は、江戸時代中期から後期にかけて興隆した学問で、日本の古典籍を研究対象とし、外来思想(儒教・仏教)の影響を排して、日本古来の純粋な精神(古道)や文化を明らかにしようとしました。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが代表的な学者で、彼らの思想は幕末の尊王攘夷運動にも影響を与えました。
江戸時代後期、庶民の道徳教育のために、儒教・仏教・神道の教えを分かりやすく説き、実践的な道徳(正直、倹約、勤勉など)を広めた石田梅岩らが始めた思想・教化運動は何でしょう?
①心学(石門心学)
②陽明学
③古学
正解は『心学(石門心学)』
心学(石門心学)は、江戸時代中期に石田梅岩が創始した庶民向けの道徳思想・教化運動です。儒教を基盤としつつ、仏教や神道の要素も取り入れ、難しい理論よりも、日常生活における正直、倹約、勤勉などの実践的な徳目を、平易な言葉やたとえ話を用いて説きました。手島堵庵、中沢道二らによって全国に広まりました。
化政文化期に、「東海道中膝栗毛」を著し、弥次さん喜多さんの珍道中を描いて人気を博した滑稽本の作者は誰でしょう?
①滝沢馬琴
②十返舎一九
③式亭三馬
正解は『十返舎一九』
十返舎一九は、江戸時代後期(化政文化期)の戯作者です。代表作『東海道中膝栗毛』は、江戸神田の弥次郎兵衛(弥次さん)と府中(静岡)の喜多八(喜多さん)が、伊勢参宮を目指して東海道を旅する道中の失敗談や滑稽な出来事を描いた滑稽本で、大ベストセラーとなりました。
化政文化期に、「南総里見八犬伝」など、勧善懲悪をテーマとした長編の伝奇小説(読本)を著した作家は誰でしょう?
①井原西鶴
②上田秋成
③滝沢馬琴(曲亭馬琴)
正解は『滝沢馬琴(曲亭馬琴)』
滝沢馬琴(曲亭馬琴)は、江戸時代後期(化政文化期)を代表する読本作家です。中国の白話小説の影響を受け、勧善懲悪や因果応報をテーマとする、複雑な構成と教訓性を持つ長編の伝奇小説を多く著しました。代表作『南総里見八犬伝』は、完成までに28年を要した大作で、広く読まれました。
化政文化期の歌舞伎で、「東海道四谷怪談」など、怪談物や生世話物(きぜわもの)と呼ばれる写実的で残酷な場面を含む作品を得意とした劇作家は誰でしょう?
①近松門左衛門
②河竹黙阿弥
③鶴屋南北(四代目)
正解は『鶴屋南北(四代目)』
四代目鶴屋南北は、江戸時代後期(化政文化期)に活躍した歌舞伎狂言作者です。庶民の現実生活を毒々しく、また怪奇的に描く生世話物を得意とし、代表作『東海道四谷怪談』は、幽霊の早替わりや凄惨な場面などで観客を魅了し、現代でも上演される人気演目です。
1792年、日本人漂流民を送還し、通商を求めて根室に来航したロシアの使節は誰でしょう?幕府は通商を拒否しました。
①レザノフ
②プチャーチン
③ラクスマン
正解は『ラクスマン』
アダム・ラクスマンは、ロシア帝国の軍人で、エカチェリーナ2世の命を受け、伊勢の漂流民である大黒屋光太夫らを送還するとともに、日本との通商関係樹立を求めて、1792年に蝦夷地の根室に来航しました。幕府は漂流民の受け取りは認めましたが、通商要求は拒否し、交渉は長崎で行うべきであるとして信牌(長崎への入港許可証)を与えました。
1804年、ラクスマンが受け取った信牌を持って長崎に来航し、再び通商を要求したが、幕府に拒否されたロシアの使節は誰でしょう?
①ペリー
②ニコライ
③レザノフ
正解は『レザノフ』
ニコライ・レザノフは、ロシア帝国の外交官・初代ロシア領アメリカ総督です。皇帝アレクサンドル1世の国書を携え、ラクスマンが得た信牌を持って1804年に長崎に来航し、日本との通商を強く要求しました。しかし、幕府は半年にわたる交渉の末、鎖国の祖法を理由に通商を最終的に拒否しました。この結果に失望したレザノフの部下が、後に樺太や択捉島を襲撃する事件を起こしました。
1837年、日本人漂流民を送還しようとしたアメリカ商船モリソン号を、異国船打払令に基づき砲撃した事件を何というでしょう?この事件は知識人の間で幕府批判を招きました。
①フェートン号事件
②シーボルト事件
③モリソン号事件
正解は『モリソン号事件』
モリソン号事件は、1837年に、音吉ら7名の日本人漂流民を送還し、通商や布教の可能性を探る目的で来航したアメリカの非武装商船モリソン号を、浦賀(相模国)と鹿児島(薩摩国)で、幕府の異国船打払令に従って日本側が砲撃し、追い返した事件です。後にこの事実を知った渡辺崋山や高野長英ら蘭学者は、幕府の対外政策を批判し、蛮社の獄につながりました。
モリソン号事件などをきっかけに、幕府の対外政策を批判した渡辺崋山や高野長英らの蘭学者が処罰された事件を何というでしょう?
①安政の大獄
②蛮社の獄(ばんしゃのごく)
③シーボルト事件
正解は『蛮社の獄(ばんしゃのごく)』
蛮社の獄は、1839年に起こった蘭学者に対する弾圧事件です。モリソン号事件を知った蘭学者のグループ「尚歯会」の中心人物であった渡辺崋山(田原藩家老)や高野長英(医師)らが、幕府の異国船打払令に基づく対外政策を批判する意見を著書などで表明したため、幕府によって処罰(崋山は在所蟄居、長英は永牢)されました。「蛮社」とは、彼らのグループに対する蔑称です。
アヘン戦争(1840-42)で清がイギリスに敗れたことを知り、異国船打払令の危険性を認識した幕府が、1842年に打払令を緩和し、漂着した外国船には薪水・食料を与えるように改めた法令を何というでしょう?
①生類憐みの令
②天保の薪水給与令
③五品江戸廻送令
正解は『天保の薪水給与令』
天保の薪水給与令(しんすいきゅうよれい)は、アヘン戦争における清の敗北という情報に衝撃を受けた江戸幕府が、1842年に発令した法令です。それまでの強硬策(異国船打払令)を改めて、遭難した外国船に限っては、必要な薪水(燃料や水)・食料・石炭などを供給し、穏便に退去させる方針に転換しました。ただし、開国や通商を認めたものではありません。
ペリー来航後、幕府が大名や庶民にまで広く意見を求めたことは、結果的にどのような影響をもたらしたでしょう?
①幕府の権威がさらに高まった
②幕府の権威が低下し、政治への発言力が増した
③外国との戦争がすぐに始まった
正解は『幕府の権威が低下し、政治への発言力が増した』
ペリー来航という国難に際し、老中阿部正弘ら幕閣は、朝廷に報告するとともに、諸大名から町人に至るまで広く意見を求めるという異例の措置をとりました。これは、難局を乗り切るための策でしたが、結果的に、これまで幕政に関与できなかった外様大名や下級武士、さらには朝廷などが政治的な発言力を強めるきっかけとなり、幕府の権威の相対的な低下を招きました。
日米修好通商条約の調印と将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、安政の大獄で処罰された、後の15代将軍となる人物は誰でしょう?(当時は一橋家の当主)
①徳川家茂
②徳川慶喜(一橋慶喜)
③松平慶永(春嶽)
正解は『徳川慶喜(一橋慶喜)』
徳川慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の子で、一橋家の養子となりました。聡明さを期待され、13代将軍家定の後継者候補(一橋派)として、松平慶永(越前藩主)や島津斉彬(薩摩藩主)らに推されましたが、井伊直弼が推す紀州藩主徳川慶福(後の家茂)が14代将軍となり、慶喜らは安政の大獄で隠居・謹慎処分を受けました。後に15代将軍となり、大政奉還を行いました。
幕末、朝廷(公)と幕府(武)が協力して難局を乗り切ろうとする考え方や運動を何というでしょう?皇女和宮の将軍家茂への降嫁などがその例です。
①尊王攘夷
②開国和親
③公武合体
正解は『公武合体』
公武合体は、幕末期に、朝廷の伝統的権威(公)と幕府の政治的実権(武)を結びつけ、協力して国内の統一を維持し、外国の圧力に対処しようとした政治思想・運動です。井伊直弼の死後、老中安藤信正らが推進し、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂の結婚を実現させましたが、尊王攘夷派の反発を受け、安藤信正の失脚(坂下門外の変)などにより、次第に力を失いました。
1862年、薩摩藩士が横浜の生麦村付近で、行列を横切ったイギリス人を殺傷した事件を何というでしょう?この事件は薩英戦争の原因となりました。
①桜田門外の変
②寺田屋事件
③生麦事件
正解は『生麦事件』
生麦事件は、1862年8月、江戸からの帰途にあった薩摩藩主島津久光の行列が、武蔵国生麦村(現在の横浜市鶴見区)を通過中、乗馬したまま行列に乗り入れたイギリス人4名を、供の藩士が無礼として殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件です。この事件の処理をめぐってイギリスと薩摩藩の間で交渉が決裂し、翌年の薩英戦争へと発展しました。
生麦事件の報復として、1863年にイギリス艦隊が鹿児島湾に来航し、薩摩藩と交戦した戦いを何というでしょう?
①下関戦争
②薩英戦争
③アロー戦争
正解は『薩英戦争』
薩英戦争は、生麦事件の賠償交渉が決裂した結果、1863年8月にイギリス東インド艦隊が鹿児島湾に来航し、薩摩藩と交戦した戦争です。薩摩側は砲台や市街地に大きな被害を受けましたが、イギリス側も艦船に損害を受けました。戦後、薩摩藩は攘夷の不可能を悟り、イギリスに接近して軍備の近代化を進めるきっかけとなりました。
1863年と1864年に、長州藩が攘夷を実行するため、関門海峡を通過する外国船を砲撃したことに対し、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が報復攻撃を行った事件を何というでしょう?
①薩英戦争
②下関戦争(馬関戦争)
③禁門の変
正解は『下関戦争(馬関戦争)』
下関戦争(馬関戦争)は、幕府の攘夷決行の命令を受けて、長州藩が1863年に関門海峡を航行する外国船を砲撃したことに対し、翌1864年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関の砲台を攻撃・占領した事件です。長州藩は大敗し、攘夷の無謀さを痛感し、以後、藩論を倒幕へと転換させていくことになります。
京都の治安維持にあたっていた、会津藩配下の浪士組織で、池田屋事件などで尊王攘夷派を弾圧したことで知られる集団は何でしょう?
①奇兵隊
②陸援隊
③新選組
正解は『新選組』
新選組は、幕末の京都で、主に反幕府勢力(尊王攘夷派)の取り締まりや治安維持活動を行った、幕府非正規の警察組織です。局長の近藤勇、副長の土方歳三らが中心となり、1864年の池田屋事件で尊攘派志士を襲撃するなど、その活動は広く知られています。会津藩(京都守護職)の配下として活動しました。
薩長同盟を仲介するなど、倒幕運動で活躍した土佐藩出身の人物で、大政奉還の実現にも貢献しましたが、1867年に京都で暗殺されたのは誰でしょう?
①西郷隆盛
②坂本龍馬
③大久保利通
正解は『坂本龍馬』
坂本龍馬は、土佐藩出身の幕末の志士です。脱藩後、勝海舟に師事し、神戸海軍操練所の設立に関わったり、亀山社中(後の海援隊)を組織して貿易活動を行ったりしました。最大の功績は、対立していた薩摩藩と長州藩の間を斡旋し、1866年に薩長同盟を成立させたことです。また、大政奉還の構想(船中八策)を示したとも言われますが、その直後の1867年11月、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されました。
戊辰戦争の最初の戦いで、1868年1月に京都郊外で、新政府軍(薩長藩中心)と旧幕府軍が衝突した戦いを何というでしょう?
①上野戦争
②鳥羽・伏見の戦い
③箱館戦争
正解は『鳥羽・伏見の戦い』
鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦争の発端となった戦闘です。王政復古の大号令と徳川慶喜への辞官納地命令に反発した旧幕府軍(会津藩、桑名藩などを含む)が、京都へ進軍しようとしたところを、薩摩・長州藩を中心とする新政府軍が、京都南郊の鳥羽街道・伏見街道で迎え撃ちました。装備や士気に勝る新政府軍が勝利し、慶喜は大阪城から江戸へ逃亡、旧幕府軍は「朝敵」とされました。
戊辰戦争において、新政府軍による江戸城総攻撃を回避するため、新政府軍の西郷隆盛と、旧幕府側の代表として交渉し、江戸城の無血開城を実現させた人物は誰でしょう?
①榎本武揚
②勝海舟
③大鳥圭介
正解は『勝海舟』
勝海舟は、幕末から明治にかけて活躍した幕臣・政治家です。咸臨丸で渡米経験があり、幕府海軍の育成に尽力しました。戊辰戦争時には、陸軍総裁として旧幕府側の責任者となり、新政府軍の東征大総督府参謀・西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城と徳川慶喜の助命などの条件で合意しました。これにより、江戸市街の戦火と多くの人命損失が回避されました。
戊辰戦争で、旧幕府海軍を率いて箱館(函館)の五稜郭に立てこもり、一時「蝦夷共和国」を樹立しましたが、新政府軍に敗れた人物は誰でしょう?
①土方歳三
②大鳥圭介
③榎本武揚
正解は『榎本武揚』
榎本武揚は、幕末の幕臣で、オランダ留学経験のある海軍士官です。戊辰戦争末期、徳川家の処分に不満を持ち、開陽丸など旧幕府艦隊を率いて江戸を脱走し、蝦夷地(北海道)に渡りました。箱館の五稜郭を占領し、諸外国の領事を集めて「蝦夷共和国」の樹立を宣言、自身が総裁となりました(国際的な承認は得られず)。しかし、1869年5月、新政府軍の総攻撃を受けて降伏しました(箱館戦争)。
明治政府が打ち出した「富国強兵」のスローガンの「富国」とは、具体的にどのような状態を目指すことでしょう?
①国民の道徳心を高めること
②国の経済力を豊かにすること
③教育制度を充実させること
正解は『国の経済力を豊かにすること』
「富国」とは、文字通り国を豊かにすること、すなわち経済力を高め、産業を発展させることを意味します。明治政府は、欧米列強に対抗できる近代国家を作るためには、まず国の経済基盤を強化する必要があると考え、殖産興業政策などを通じてその実現を目指しました。
明治政府が打ち出した「富国強兵」のスローガンの「強兵」とは、具体的にどのような状態を目指すことでしょう?
①外交交渉能力を高めること
②強力な軍隊を持つこと
③伝統文化を守ること
正解は『強力な軍隊を持つこと』
「強兵」とは、強力な軍事力を持つことを意味します。明治政府は、欧米列強の軍事的脅威に対抗し、国家の独立を維持するためには、近代的な軍隊の創設が不可欠であると考え、徴兵令の制定や軍備の近代化を進めました。「富国」と「強兵」は一体のものとして進められました。
1871年から1873年にかけて、岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが参加して、欧米諸国を視察し、不平等条約改正の予備交渉を行った使節団を何というでしょう?
①遣隋使
②遣唐使
③岩倉使節団
正解は『岩倉使節団』
岩倉使節団は、明治政府が派遣した大規模な外交使節団です。主な目的は、①幕末に結んだ不平等条約(特に治外法権撤廃、関税自主権回復)の改正に向けた予備交渉、②欧米各国の進んだ制度や文化、技術などを調査・視察することでした。条約改正交渉は失敗に終わりましたが、使節団のメンバーは欧米の近代文明を目の当たりにし、帰国後の日本の近代化政策に大きな影響を与えました。
岩倉使節団が欧米視察中に留守政府の中心となり、学制・地租改正・徴兵令などの改革を進めたが、朝鮮への使節派遣問題(征韓論)で対立し、下野した人物は誰でしょう?
①大隈重信
②板垣退助
③西郷隆盛
正解は『西郷隆盛』
西郷隆盛は、岩倉使節団の外遊中、留守政府の中心人物として活躍しました。しかし、朝鮮(李氏朝鮮)が日本の国書受け取りを拒否したことを受け、自身が大使として朝鮮に赴き、交渉が決裂した場合は武力行使も辞さないとする「征韓論」を主張しました。これに対し、欧米視察から帰国した大久保利通や岩倉具視らは国内改革優先(内治優先)を主張して反対し、閣議(明治六年政変)で西郷の主張は退けられました。西郷は板垣退助、江藤新平らとともに政府を去りました(下野)。
征韓論争に敗れて下野した板垣退助らが、1874年に提出した、国民(特に士族)の政治参加(議会開設)を要求した意見書を何というでしょう?これが自由民権運動の始まりとされます。
①五箇条の御誓文
②民撰議院設立建白書
③大日本帝国憲法草案
正解は『民撰議院設立建白書』
民撰議院設立建白書は、征韓論に敗れて下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが、1874年に政府(左院)に提出した意見書です。藩閥政府による専制政治を批判し、国民が選んだ議員による議会(民撰議院)を開設して、国民の意見を政治に反映させるべきだと主張しました。この建白書の提出が、自由民権運動の発端となりました。
1871年、日本と清国との間で結ばれた、対等な立場での最初の条約は何でしょう?領事裁判権を相互に認め合うなど、後の不平等条約とは異なる側面も持ちます。
①下関条約
②日清修好条規
③北京条約
正解は『日清修好条規』
日清修好条規は、1871年に日本と清国の間で締結された、両国間における最初の近代的な条約です。両国は対等な立場で国交を開き、相互に領事裁判権を認め、関税については協定によることなどを定めました。これは、日本が欧米列強と結んだ不平等条約とは異なり、相互主義に基づいた対等条約でした。
1874年、台湾に漂着した琉球島民が殺害された事件を口実に、日本が台湾に軍隊を送った出来事を何というでしょう?
①江華島事件
②台湾出兵
③日清戦争
正解は『台湾出兵』
台湾出兵は、1871年に宮古島の住民が台湾に漂着し、現地の住民に殺害された事件(琉球漂流民殺害事件)に対し、清国政府が責任を回避したことを受けて、1874年に明治政府が西郷従道(西郷隆盛の弟)を司令官として台湾に軍隊を派遣した事件です。これは、明治政府にとって初めての海外派兵であり、琉球が日本に帰属することを国際的に認めさせる狙いもありました。日清両国間は一時緊張しましたが、イギリスの仲介で和解し、清国は日本の出兵を「義挙」と認め、賠償金を支払いました。
1875年、日本の軍艦が朝鮮の首都漢城(ソウル)に近い江華島沖で、朝鮮側の砲台と交戦した事件を何というでしょう?この事件をきっかけに日朝修好条規が結ばれました。
①台湾出兵
②甲申政変
③江華島事件
正解は『江華島事件』
江華島事件は、1875年に日本の軍艦「雲揚」が、朝鮮沿岸の測量中に、首都漢城に近い江華島の砲台から砲撃を受けたため、応戦して砲台を占領した事件です。日本側が挑発したとも言われています。明治政府はこの事件を口実に、朝鮮に対して開国と不平等条約の締結を迫り、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が結ばれました。
江華島事件をきっかけに、1876年に日本と朝鮮の間で結ばれた、朝鮮を開国させ、釜山など3港を開港させる内容を含む不平等条約は何でしょう?
①日清修好条規
②日朝修好条規(江華条約)
③下関条約
正解は『日朝修好条規(江華条約)』
日朝修好条規(江華条約)は、江華島事件後の1876年に、日本と朝鮮(李氏朝鮮)の間で締結された条約です。朝鮮を「自主の国」と認めつつ、釜山、元山、仁川の3港を開港させ、日本に領事裁判権を認め、関税自主権がないなど、日本にとって有利で朝鮮にとっては不利な内容を含む不平等条約でした。これにより、朝鮮は開国し、日本の勢力が朝鮮半島へ進出する足がかりとなりました。
明治政府が、それまで薩摩藩の支配下にあった琉球王国を、1872年に琉球藩とし、さらに1879年には藩を廃止して沖縄県を設置した一連の出来事を何というでしょう?
①台湾出兵
②琉球処分
③廃藩置県
正解は『琉球処分』
琉球処分は、明治政府が、日清両属の状態にあった琉球王国を、日本の完全な領土に組み込むために行った一連の政策です。1872年に琉球藩を設置し、尚泰を藩王としました。その後、清国との宗属関係の断絶などを迫り、最終的に1879年、軍隊を派遣して琉球藩を廃止し、沖縄県を設置しました。これにより琉球王国は滅亡し、日本の主権下に完全に編入されましたが、旧支配層や住民の抵抗、清国との対立も引き起こしました。
明治政府の政策、特に廃藩置県や徴兵令、秩禄処分(士族への給与廃止)などによって特権を失い、不満を募らせた士族たちが起こした反乱のうち、最大規模のものは何でしょう?西郷隆盛を指導者として九州で起こりました。
①佐賀の乱
②西南戦争
③萩の乱
正解は『西南戦争』
西南戦争は、1877年(明治10年)に、鹿児島の私学校生徒ら不平士族に擁立された西郷隆盛を指導者として、九州各地で起こった明治政府に対する士族反乱のうち最大最後のものです。政府の徴兵令によって編成された鎮台兵(国民軍)と激戦を繰り広げましたが、装備や物量に勝る政府軍に敗れ、西郷は城山で自刃しました。この戦争の終結により、武力による政府への抵抗は終わりを告げ、言論による自由民権運動が本格化しました。
自由民権運動が高まる中、国会開設や憲法制定を求める運動の中心となった、板垣退助を党首として結成された日本で最初の本格的な政党は何でしょう?
①立憲改進党
②自由党
③立憲政友会
正解は『自由党』
自由党は、1881年(明治14年)に、板垣退助を総理(党首)として結成された、日本で最初の本格的な政党です。フランス流の急進的な自由主義思想の影響を受け、国会開設、主権在民、地租軽減などを主張し、士族や豪農層を中心に支持を集め、自由民権運動の中心勢力となりました。
明治十四年の政変で政府を追われた大隈重信が、官僚や知識人、都市の商工業者などを支持基盤として結成した、イギリス流の議会政治を目指した政党は何でしょう?
①自由党
②立憲帝政党
③立憲改進党
正解は『立憲改進党』
立憲改進党は、1882年(明治15年)に、前年に政府を追われた(明治十四年の政変)大隈重信を総理(党首)として結成された政党です。イギリス流の立憲君主制や議院内閣制を理想とし、自由党よりは穏健な改革を主張しました。知識人、官僚、実業家、都市部の住民などに支持者が多く、自由党と並んで自由民権運動の重要な担い手となりました。
自由民権運動の中で、政府による専制政治を批判し、国会開設などを要求して全国各地で開かれた演説会を何というでしょう?
①寄合
②政談演説会
③株主総会
正解は『政談演説会』
政談演説会は、自由民権運動期に、民権派の政党や結社が、自分たちの主張を広く国民に訴え、運動への参加を呼びかけるために、全国各地で開催した演説会です。政府の政策を批判し、国会開設の必要性などを説き、民衆の政治意識を高める上で大きな役割を果たしました。政府はしばしば集会条例などでこれを弾圧しようとしました。
自由民権運動が激化する中で、政府の政策に不満を持つ農民らが、借金の帳消しや税の軽減などを求めて蜂起した事件が各地で起こりました。1884年に埼玉県で起こった最大規模の事件は何でしょう?
①加波山事件
②秩父事件
③福島事件
正解は『秩父事件』
秩父事件は、1884年(明治17年)に、埼玉県秩父地方の農民が、松方デフレによる不況と重税に苦しみ、自由党員の影響も受けて、借金の延納や税の軽減などを要求して蜂起した事件です。「困民党」を名乗り、一時郡役所などを占拠しましたが、政府が派遣した軍隊によって鎮圧されました。これは自由民権運動期の農民騒擾(激化事件)の中で最大規模のものでした。
政府が憲法制定を進める中で、民間の人々が独自に作成し、発表した憲法の草案を総称して何というでしょう?様々な内容のものがありました。
①大日本帝国憲法
②五箇条の御誓文
③私擬憲法(しぎけんぽう)
正解は『私擬憲法(しぎけんぽう)』
私擬憲法は、明治初期から自由民権運動期にかけて、政府とは別に、民間の個人や団体(政社など)が独自に考案・起草した憲法草案の総称です。国会開設や国民の権利保障などを盛り込んだものが多く、その内容は、イギリス流、フランス流、プロイセン流など様々でした。植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」などが有名ですが、政府はこれらの動きを警戒しました。
政府の中心人物として、ドイツ(プロイセン)の憲法を模範として憲法草案を作成し、初代内閣総理大臣となった人物は誰でしょう?
①大隈重信
②板垣退助
③伊藤博文
正解は『伊藤博文』
伊藤博文は、長州藩出身の政治家で、明治政府の中心人物として活躍しました。岩倉使節団に参加した後、大久保利通の死後は政府の中心となり、憲法制定の準備を進めました。1882年からヨーロッパに渡り、特にドイツ(プロイセン)の君主権の強い憲法を学び、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らとともに、天皇主権を基本とする大日本帝国憲法の草案を作成しました。1885年には、太政官制に代わる内閣制度を創設し、初代の内閣総理大臣に就任しました。
1885年、太政官制が廃止され、行政権を担当する機関として新たに設けられた制度で、各国務大臣が内閣総理大臣のもとで合議する仕組みは何でしょう?
①枢密院
②元老院
③内閣制度
正解は『内閣制度』
内閣制度は、1885年(明治18年)に、それまでの太政官制に代わって創設された、日本の行政執行機関の制度です。内閣総理大臣と、外務・内務・大蔵などの各省を担当する国務大臣によって構成され、合議によって政策を決定し、天皇に対して連帯して責任を負うとされました(ただし、当初の運用は必ずしもそうなっていませんでした)。初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任しました。
1889年(明治22年)2月11日に、天皇が国民に下し与える(欽定憲法)という形で発布された、日本の最初の近代的な憲法は何でしょう?
①明治憲法
②日本国憲法
③大日本帝国憲法
正解は『大日本帝国憲法』
大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日(紀元節)に発布された、日本の最初の近代的な成文憲法です。天皇が絶対的な主権を持つ(天皇主権)とし、天皇は神聖不可侵で統治権を総攬すると定められました。一方で、帝国議会の設置や、法律の範囲内で国民の権利(臣民の権利)を保障することも定められていました。ドイツ(プロイセン)憲法の影響を強く受けています。
大日本帝国憲法において、主権は誰にあると定められていたでしょう?
①国民(人民)
②天皇
③内閣総理大臣
正解は『天皇』
大日本帝国憲法(明治憲法)の最も重要な特徴は、天皇主権の原則を採用していたことです。憲法第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と定められ、国の統治権はすべて天皇にあるとされました。
大日本帝国憲法の下で設置された、日本の立法機関(国会)を何というでしょう?貴族院と衆議院の二院制でした。
①枢密院
②帝国議会
③元老院
正解は『帝国議会』
帝国議会は、大日本帝国憲法に基づいて1890年(明治23年)に開設された、日本の立法機関です。皇族や華族、勅任議員などで構成される貴族院と、一定額以上の直接国税を納める満25歳以上の男子による選挙で選ばれる議員で構成される衆議院の二院制をとりました。法律の制定や予算の承認には、両議院の協賛が必要とされました。
帝国議会を構成する二つの議院のうち、皇族、華族、天皇が任命した議員(勅任議員)などで構成された議院は何でしょう?
①衆議院
②参議院
③貴族院
正解は『貴族院』
貴族院は、帝国議会の一院で、衆議院とともに立法権を担いました。その議員は、選挙ではなく、成年以上の皇族男子、公侯爵の華族議員、伯子男爵の互選議員、天皇が任命する勅任議員(多額納税者議員、学識経験者議員)などで構成されました。解散はなく、任期も終身や7年のものが多く、衆議院に対して抑制的な役割を期待されました。
帝国議会を構成する二つの議院のうち、国民による選挙で議員が選ばれた議院は何でしょう?ただし、当初の選挙権は限られていました。
①貴族院
②衆議院
③国民議会
正解は『衆議院』
衆議院は、帝国議会の一院で、貴族院とともに立法権を担いました。その議員は、国民による選挙(衆議院議員総選挙)によって選ばれました。ただし、最初の選挙(1890年)では、選挙権を持つのは、直接国税を15円以上納める満25歳以上の男子に限られており、全人口の約1.1%にすぎませんでした(制限選挙)。
1890年(明治23年)に行われた、日本で最初の衆議院議員総選挙で、選挙権が与えられたのはどのような人々だったでしょう?
①満20歳以上のすべての男女
②満25歳以上のすべての男子
③直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子
正解は『直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子』
日本で最初の衆議院議員総選挙(1890年)における選挙権(有権者資格)は、法律により厳しく制限されていました。具体的には、①満25歳以上の男子であること、②直接国税(地租または所得税)を年間15円以上納めていること、③選挙人名簿に登録されていること、のすべてを満たす必要がありました。この条件を満たす人は、当時の全人口のわずか約1.1%(約45万人)でした。
大日本帝国憲法と同時に発布され、忠君愛国や親孝行などの道徳を国民に教え諭し、教育の基本理念とされた文書は何でしょう?
①五箇条の御誓文
②学制
③教育勅語
正解は『教育勅語』
教育勅語(正式名称:教育ニ関スル勅語)は、1890年(明治23年)10月30日に、明治天皇の名前で発布された、教育に関する基本方針を示した文書です。国民(臣民)に対して、天皇や国家への忠誠(忠君愛国)、祖先や親への孝行、夫婦の和合、兄弟の友愛、自己の修養、学問の勉励、公共の利益への貢献などの徳目を説き、これらを実践することが国体の精華であり教育の淵源であるとしました。戦前の日本の教育に絶大な影響を与えましたが、戦後、日本国憲法の精神に反するとして国会で失効が決議されました。
鎌倉時代の農業で、米の裏作として麦などを作るようになったことを何というでしょう?
①二期作
②二毛作
③連作
正解は『二毛作』
二毛作は、同じ耕地で1年に2種類の異なる作物を栽培することです。鎌倉時代には、西日本を中心に、稲(米)を収穫した後の田んぼで麦(主に裏作麦)などを栽培する二毛作が普及し始めました。これにより、土地の利用効率が高まり、農業生産力が向上しました。
室町時代、主に近畿地方の荘園や村落で、農民たちが用水管理や年貢納入などのために結成した自治的な組織を何というでしょう?
①株仲間
②五人組
③惣(惣村)
正解は『惣(惣村)』
惣(惣村)は、室町時代に特に近畿地方を中心に発達した、地縁的なつながりに基づく農民の自治組織です。寄合を開いて村の規約(村掟)を定め、用水路の管理、共有地の利用、祭礼の運営、年貢の共同納入(地下請)などを行いました。時には、領主の支配に抵抗して一揆(土一揆)を起こすこともありました。
戦国大名が、家臣や領民を統制するために定めた独自の法令(家法)の中で、武田信玄が定めたとされるものは何でしょう?
①塵芥集
②今川仮名目録
③甲州法度之次第
正解は『甲州法度之次第』
甲州法度之次第は、甲斐の戦国大名・武田信玄(晴信)が制定したとされる分国法です。全57ヶ条からなり、家臣団の統制、領民支配、喧嘩両成敗、訴訟手続きなどについて詳細に定められています。武田氏の領国支配の基本法となりました。
江戸時代、大坂の堂島に設立され、全国の米価の基準となった米の先物取引市場を何というでしょう?
①魚市場
②青物市場
③堂島米市場
正解は『堂島米市場』
堂島米市場は、江戸時代中期(享保年間)に、大坂の堂島に幕府公認で開設された米穀の取引所です。全国各地から集まる年貢米などがここで取引され、特に「帳合米取引」と呼ばれる先物取引が活発に行われました。ここで形成される米価は、全国の米相場の基準となり、「天下の台所」大坂の経済的中核をなしました。
江戸時代に、主に大坂と江戸を結ぶ太平洋航路(南海路)で、日用品や木綿、油、醤油などを運んだ定期貨物船を何というでしょう?
①朱印船
②遣唐使船
③菱垣廻船(ひがきかいせん)
正解は『菱垣廻船(ひがきかいせん)』
菱垣廻船は、江戸時代に大坂などの上方と江戸の間を結ぶ航路で活躍した大型の貨物船(廻船)です。船体の両舷に設けられた菱形の格子状の装飾(垣立)が名前の由来です。主に木綿、油、醤油、紙、薬などの様々な日用品(雑貨)を運び、江戸の消費生活を支えました。後に酒樽輸送に特化した樽廻船と競合しました。
江戸時代の村落で、検地帳に登録された田畑を持ち、年貢を納める義務を負った正規の農民を何というでしょう?村の運営にも参加しました。
①水呑百姓(みずのみびゃくしょう)
②名子(なご)
③本百姓(ほんびゃくしょう)
正解は『本百姓(ほんびゃくしょう)』
本百姓は、江戸時代の村落における中心的な農民層です。検地帳に自分の名前で土地(田畑・屋敷地)を登録され、領主に対して年貢や諸役(夫役など)を納める義務を負いました。その一方で、村の運営(寄合など)に参加する権利を持ち、村方三役などに選ばれることもありました。
江戸時代の三大都市(三都)とその主な役割の組み合わせとして、適切でないものはどれでしょう?
①江戸:政治の中心・「将軍のお膝元」
②大坂:商業・金融の中心・「天下の台所」
③京都:工業の中心・「ものづくりの都」
正解は『京都:工業の中心・「ものづくりの都」』
江戸は幕府があり政治の中心、大坂は蔵屋敷が集まり商業・金融の中心(天下の台所)でした。京都は天皇の住む都であり、伝統文化や学問、西陣織などの高級手工業の中心地でしたが、「工業の中心」というよりは文化・宗教・手工業の中心としての性格が強いです。三都はそれぞれ異なる役割を担い、日本の政治・経済・文化を支えました。
江戸幕府がキリスト教禁止を徹底するために設けた寺請制度において、寺院が作成した、檀家であることを証明し、キリシタンではないことを示す記録簿を何というでしょう?
①検地帳
②過去帳
③宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)
正解は『宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)』
宗門人別改帳は、寺請制度に基づいて、各寺院がその檀家の人々について、宗派、名前、年齢、家族構成などを記録した帳簿です。人々がキリシタンではないことを証明する役割と同時に、現在の戸籍や住民台帳のような機能も果たし、幕府や藩による民衆把握の手段となりました。毎年改められました。
江戸時代、琉球王国は独立した王国でありながら、中国(清)と日本の薩摩藩の両方に従属する関係にありました。この状態を何というでしょう?
①完全独立
②日清両属
③薩摩藩の直轄領
正解は『日清両属』
江戸時代の琉球王国は、1609年の薩摩藩による侵攻以降、薩摩藩の支配を受け、将軍の代替わりごとに謝恩使、国王の代替わりごとに慶賀使(江戸上り)を送るなど、幕藩体制に組み込まれました。一方で、古くからの中国(明・清)との朝貢・冊封関係も維持し続けました。このように、日本(薩摩藩)と中国(清)の両方に従属する二重の外交関係にある状態を「日清両属」といいます。
江戸時代、蝦夷地(現在の北海道など)に住むアイヌ民族との交易を独占し、支配を行った藩は何でしょう?
①仙台藩
②弘前藩
③松前藩
正解は『松前藩』
松前藩は、江戸時代に蝦夷地の和人地(渡島半島南部)を拠点とし、アイヌ民族との交易を独占的に行う権利を幕府から認められていた藩です。アイヌの人々から毛皮(ラッコ、熊など)、干し魚、鷹の羽などを入手し、米や鉄製品、漆器などと交換しました。交易は藩に大きな利益をもたらしましたが、アイヌの人々にとっては不利な条件で行われることも多く、対立も起こりました(シャクシャインの戦いなど)。
老中水野忠邦が行った天保の改革の内容として、誤っているものはどれでしょう?
①物価上昇の原因とされた株仲間を解散させた。
②倹約令を出して、庶民の贅沢や風俗を厳しく取り締まった。
③田沼意次が行った政策を積極的に継承・発展させた。
正解は『田沼意次が行った政策を積極的に継承・発展させた。』
水野忠邦の天保の改革は、享保の改革や寛政の改革を模範とし、田沼時代の政策や風潮を否定する引き締め型の改革でした。株仲間の解散、厳しい倹約令、人返し令(江戸からの農民帰郷奨励)、上知令(試みたが失敗)などが主な内容です。田沼意次の政策(株仲間公認など)とは逆の方向を目指しました。
1828年、長崎のオランダ商館医シーボルトが帰国する際に、持ち出し禁止の日本地図などを所持していたことが発覚し、関係者が処罰された事件を何というでしょう?
①蛮社の獄
②モリソン号事件
③シーボルト事件
正解は『シーボルト事件』
シーボルト事件は、1828年に、長崎出島のオランダ商館医として来日していたドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、帰国直前に、幕府禁制品である日本地図(伊能忠敬の地図の写しなど)や葵の紋付などを所持していたことが発覚した事件です。シーボルト自身は国外追放処分となり、地図などを提供したとされる幕府天文方の高橋景保らが処罰(獄死など)されました。
ペリー来航と同じ1853年、長崎に来航し、日本との国交樹立と開国、国境画定などを求めたロシアの使節は誰でしょう?
①ラクスマン
②レザノフ
③プチャーチン
正解は『プチャーチン』
エフィム・プチャーチンは、ロシア帝国の海軍提督・外交官です。ペリーが浦賀に来航したのとほぼ同時期の1853年8月に、軍艦4隻を率いて長崎に来航しました。彼は日本に対し、国交樹立、通商、樺太・千島における国境の画定などを要求しました。幕府はペリーへの対応に追われていたため交渉は難航しましたが、翌1854年にペリーが日米和親条約を結んだ後、1855年に下田で日露和親条約が締結されました。
安政の大獄で、幕政を批判し、尊王攘夷思想を説いたとして処刑された長州藩の思想家・教育者は誰でしょう?松下村塾で多くの門下生を育てました。
①高杉晋作
②木戸孝允(桂小五郎)
③吉田松陰
正解は『吉田松陰』
吉田松陰は、幕末の長州藩士で、思想家・教育者です。若くして兵学や儒学を学び、外国事情にも関心を持ちました。ペリー来航時には密航を企てて失敗し、投獄されました。その後、藩内で松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、後の明治維新で活躍する多くの人材を教育しました。幕府の外交政策や安政の大獄を批判したため、1859年に江戸で処刑されました。
幕末期、薩摩藩や長州藩などが積極的に進めた、藩の財政を立て直し、軍備を近代化して藩の力を強めようとした改革を総称して何というでしょう?
①藩政改革
②大政奉還
③殖産興業
正解は『藩政改革』
藩政改革は、江戸時代を通じて各藩で行われてきましたが、特に幕末期には、外国の脅威や幕府の権威低下といった状況に対応するため、多くの藩で活発に行われました。薩摩藩の調所広郷による財政再建や、長州藩の村田清風による改革、軍備の西洋化(洋式銃の導入、軍艦建造など)、有能な下級武士の登用などがその例です。これらの改革の成功が、後の薩長などの雄藩の台頭につながりました。
明治新政府の基本方針を示した五箇条の御誓文の内容として、含まれていないものはどれでしょう?
①広く会議をおこし、万機公論に決すべし
②知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
③天皇が絶対的な権力を行使すべし
正解は『天皇が絶対的な権力を行使すべし』
五箇条の御誓文は、①広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ(議会政治・世論尊重)、②上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ(国民統合)、③官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス(自由な活動の保障)、④旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ(旧弊打破・国際的道理)、⑤知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ(国際化・国威発揚)の五つからなります。「天皇が絶対的な権力を行使すべし」という内容は含まれておらず、むしろ開明的な方針を示しています。
明治時代の初期、政府の要職を、主に薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4藩出身者が独占した政治体制を、批判的な意味を込めて何というでしょう?
①幕藩体制
②摂関政治
③藩閥政治
正解は『藩閥政治』
藩閥政治は、明治維新を主導した薩摩・長州・土佐・肥前(薩長土肥)の4藩出身者が、明治政府の要職(大臣、参議など)を独占し、藩の派閥に基づいて政治を行った体制を指す、主に批判的な呼称です。自由民権運動では、この藩閥政府の専制的な政治が主な打倒の対象とされました。
明治政府が行った地租改正に対し、「竹槍でドンと突き出す二分五厘」という歌も歌われ、各地で農民が負担軽減を求めて起こした反対運動を何というでしょう?
①自由民権運動
②大逆事件
③地租改正反対一揆
正解は『地租改正反対一揆』
地租改正(1873年~)は、政府に安定した税収をもたらしましたが、農民にとっては必ずしも負担軽減にはならず、地価の算定や現金納付への不満もあって、全国各地で反対一揆が頻発しました。特に1876年(明治9年)には、茨城・三重・愛知・岐阜などで大規模な一揆が発生し、政府は翌年、地租率を3%から2.5%に引き下げる措置をとりました。
自由民権運動の時代に、政府の政策を批判したり、民権思想を広めたりする上で重要な役割を果たしたメディアは何でしょう?
①ラジオ放送
②テレビ放送
③新聞・雑誌
正解は『新聞・雑誌』
自由民権運動期には、様々な新聞や雑誌が創刊され、民権派の主張を広め、政府の政策を批判する論陣を張りました。「東京日日新聞」「郵便報知新聞」「自由新聞」「朝野新聞」などが代表的です。これらのメディアは、政談演説会とともに、世論を形成し、運動を全国に広げる上で不可欠な役割を果たしました。政府は新聞紙条例などでこれを取り締まろうとしました。
1881年以降、大蔵卿(後の大蔵大臣)として、紙幣整理や増税、緊縮財政などのデフレーション政策を強力に推し進め、政府の財政を安定させた人物は誰でしょう?
①大隈重信
②松方正義
③井上馨
正解は『松方正義』
松方正義は、薩摩藩出身の政治家で、明治十四年の政変後に大蔵卿に就任し、西南戦争後のインフレーションを収拾するために、厳しいデフレーション政策(松方財政)を断行しました。具体的には、不換紙幣の整理・回収、兌換紙幣(銀兌換)である日本銀行券の発行(日本銀行設立)、増税(酒税・たばこ税など)、歳出削減、官営事業の払い下げなどを進めました。これにより物価は下落し、政府財政は安定しましたが、農村部は深刻な不況に陥り、農民の困窮や自作農の没落が進みました。
大日本帝国憲法において、天皇が議会の関与なしに軍隊を直接指揮・命令する最高権限のことを何というでしょう?
①立法権
②行政権
③統帥権(とうすいけん)
正解は『統帥権(とうすいけん)』
統帥権は、大日本帝国憲法において、天皇が大元帥として陸海軍を直接指揮・統率する最高権限のことです(憲法第11条)。この統帥権は、議会や内閣の統制を受けない「統帥権の独立」として解釈・運用され、後に軍部が政治的発言力を強め、政府の統制から逸脱していく(軍部の独走)要因の一つとなりました。
大日本帝国憲法と同時に設置され、天皇の最高諮問機関として、憲法の解釈や重要な国務について天皇に助言する役割を担った機関は何でしょう?
①帝国議会
②内閣
③枢密院(すうみついん)
正解は『枢密院(すうみついん)』
枢密院は、大日本帝国憲法下の天皇の最高諮問機関として1888年に設置されました。憲法の番人ともされ、憲法改正案、法律・勅令案、条約、宣戦布告など、極めて重要な国務について天皇からの諮問に答申する役割を担いました。議長と副議長、枢密顧問官(元老や有力政治家などが任命された)で構成され、政府や議会とは独立して大きな権威を持ちました。
1890年に帝国議会が開かれると、政府(藩閥政府)と、衆議院で多数を占めた民党(自由党・立憲改進党など)との間で、何を中心に激しい対立が繰り広げられたでしょう?
①外交方針(条約改正など)
②教育制度(教育勅語など)
③予算案(特に軍事費など)
正解は『予算案(特に軍事費など)』
初期の帝国議会(第1回~第6回議会頃)では、政府(超然主義を掲げる藩閥内閣)と、衆議院で多数派を形成した民党(自由党、立憲改進党など)との間で、予算案をめぐる激しい対立が続きました。民党側は「政費節減・民力休養」をスローガンに、政府が提出する予算案(特に軍艦建造費などの軍事費)の削減を要求し、政府はしばしば衆議院解散や、天皇の詔勅を利用するなどして対抗しました。