
【自動採点一問一答】中学1年社会・歴史問題まとめ|無料プリントテストあり
テスト前の確認や復習に使える1年生の社会・歴史テスト200問です。ランダムで20問出題されます。ブックマークして何度もトライしてね。
ランダム20問出題!何点とれるかな?
出題範囲:中学1年生の学習範囲
中学1年生の社会科では、主に地理的分野と歴史的分野の基礎を学びます。これから世界や日本のこと、そして昔の人々がどのように生きてきたのかを知る、とても面白い分野ですよ。
1. 地理的分野
地理では、私たちが住んでいる地球や世界、そして日本のすがたについて学びます。
(1)世界のすがた
- 地球のすがた: 地球が丸いこと、緯度と経度を使って場所を表す方法、赤道や本初子午線などを学びます。
- 時差: なぜ国によって時刻が違うのか、その仕組み(経度との関係)や計算方法を学びます。
- 世界の地域: 世界は大きく6つの大陸(ユーラシア、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリア、南極)と3つの大洋(太平洋、大西洋、インド洋)に分けられることを学びます。
- 世界の国々: 世界にはたくさんの国があること、国境線や首都など、基本的な情報を学びます。
- 地図の読み方: さまざまな地図(世界地図、地形図など)の種類や特徴、地図記号の読み方を学び、地図を使って情報を読み取る練習をします。
(2)世界の諸地域
世界の各地域(州ごと)について、自然環境(地形、気候)、産業、文化、人々の暮らしなどを具体的に学びます。
- アジア州: 広大な面積と多様な気候(モンスーンなど)、稲作中心の農業、多くの人口、多様な民族・宗教(仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など)が特徴です。中国、インド、東南アジア諸国などについて学びます。
- ヨーロッパ州: 多くの国が集まっていること、EU(ヨーロッパ連合)という結びつき、比較的穏やかな気候、キリスト教文化、発達した工業などが特徴です。イギリス、フランス、ドイツなどについて学びます。
- アフリカ州: 広大な砂漠や熱帯雨林、多様な鉱産資源、かつての植民地支配の歴史、発展途上の国が多いことなどが特徴です。エジプト、南アフリカ共和国などについて学びます。
- 北アメリカ州: 広大な平野や山脈、多様な気候、進んだ農業や工業、多民族国家(アメリカ合衆国、カナダ)などが特徴です。
- 南アメリカ州: アンデス山脈やアマゾン川などの雄大な自然、かつての植民地時代の文化(スペイン語・ポルトガル語)、コーヒーや鉱産資源などが特徴です。ブラジル、ペルーなどについて学びます。
- オセアニア州: オーストラリア大陸と多くの島々からなること、独特の自然環境(サンゴ礁など)、イギリスとの歴史的なつながりなどが特徴です。オーストラリア、ニュージーランドなどについて学びます。
(3)日本のすがた
私たちの国、日本について詳しく学びます。
- 日本の位置と領域: 日本が世界のどこにあるのか(アジアの東、太平洋)、日本の領土(北方領土、竹島、尖閣諸島の問題にも触れます)、排他的経済水域などを学びます。
- 日本の地形: 山地が多いこと、火山や地震が多いこと、海岸線が長いことなど、日本の地形の特徴を学びます。
- 日本の気候: 四季がはっきりしていること、梅雨や台風があること、地域によって気候が違うこと(太平洋側、日本海側、内陸、南西諸島、北海道)などを学びます。
- 日本の資源・エネルギー: 日本は資源が少ない国であること、エネルギーを輸入に頼っていることなどを学びます。
- 日本の人口: 人口構成(少子高齢化)、人口分布(都市への集中)などを学びます。
- 日本の産業: 農業、水産業、工業、商業・サービス業など、日本の主な産業について学びます。
2. 歴史的分野
歴史では、人類の誕生から日本の古代までの出来事や人々の生活の移り変わりを学びます。
(1)歴史の学び方
- 歴史とは何か、なぜ歴史を学ぶのかを考えます。
- 時代の区分(世紀、年代)、年号(元号、西暦)、年表の使い方など、歴史学習の基本的なルールを学びます。
- 遺跡や遺物、文献資料など、歴史を知るための手がかり(史料)について学びます。
(2)世界の古代文明
- 人類の出現: アフリカで誕生した人類が、どのように進化し、世界へ広がっていったのかを学びます(猿人、原人、旧人、新人)。
- 四大文明: 人類が大きな川のほとりで築いた古代文明について学びます。
- メソポタミア文明(チグリス・ユーフラテス川、楔形文字、ハンムラビ法典)
- エジプト文明(ナイル川、象形文字、ピラミッド、太陽暦)
- インダス文明(インダス川、モヘンジョ・ダロなどの都市遺跡、インダス文字)
- 中国文明(黄河・長江、甲骨文字、殷・周など)
- ギリシャ・ローマの文明: ヨーロッパ文明の源流となった、ポリス(都市国家)、民主政治、哲学、オリンピック(ギリシャ)、共和政から帝政へ、法律、建築(ローマ)などを学びます。
- 宗教のおこり: キリスト教、イスラム教、仏教といった、現代にも大きな影響を与えている宗教がどのように生まれたのかを学びます。
(3)日本の古代
日本の国の成り立ちと発展を学びます。
- 旧石器時代・縄文時代: 日本列島に人々が住み始めたころのくらし、狩りや採集の生活、土器の使用(縄文土器)、竪穴住居などを学びます。
- 弥生時代: 大陸から稲作や金属器(青銅器・鉄器)が伝わり、人々の生活が大きく変化した時代です。ムラができ、クニが生まれ、争いが起こるようになります。吉野ヶ里遺跡などが有名です。
- 古墳時代(大和政権): 邪馬台国(卑弥呼)の時代を経て、近畿地方を中心に強力な政権(大和政権)が誕生します。各地に大きな古墳がつくられたことから古墳時代と呼ばれます。前方後円墳などが有名です。
- 飛鳥時代: 大和政権が「天皇」を中心とする中央集権的な国家を目指した時代です。聖徳太子による政治改革(冠位十二階、十七条の憲法)、仏教文化の導入(法隆寺など)、遣隋使の派遣などについて学びます。
- 奈良時代: 都が平城京(今の奈良市)に置かれた時代です。大化の改新を経て整えられた律令(法律)に基づいて国が治められました(律令国家)。遣唐使が派遣され、唐(中国)の進んだ文化や制度が取り入れられました。東大寺の大仏などが有名です。
- 平安時代: 都が平安京(今の京都市)に移された時代です。初めは律令政治が行われましたが、次第に藤原氏などが摂政・関白として力を持ち、貴族中心の政治・文化(国風文化)が栄えました。『源氏物語』や『枕草子』などが生まれたのもこの時代です。後半には武士が登場し、力をつけていきます。
学習のポイント
- 地図帳や資料集をよく使う: 地理では場所や地形、歴史では遺跡の場所や絵図など、地図帳や資料集は情報の宝庫です。積極的に活用しましょう。
- 「なぜ?」を考える: 単に地名や人名、出来事を覚えるだけでなく、「なぜその気候なのか?」「なぜその出来事が起こったのか?」と理由や背景を考えることが大切です。
- ニュースと関連付ける: 世界の国々のニュースや、日本の自然災害、歴史に関する発見などは、社会科の学習と深く関わっています。ニュースを見る目を養いましょう。
- ノートを工夫する: 図やイラストを入れたり、色分けしたり、年表を作ったりして、自分なりに分かりやすいノートを作るのも効果的です。
中学1年生の社会は、地理も歴史も、これからの学習の土台となる非常に重要な内容です。覚えることも多いですが、私たちの世界や過去を知ることは、とてもワクワクすることだと思います。ぜひ興味を持って、楽しみながら学習を進めてくださいね!応援しています!などを体験的に学んでいきます。これが、3年生から始まる本格的な「社会科」の学習の土台となります。
中学生の一問一答(社会・理科)
一問一答|中学1年生の歴史の問題
歴史を学ぶときに使う、過去の出来事を時間的な順番に並べた表を何というでしょう?
①世界地図
②年表
③歴史書
正解は『年表』
年表は、歴史上の出来事を年代順に整理したものです。これにより、いつ、どのような順番で出来事が起こったのか、また、同じ時代に世界の別の場所では何が起こっていたのかなどを視覚的に把握することができます。歴史の流れを理解するための基本的なツールです。
現在、世界で広く使われている西暦(せいれき)は、誰が生まれたとされる年を基準にした年の数え方でしょう?
①釈迦(仏教)
②イエス・キリスト(キリスト教)
③ムハンマド(イスラム教)
正解は『イエス・キリスト(キリスト教)』
西暦は、キリスト教の創始者であるイエス・キリストが生まれたとされる年を「紀元元年(西暦1年)」とする年の数え方です。それより前の年を紀元前(B.C.)といいます。ヨーロッパで生まれ、現在では国際的に広く用いられています。日本の元号(令和、平成など)とは異なる数え方です。
西暦で、100年間を一つの区切りとする単位を何というでしょう?
①十年紀
②世紀
③千年紀
正解は『世紀』
世紀は、西暦を100年ごとに区切った年代の単位です。例えば、西暦1年から100年までが1世紀、101年から200年までが2世紀となります。21世紀は、西暦2001年から2100年までを指します。大きな時代の流れを捉える際に使われます。
昔の人々が暮らしていた住居跡や墓、使っていた道具(土器や石器)など、過去の人々の生活の跡が残されている場所や物を総称して何というでしょう?
①文献資料
②遺跡・遺物
③伝承
正解は『遺跡・遺物』
遺跡は、過去の人々の活動の痕跡が残る土地(例:住居跡、貝塚、古墳など)を指し、遺物は、そこから出土する道具や装飾品(例:土器、石器、埴輪など)を指します。文字記録(文献資料)が少ない、あるいは存在しない時代の歴史を知る上で、これらは非常に重要な手がかりとなります。
現在わかっている最も古い人類(猿人)の化石が発見されたのは、主にどの大陸でしょう?
①ユーラシア大陸
②アフリカ大陸
③アメリカ大陸
正解は『アフリカ大陸』
アウストラロピテクスなどの猿人の化石は、アフリカ大陸で多く発見されています。このことから、人類はアフリカで誕生し、その後、原人、旧人、新人へと進化しながら、長い時間をかけて世界各地へ広がっていったと考えられています。
人類が最初に作り、使用したと考えられる道具は、主に何から作られていたでしょう?
①石を打ち欠いたもの
②動物の骨を削ったもの
③金属を溶かして固めたもの
正解は『石を打ち欠いたもの』
人類が最初に使った道具は、石と石を打ち付けて鋭い部分を作り出した「打製石器(だせいせっき)」です。これを使って動物を捕らえたり、木の実を割ったりしていました。道具の使用は、人類が他の動物と大きく異なる点であり、その後の進化に大きな影響を与えました。
人類が火を使いこなせるようになったことで、生活にどのような変化がもたらされたと考えられるでしょう?(最も適切なものを選びましょう)
①文字を発明し記録ができるようになった
②暖房、調理、身の安全確保などが可能になった
③船を作り遠くまで移動できるようになった
正解は『暖房、調理、身の安全確保などが可能になった』
火の使用は人類の生活を劇的に変えました。寒さから身を守り(暖房)、食べ物を加熱調理することで栄養価を高め、消化しやすくし、また寄生虫などから身を守りました。さらに、夜間の活動や、猛獣を追い払うこと(安全確保)も可能になりました。火の使用は、人類の生存能力を高める上で非常に重要でした。
人類が打製石器を使い、狩りや採集を中心とした移動生活を送っていた時代を何時代と呼ぶでしょう?
①縄文時代
②旧石器時代
③弥生時代
正解は『旧石器時代』
旧石器時代は、人類が石を打ち欠いて作った打製石器を使用していた最も古い時代です。この時代の人々は、食料を求めて動物の群れを追ったり、植物を採集したりしながら移動生活(遊動生活)を送っていました。日本列島にも旧石器時代から人々が住んでいました。
約1万年前に氷期が終わり、気候が温暖になると、人々は石を磨いて形を整えた石器や、食料を煮炊きするための土器を作り始めました。この、磨いて作られた石器を何というでしょう?
①打製石器
②磨製石器
③青銅器
正解は『磨製石器』
気候が温暖化し、自然環境が変化すると、人々の生活も変わりました。石を磨いてより目的に合った形に加工した「磨製石器(ませいせっき)」が作られるようになります。磨製石器は、土を掘ったり、木を切ったりするのに適しており、後の農耕の開始にもつながります。この時代を新石器時代と呼び、日本では縄文時代がこれにあたります。
世界で比較的早く農耕・牧畜が始まり、文明が誕生した地域に共通する自然環境の特徴は何でしょう?
①大きな川の流域であること
②標高の高い山岳地帯であること
③広大な砂漠が広がっていること
正解は『大きな川の流域であること』
メソポタミア、エジプト、インダス、中国の四大文明は、いずれも大河の流域で発展しました。川は定期的な氾濫によって肥沃な土壌をもたらし、農耕に必要な水を供給しました。また、交通路としても利用され、人々の交流や物資の輸送を助け、都市の形成と文明の発展を促しました。
メソポタミア文明が栄えた地域は、現在のイラクなどを流れる二つの大河の流域です。その二つの川の名前は何でしょう?
①ナイル川とインダス川
②黄河と長江(揚子江)
③チグリス川とユーフラテス川
正解は『チグリス川とユーフラテス川』
メソポタミアは、ギリシャ語で「川の間の土地」を意味し、チグリス川とユーフラテス川という二つの川に挟まれた地域を指します。この地域は「肥沃な三日月地帯」とも呼ばれ、豊かな水と土壌に恵まれ、世界で最も早く農耕が始まり、都市文明が誕生しました。
メソポタミア文明で使われた、粘土板に葦(あし)のペンなどで刻まれた文字を何というでしょう?
①ヒエログリフ(神聖文字)
②甲骨文字
③楔形文字(くさびがたもじ/せっけいもじ)
正解は『楔形文字(くさびがたもじ/せっけいもじ)』
メソポタミア文明では、記録を残すために文字が発明されました。川の近くで手に入りやすい粘土を板状にし、それが乾かないうちに葦などで作ったペンで押しつけるように文字を刻みました。文字の形がV字やくさび(木材などを割るための道具)に似ていることから「楔形文字」と呼ばれます。神殿への奉納物の記録、法律、文学作品などが記されました。
メソポタミア文明において、紀元前18世紀ごろにバビロン第1王朝の王が制定した、「目には目を、歯には歯を」の原則で知られる法律を何というでしょう?
①モーセの十戒
②ハンムラビ法典
③ローマ法大全
正解は『ハンムラビ法典』
ハンムラビ法典は、古代バビロニアのハンムラビ王が、国内を統一的に支配するために制定した法典です。石碑に楔形文字で刻まれました。「目には目を、歯には歯を」という復讐法の原則(同害報復)が有名ですが、身分によって刑罰の重さが異なるなど、当時の社会の様子を知る上で重要な資料です。
エジプト文明が栄えたのは、何という川の流域でしょう? この川は「エジプトは〇〇のたまもの」という言葉でも知られています。
①チグリス川
②ナイル川
③インダス川
正解は『ナイル川』
エジプト文明は、アフリカ大陸を流れるナイル川の流域で発展しました。ナイル川は毎年定期的に氾濫し、上流から肥沃な土壌を運んできたため、砂漠地帯でも豊かな農耕が可能になりました。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、このことから「エジプトはナイルのたまもの」という言葉を残しました。
古代エジプトで、王(ファラオ)の墓として、また権力の象徴として建設された巨大な建造物を何というでしょう?
①ジッグラト
②ピラミッド
③コロッセオ
正解は『ピラミッド』
ピラミッドは、古代エジプトの王(ファラオ)の墓として建設された、四角錐の形をした巨大な石造建築物です。王の絶大な権力と、死後の世界を信じるエジプト人の宗教観を示しています。クフ王のピラミッドが最大で、当時の高度な測量技術や建築技術を物語っています。
古代エジプトで使われた、絵文字のような特徴を持つ文字を何というでしょう? 神殿や墓などに刻まれました。
①楔形文字
②アルファベット
③ヒエログリフ(神聖文字)
正解は『ヒエログリフ(神聖文字)』
ヒエログリフは、古代エジプトで主に神殿や墓の壁、石碑などに刻まれた文字で、鳥や動物、人間の姿などをかたどった絵文字のような形をしています。「神聖文字」とも呼ばれます。王の業績や神々への信仰などを記録するために用いられました。紙の一種であるパピルスにも書かれました。
古代エジプト人が、ナイル川の氾濫を予測するためなどに用いた、1年を365日とする暦(こよみ)を何というでしょう?
①太陰暦
②太陽暦
③六十干支
正解は『太陽暦』
古代エジプト人は、ナイル川の定期的な氾濫の時期を知ることが農耕にとって非常に重要でした。彼らは星の観察などから、1年が約365日であることを知り、太陽の運行周期に基づいた太陽暦を作り出しました。これは、現在の暦の基礎となっています。
インダス文明が栄えたのは、現在のパキスタンなどを流れる何という川の流域でしょう?
①ガンジス川
②メコン川
③インダス川
正解は『インダス川』
インダス文明は、南アジアのインダス川流域(現在のパキスタンとその周辺)で栄えた古代都市文明です。紀元前2600年頃から紀元前1800年頃にかけて繁栄しました。
インダス文明の代表的な都市遺跡で、計画的に作られた道路、レンガ造りの建物、公衆浴場、下水道設備などが見られるのはどこでしょう?
①バビロン
②メンフィス
③モヘンジョ・ダロ(モエンジョ・ダーロ)
正解は『モヘンジョ・ダロ(モエンジョ・ダーロ)』
モヘンジョ・ダロやハラッパーは、インダス文明を代表する都市遺跡です。これらの遺跡からは、碁盤の目状に整備された道路、焼いたレンガで作られた家々、高度な公衆浴場や下水道設備などが発見されており、極めて計画的に作られた都市であったことがわかります。インダス文字と呼ばれる未解読の文字も使われていました。
中国文明が起こった二つの大河とは、黄河と何でしょう?
①長江(揚子江)
②メコン川
③アムール川
正解は『長江(揚子江)』
中国文明は、北部の黄河流域と南部の長江(揚子江)流域という、二つの大きな川の流域でそれぞれ独自に発展し、やがて結びついていきました。黄河流域ではアワやキビ、長江流域では稲作が早くから行われていました。
紀元前16世紀頃に黄河流域におこり、青銅器や甲骨文字が使われたことが確認されている、中国最古の王朝を何というでしょう?
①周(しゅう)
②秦(しん)
③殷(いん)
正解は『殷(いん)』
殷は、確認されている中では中国最古の王朝です。河南省の殷墟(いんきょ)遺跡などが有名です。優れた青銅器を作る技術を持ち、祭祀や武器に用いられました。また、亀の甲羅や動物の骨に刻まれた甲骨文字は、占いの結果を記録したもので、現在の漢字の原型となりました。
殷の時代に使われた、亀の甲羅や動物の骨に刻まれ、占いに用いられた文字で、現在の漢字の原型となったものを何というでしょう?
①楔形文字
②甲骨文字
③ヒエログリフ
正解は『甲骨文字』
甲骨文字は、殷の時代に、王が戦争や農作、狩猟などの吉凶を占う際に、亀の甲羅や牛の肩甲骨などに刻んだ文字です。熱した金属棒を押し当ててできたひび割れの形で占いました。卜辞(ぼくじ)とも呼ばれ、当時の政治や社会を知る貴重な資料であり、現在の漢字の直接の祖先とされています。
殷を滅ぼし、紀元前11世紀頃に黄河流域を支配した王朝は何でしょう? この王朝は封建制(ほうけんせい)で国内を統治しました。
①秦(しん)
②漢(かん)
③周(しゅう)
正解は『周(しゅう)』
周は、殷を滅ぼして華北一帯を支配した王朝です。周の王は、一族や功臣(功績のあった家臣)を各地の「諸侯(しょこう)」とし、その土地(封土)と人民を与えて支配を任せる代わりに、貢物や軍役の義務を課しました。この血縁関係に基づいた統治システムを封建制といいます。
周の力が衰えた後、多くの国(諸侯)が争った春秋時代を経て、さらに激しい争いが繰り広げられた時代を何というでしょう? この時代に諸子百家と呼ばれる思想家が現れました。
①戦国時代
②三国時代
③南北朝時代
正解は『戦国時代』
春秋時代に続き、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて、有力な諸侯が王を名乗って互いに争う、より厳しい実力主義の時代となりました。これを戦国時代といいます。この混乱期に、国を豊かにし強くする方法や、人々の生き方について様々な考え(儒家、道家、法家など)を説く諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれる思想家たちが登場しました。
春秋・戦国時代の思想家で、「仁(じん)」(思いやり)と「礼(れい)」(社会規範)を重視し、家族道徳を政治の基本に置くべきだと説いたのは誰でしょう? その教えは儒教(じゅきょう)として発展しました。
①老子(ろうし)
②孔子(こうし)
③始皇帝(しこうてい)
正解は『孔子(こうし)』
孔子は、春秋時代の魯(ろ)の国の思想家です。混乱した社会を立て直すために、人々が他人を思いやる心(仁)を持ち、身分に応じた礼儀作法(礼)を守ることが重要だと説きました。彼の教えは弟子たちによって『論語』にまとめられ、後に儒教として体系化され、中国だけでなく、日本や朝鮮半島など東アジアの国々に大きな影響を与えました。
紀元前3世紀、戦国時代の混乱を統一し、中国史上初めて皇帝を名乗った人物は誰でしょう?
①劉邦(りゅうほう)
②始皇帝(しこうてい)
③武帝(ぶてい)
正解は『始皇帝(しこうてい)』
秦(しん)の王であった政(せい)は、紀元前221年に中国を統一し、初めて「皇帝」という称号を用い、始皇帝と名乗りました。彼は、中央集権体制を確立するため、郡県制(ぐんけんせい)を実施し、文字、貨幣、度量衡(どりょうこう:長さ・体積・重さの単位)を統一するなど、強力な政策を進めました。
始皇帝が行った政策として、適切でないものはどれでしょう?
①文字・貨幣・度量衡の統一
②万里の長城の修築
③儒教を国の教えとして奨励
正解は『儒教を国の教えとして奨励』
始皇帝は、法家思想に基づいて厳しい法律で国を治め、思想統制のために儒学などを弾圧する「焚書・坑儒(ふんしょ・こうじゅ)」を行いました。文字・貨幣・度量衡の統一や、北方の遊牧民の侵入を防ぐための万里の長城の修築・連結は、彼の行った重要な政策です。儒教を奨励したのは後の漢王朝です。
秦の滅亡後、項羽(こうう)との争いに勝利し、紀元前202年に中国を再統一して漢(前漢)王朝を建てた人物は誰でしょう?
①始皇帝
②劉邦(りゅうほう)
③光武帝(こうぶてい)
正解は『劉邦(りゅうほう)』
劉邦は、農民出身でありながら、秦末の混乱の中で力をつけ、楚(そ)の項羽との激しい戦い(楚漢戦争)に勝利して、漢王朝を建国しました(高祖)。彼は秦の厳しい法律を緩め、民衆の負担を軽減するなどして、長期にわたる王朝の基礎を築きました。
漢の武帝(ぶてい)の時代に、東西交易の重要なルートとなった、中国から中央アジアを経て地中海方面へと続く道を何というでしょう?
①シルクロード(絹の道)
②塩の道
③海の道
正解は『シルクロード(絹の道)』
シルクロードは、漢の武帝が匈奴(きょうど)を討つために派遣した張騫(ちょうけん)によって開かれたとされる、東西を結ぶ交通路です。中国特産の絹織物がこの道を通って西方へ運ばれたことからこの名で呼ばれます。絹だけでなく、様々な文物、技術、宗教(仏教など)が東西間で交流する上で重要な役割を果たしました。
一度滅びた漢王朝が、1世紀に再興されてできた王朝を何というでしょう? 都は洛陽(らくよう)に置かれました。
①後漢(ごかん)
②晋(しん)
③隋(ずい)
正解は『後漢(ごかん)』
前漢は、外戚(がいせき:皇后や后の親戚)の王莽(おうもう)によって一時滅ぼされ、「新」という国が建てられました。しかし、農民反乱などにより新は倒れ、漢の一族である劉秀(りゅうしゅう)が漢王朝を再興しました。これを後漢(光武帝)といいます。前漢(都は長安)と区別するために後漢と呼ばれます。
古代ギリシャで、アテネやスパルタのように、都市とその周辺地域からなる独立した国家を何というでしょう?
①ポリス
②コロニア
③エンポリウム
正解は『ポリス』
ポリスは、古代ギリシャにおいて形成された都市国家のことです。中心となる都市(アクロポリスと呼ばれる丘やアゴラと呼ばれる広場を持つ)とその周辺の農村地域から構成されていました。アテネやスパルタなどが代表的なポリスで、それぞれ独自の政治体制や文化を持っていました。
古代アテネで発展した、市民(成人男性)が直接参加して政治を行う仕組みを何というでしょう?
①共和制
②帝政
③民主政治
正解は『民主政治』
アテネでは、紀元前5世紀頃、ペルシア戦争での勝利などを背景に、市民(成人男性に限られる)が民会(みんかい)に参加し、国の重要な決定を直接行う直接民主政治が発達しました。指導者は抽選や選挙で選ばれ、一定期間で交代しました。現代の民主主義の源流の一つとされています。
古代ギリシャで行われた、4年に1度、ゼウス神殿のあるオリンピアで開催されたスポーツの祭典を何というでしょう? 現在のオリンピックの起源となりました。
①パナテナイア祭
②オリンピアの祭典
③デルフォイの神託
正解は『オリンピアの祭典』
古代オリンピアの祭典は、ギリシャ各地のポリスから選手が集まり、ゼウス神に捧げる宗教的な行事として行われた競技会です。期間中はポリス間の戦争も休止されました(聖なる休戦)。近代オリンピックは、この古代の祭典をモデルとしてフランスのクーベルタン男爵の提唱で始まりました。
古代ギリシャの哲学者で、「ソクラテスの弟子」であり、「イデア論」を説き、アテネに学園アカデメイアを開いたのは誰でしょう?
①アリストテレス
②プラトン
③ヘロドトス
正解は『プラトン』
プラトンは、師ソクラテスの思想を受け継ぎ、対話篇という形式で多くの著作を残しました。彼は、私たちが感覚で捉える現実世界とは別に、永遠不変の真実の世界(イデア界)が存在すると考え(イデア論)、哲人による政治が理想だと説きました。彼が開いたアカデメイアは、ヨーロッパの大学の原型とも言われます。
プラトンの弟子で、「万学の祖」とも呼ばれ、様々な学問分野の研究を行い、後のヨーロッパの学問に大きな影響を与えた哲学者は誰でしょう?
①ソクラテス
②アリストテレス
③エピクロス
正解は『アリストテレス』
アリストテレスは、プラトンのアカデメイアで学び、後に自身の学園リュケイオンを開きました。彼は、論理学、政治学、倫理学、自然科学など、あらゆる学問分野を体系的に研究し、その業績は中世ヨーロッパのスコラ学やイスラム世界の学問にも大きな影響を与えました。「万学の祖」と称されます。
紀元前4世紀、ギリシャの北方にあったマケドニアの王で、ギリシャのポリスを支配し、さらに東方に大帝国を築いたのは誰でしょう?
①フィリッポス2世
②アレクサンドロス大王
③ペリクレス
正解は『アレクサンドロス大王』
アレクサンドロス大王は、マケドニア王フィリッポス2世の子で、若くして王位を継ぎました。彼は、ギリシャ連合軍を率いて東方へ遠征し、ペルシア帝国を滅ぼし、エジプトからインド西部にまで至る広大な帝国を築き上げました。彼の遠征により、ギリシャ文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化が生まれました。
アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシャ文化とオリエント(東方)文化が融合して生まれた新しい文化を何というでしょう?
①ローマ文化
②ヘレニズム文化
③ビザンツ文化
正解は『ヘレニズム文化』
ヘレニズム文化は、アレクサンドロス大王の帝国の成立から、紀元前30年にプトレマイオス朝エジプトがローマに滅ぼされるまでの約300年間に、東地中海世界から西アジアにかけて広がった文化です。ギリシャ語が共通語となり、個人主義や世界市民主義(コスモポリタニズム)の考え方が生まれ、彫刻や建築、自然科学などが発展しました。
イタリア半島中部に都市国家としておこり、やがて地中海世界全体を支配する大帝国へと発展した国は何でしょう?
①カルタゴ
②ローマ
③エトルリア
正解は『ローマ』
ローマは、伝説によれば紀元前8世紀にイタリア半島中部のテヴェレ川河畔に建国された都市国家です。当初は王政でしたが、貴族による共和政に移り、分割統治や市民権の付与といった巧みな政策と強力な軍事力によってイタリア半島を統一し、さらに地中海世界の覇権を握る大帝国へと成長しました。
共和政時代のローマで、貴族が政治の実権を握っていた議会を何というでしょう?
①民会
②元老院(げんろういん)
③執政官
正解は『元老院(げんろういん)』
元老院は、共和政ローマの最高決定機関で、主に貴族(パトリキ)の有力者たちで構成されていました。定員は約300名で、終身の議員が法律の制定や外交、財政などについて強い権限を持ち、執政官(コンスル)などの要職経験者が多く含まれていました。平民(プレブス)の権利拡大後も、その権威は長く続きました。
共和政ローマが、西地中海の覇権をめぐって北アフリカのフェニキア人植民都市と3度にわたって戦った戦争を何というでしょう?
①ペルシア戦争
②ペロポネソス戦争
③ポエニ戦争
正解は『ポエニ戦争』
ポエニ戦争は、紀元前3世紀から紀元前2世紀にかけて、ローマと北アフリカのカルタゴとの間で行われた3回の戦争です。「ポエニ」とはローマ人がカルタゴ(フェニキア人の植民都市)の人々を指した言葉です。ハンニバル率いるカルタゴ軍に苦戦しながらも、ローマはこの戦争に勝利し、西地中海の支配権を確立しました。
共和政末期のローマで、「賽(さい)は投げられた」と言ってルビコン川を渡り、内乱に勝利して独裁権を握った人物は誰でしょう?
①ポンペイウス
②カエサル(シーザー)
③アントニウス
正解は『カエサル(シーザー)』
ガイウス・ユリウス・カエサルは、ガリア遠征で名声を高めた軍人・政治家です。元老院との対立が深まると、軍隊を率いて国境のルビコン川を渡り(当時の法律で禁止されていた)、内乱を開始しました。「賽は投げられた」はその際の言葉とされます。内乱に勝利し、終身独裁官となりましたが、共和政を守ろうとする人々に暗殺されました。
カエサルの後継者となり、紀元前27年に元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を受け、事実上の初代ローマ皇帝となった人物は誰でしょう? これにより帝政(プリンキパトゥス)が始まります。
①アントニウス
②オクタウィアヌス
③クレオパトラ
正解は『オクタウィアヌス』
オクタウィアヌスは、カエサルの養子で、カエサル暗殺後の内乱を勝ち抜き、エジプト女王クレオパトラと結んだアントニウスをアクティウムの海戦で破り、ローマの最高権力者となりました。彼は元老院から「アウグストゥス」の称号を与えられ、共和政の形式を尊重しつつ実質的な皇帝として君臨しました。彼の治世から約200年間は「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」と呼ばれ、帝国は安定と繁栄を享受しました。
帝政ローマ時代に、帝国の安定と繁栄が続いた、紀元1世紀から2世紀にかけての約200年間を何と呼ぶでしょう?
①ローマの休日
②ローマの平和(パクス・ロマーナ)
③ローマの復興
正解は『ローマの平和(パクス・ロマーナ)』
「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」は、初代皇帝アウグストゥスの治世から五賢帝時代(ごけんていじだい)の終わり(紀元前27年~紀元後180年頃)まで続いた、ローマ帝国の安定と繁栄の時代を指します。この時代、広大な領土内で戦争が少なく、法と秩序が保たれ、交通網が整備され、経済や文化が発展しました。
古代ローマで建設された、円形の闘技場で、剣闘士(グラディエーター)の試合や猛獣との戦いなどが見世物として行われた建物を何というでしょう? ローマ市にあるものが特に有名です。
①パンテオン
②コロッセウム(コロッセオ)
③カラカラ浴場
正解は『コロッセウム(コロッセオ)』
コロッセウム(フラウィウス円形闘技場)は、帝政ローマ時代の紀元1世紀に建設された巨大な円形闘技場です。約5万人を収容できたとされ、剣闘士の試合や模擬海戦、猛獣狩りなどの見世物が皇帝主催で行われ、ローマ市民の娯楽の場となりました。当時の高度な建築技術を示しています。
ローマ帝国で広く用いられた言語で、後のイタリア語、フランス語、スペイン語などの元になったのは何語でしょう?
①ギリシャ語
②ラテン語
③ヘブライ語
正解は『ラテン語』
ラテン語は、古代ローマ(ラティウム地方)で話されていた言語です。ローマ帝国の拡大とともにヨーロッパ各地に広がり、公用語として法律、行政、文学、学術などに広く用いられました。ローマ帝国の滅亡後も、カトリック教会の公用語や学術用語として長く使われ、ロマンス諸語と呼ばれる多くの現代ヨーロッパ言語の母体となりました。
1世紀頃、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナ地方で、イエスによって始められた宗教は何でしょう?
①ユダヤ教
②キリスト教
③イスラム教
正解は『キリスト教』
キリスト教は、1世紀にローマ帝国の属州であったパレスチナ地方で、イエスが始めた宗教です。イエスは「神の愛」と「隣人愛」を説き、ユダヤ教の律法主義を批判しましたが、ユダヤ教指導者やローマ総督によって十字架にかけられ処刑されました。しかし、弟子たちはイエスの復活を信じ、その教えを広めました。
キリスト教の教えがまとめられている聖典(せいてん)は何でしょう? 旧約と新約からなります。
①コーラン
②ヴェーダ
③聖書(せいしょ)
正解は『聖書(せいしょ)』
聖書は、キリスト教の最も重要な聖典です。ユダヤ教の聖典でもある「旧約聖書」と、イエスの生涯と言葉、弟子たちの活動などが記された「新約聖書」の二部から構成されています。キリスト教徒の信仰と生活の基盤となる書物です。
当初ローマ帝国から迫害されていたキリスト教を、313年に公認した皇帝は誰でしょう?
①ネロ
②コンスタンティヌス帝
③テオドシウス帝
正解は『コンスタンティヌス帝』
コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国の統一を回復した皇帝です。彼は、帝国内で信者を増やしていたキリスト教の力に着目し、313年にミラノ勅令(ちょくれい)を発布して、キリスト教を含むすべての宗教の信仰の自由を認めました(公認)。これは、キリスト教が後にローマ帝国の国教となる大きな転換点でした。
4世紀末、キリスト教をローマ帝国の国教とした皇帝は誰でしょう?
①コンスタンティヌス帝
②ユリアヌス帝
③テオドシウス帝
正解は『テオドシウス帝』
テオドシウス帝は、392年にキリスト教(アタナシウス派の正統派キリスト教)をローマ帝国の国教とし、他の宗教やキリスト教異端派の信仰を禁止しました。これにより、キリスト教はローマ帝国の精神的な支柱となり、その後のヨーロッパ世界の形成に決定的な影響を与えることになります。彼の死後、ローマ帝国は東西に分裂しました。
6世紀頃、アラビア半島で生まれ、アラー(アッラー)を唯一の神とし、ムハンマドを最後の預言者とする宗教は何でしょう?
①キリスト教
②仏教
③イスラム教
正解は『イスラム教』
イスラム教は、7世紀初めにアラビア半島のメッカで、預言者ムハンマドによって創始された一神教です。唯一神アラーへの絶対的な服従(イスラムとは「神への帰依」を意味する)を教えの中心とし、信者(ムスリム)は平等であると説きました。急速に勢力を拡大し、世界宗教の一つとなりました。
イスラム教の聖典で、神アラーがムハンマドを通して人々に伝えたとされる言葉が記されている書物は何でしょう?
①聖書
②コーラン(クルアーン)
③タ木ード
正解は『コーラン(クルアーン)』
コーラン(クルアーン)は、イスラム教の最も重要な聖典です。神(アラー)が天使ガブリエルを通じて預言者ムハンマドに下した啓示(けいじ)が、アラビア語で記されています。イスラム教徒の信仰、法律、生活様式の全ての基盤となるものです。
イスラム教の信者(ムスリム)が行うべきとされる基本的な五つの義務(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)を何というでしょう?
①シャリーア
②五行(ごぎょう)
③ジハード
正解は『五行(ごぎょう)』
五行は、すべてのイスラム教徒(ムスリム)に課せられた基本的な宗教的義務です。具体的には、①「アラーの他に神はなく、ムハンマドはアラーの使徒である」と唱える信仰告白(シャハーダ)、②1日5回メッカの方向に向かって行う礼拝(サラート)、③貧しい人々への喜捨(ザカート)、④ラマダーン月の日中に行う断食(サウム)、⑤一生に一度は行うべきメッカへの巡礼(ハッジ)の五つです。
紀元前5世紀頃にインドで、シャカ(釈迦)が開いた宗教は何でしょう? 生・老・病・死などの苦しみから解脱(げだつ)することを説きました。
①ヒンドゥー教
②ジャイナ教
③仏教
正解は『仏教』
仏教は、紀元前5世紀頃、北インド(現在のネパール付近)のシャカ族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタ(釈迦、ブッダ)が開いた宗教です。人生は苦しみに満ちている(四苦八苦)と考え、その原因である煩悩(ぼんのう)を断ち切り、修行によって悟りを開き、輪廻転生(りんねてんしょう)の苦しみから解放されること(解脱・涅槃)を目指す教えです。
仏教は、後に大きく二つの流れに分かれます。出家して厳しい修行を行う者だけでなく、在家(ざいけ)の信者も広く救済されることを目指す宗派を何というでしょう? 中国や日本に伝わったのは主にこちらです。
①上座部仏教(小乗仏教)
②大乗仏教(だいじょうぶっきょう)
③密教
正解は『大乗仏教(だいじょうぶっきょう)』
大乗仏教は、「大きな乗り物」という意味で、自分自身の悟りだけでなく、他のすべての人々(衆生:しゅじょう)をも救済しようとする菩薩(ぼさつ)信仰を重視します。多くの人々が救われる道を示したため、中央アジアを経由して中国、朝鮮半島、日本、ベトナムなどに広まりました。一方、上座部仏教は、出家者の厳しい修行による自己解脱を重視し、主に東南アジアに伝わりました。
日本列島で、人々が打製石器を使い、狩りや採集を行っていた時代(約1万年以上前)を何時代というでしょう?
①旧石器時代
②縄文時代
③弥生時代
正解は『旧石器時代』
日本列島の旧石器時代は、人々がまだ土器を持たず、石を打ち欠いて作った打製石器(ナイフ形石器や尖頭器など)を使って、マンモスやナウマンゾウなどの大型動物を狩ったり、植物を採集したりして生活していた時代です。群馬県の岩宿遺跡(いわじゅくいせき)の発見により、日本にも旧石器時代が存在したことが証明されました。
約1万3000年前から紀元前4世紀頃までの日本列島で、人々が磨製石器や土器を使い、狩り・漁・採集を中心とした生活を送っていた時代を何時代というでしょう? 表面に縄目の文様がある土器が特徴です。
①旧石器時代
②縄文時代
③弥生時代
正解は『縄文時代』
縄文時代は、気候が温暖化し、自然の恵みが豊かになった時代です。人々は弓矢を用いた狩り、貝塚に見られるような漁労、木の実(ドングリなど)の採集などで食料を得て、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)に住み、定住に近い生活を送るようになりました。表面に縄を転がして付けた文様のある「縄文土器」を使用していたことからこの名で呼ばれます。
縄文時代の人々が食べ物の残りかす(貝殻、動物の骨など)や壊れた土器などを捨てた場所を何というでしょう?当時の食生活を知る手がかりとなります。
①古墳
②貝塚(かいづか)
③住居跡
正解は『貝塚(かいづか)』
貝塚は、縄文時代の人々が食べた貝の殻などが長年にわたって積み重なってできた遺跡です。貝殻だけでなく、魚や動物の骨、土器片、石器、骨角器なども出土し、当時の人々の食生活や環境、生活様式などを知るための貴重な情報源となっています。東京都の大森貝塚などが有名です。
縄文時代に作られた、豊かな実りや出産などを祈るために作られたと考えられる、女性をかたどった土の人形を何というでしょう?
①埴輪(はにわ)
②銅鐸(どうたく)
③土偶(どぐう)
正解は『土偶(どぐう)』
土偶は、縄文時代に作られた、粘土を焼いて作った人(特に女性を表現したものが多い)や動物の像です。多くは意図的に壊された状態で見つかることから、病気やケガの身代わり、あるいは豊かな収穫や子孫繁栄などを祈るための祭祀(さいし)に使われたと考えられています。様々な形のものがあります。
紀元前4世紀頃から紀元後3世紀中頃までの日本列島で、大陸から伝わったある重要な作物の栽培が始まり、人々の生活が大きく変化した時代を何時代というでしょう?
①縄文時代
②弥生時代
③古墳時代
正解は『弥生時代』
弥生時代は、朝鮮半島を経由して大陸から水稲耕作(稲作)と金属器(青銅器・鉄器)が伝わり、日本列島に普及した時代です。稲作の開始により、人々は食料を計画的に生産・貯蔵できるようになり、定住生活が進み、人口が増加しました。東京都弥生町で特徴的な土器(弥生土器)が発見されたことからこの名で呼ばれます。
弥生時代に大陸から伝わった、米を作る農業を何というでしょう?
①畑作
②水稲耕作(稲作)
③焼畑農業
正解は『水稲耕作(稲作)』
水稲耕作(稲作)は、水田で米(稲)を栽培する農業です。弥生時代に伝来し、日本人の主食として、また社会や文化の基盤として、その後の日本の歴史に決定的な影響を与えました。稲作には多くの労働力と水の管理が必要なため、人々は協力して農作業を行い、ムラ(集落)を形成しました。
弥生時代に使われた、縄文土器に比べて薄手で硬く、シンプルなデザインが多い土器を何というでしょう?
①須恵器(すえき)
②弥生土器
③土師器(はじき)
正解は『弥生土器』
弥生土器は、弥生時代に使われた土器の総称です。縄文土器に比べると、高温で焼かれたため硬く、形は壺(貯蔵用)、甕(かめ:煮炊き用)、高坏(たかつき:盛り付け用)など、用途に応じた機能的なものが多くなります。装飾は比較的シンプルですが、地域や時期によって様々な特徴が見られます。
弥生時代に、稲作とともに大陸から伝わった金属器は何と何でしょう?(2つ選びましょう)
①鉄器とアルミ器
②青銅器と鉄器
③金器と銀器
正解は『青銅器と鉄器』
弥生時代には、青銅器と鉄器という二種類の金属器がほぼ同時に伝わりました。青銅器(銅と錫の合金)は、銅鐸(どうたく)や銅剣、銅矛(どうほこ)など、主に祭祀(お祭り)や権威の象徴として使われました。一方、鉄器は、硬くて実用的なため、農具(クワやスキの先)や工具、武器として急速に普及し、農業生産力の向上や社会の変化をもたらしました。
弥生時代に、主に祭祀(お祭り)に使われたと考えられる釣鐘(つりがね)型の青銅器を何というでしょう? 近畿地方を中心に発見されます。
①銅鏡(どうきょう)
②銅鐸(どうたく)
③銅銭(どうせん)
正解は『銅鐸(どうたく)』
銅鐸は、弥生時代を代表する青銅器の一つで、釣鐘のような形をしています。表面には流水文や鹿、鳥などの絵が描かれているものもあります。どのように使われたかは正確にはわかっていませんが、稲の豊作を祈る農耕儀礼(お祭り)などで、鳴らしたり、地面に埋めたりして使われたと考えられています。近畿地方を中心に多く出土します。
弥生時代後期、稲作の普及による食料の蓄積や土地・水をめぐる争いから、周りに濠(ほり)や土塁(どるい)をめぐらせた集落が現れます。このような集落を何というでしょう? 佐賀県の吉野ヶ里遺跡が有名です。
①城下町
②環濠集落(かんごうしゅうらく)
③寺内町
正解は『環濠集落(かんごうしゅうらく)』
環濠集落は、弥生時代に現れた、防御施設として周囲に深い濠(堀)や土塁(土手)を巡らせた集落です。稲作の発展に伴い、余剰生産物が生まれ、それをめぐる集団間の争い(戦争)が起こるようになったことを示しています。佐賀県の吉野ヶ里遺跡や大阪府の池上曽根遺跡などが大規模な環濠集落として知られています。
弥生時代になると、有力なムラが周辺のムラを従え、「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが各地に形成されます。中国の歴史書『漢書』地理志に、紀元前後に日本(倭)には100余りのクニがあったと記されていますが、この「倭」とはどこを指すと考えられるでしょう?
①北海道
②当時の日本列島(主に西日本)
③沖縄
正解は『当時の日本列島(主に西日本)』
古代中国の王朝(漢や魏)は、当時の日本列島に住む人々を「倭(わ)」または「倭人(わじん)」と呼んでいました。『漢書』地理志には、紀元前1世紀頃の倭には100以上の小国(クニ)があり、定期的に漢に使者を送ってくる国もあったと記されています。これは、弥生時代に日本列島(特に西日本)で多数の「クニ」が形成されていたことを示す重要な記録です。
福岡県の志賀島(しかのしま)で発見された金印には、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれています。これは、どの中国王朝の皇帝が、倭(日本)のどのクニの王に与えたものと考えられているでしょう?(中国王朝名を選んでください)
①後漢
②隋
③唐
正解は『後漢』
『後漢書』東夷伝によると、西暦57年に、倭の奴国(なこく)の王が後漢の都(洛陽)に使者を送り、皇帝(光武帝)から印綬(いんじゅ:印とその飾りひも)を授けられたとあります。福岡県の志賀島で江戸時代に発見された「漢委奴国王」の金印は、この記述に合致するものと考えられています。奴国は現在の福岡市周辺にあったとされるクニで、当時の日本と中国との交流を示す貴重な物証です。
3世紀の日本の様子を記した中国の歴史書『魏志』倭人伝(ぎし わじんでん)に登場する、邪馬台国(やまたいこく)を治めていた女王は誰でしょう?
①推古天皇
②卑弥呼(ひみこ)
③持統天皇
正解は『卑弥呼(ひみこ)』
『魏志』倭人伝は、3世紀前半の日本の様子を伝える最も重要な文献資料です。それによると、当時の倭国(日本)では多くのクニが争っていましたが、邪馬台国というクニの女王・卑弥呼が、鬼道(きどう:まじない)によって人々を従え、約30のクニを束ねていたとされています。卑弥呼は魏に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡などを授かりました。
邪馬台国の所在地については、近畿地方説と九州地方説があります。『魏志』倭人伝の記述だけでは、どちらにあったか確定できていますか?
①近畿地方で確定している
②九州地方で確定している
③まだ確定していない
正解は『まだ確定していない』
邪馬台国の所在地は、『魏志』倭人伝に記された方角や距離の解釈などをめぐって、畿内(近畿地方)説と北九州説が有力ですが、現在も論争が続いており、確定していません。どちらの説にも、それを支持する考古学的な発見や文献解釈がありますが、決定的な証拠は見つかっていません。日本古代史上の大きな謎の一つです。
3世紀後半から7世紀頃にかけて、日本の各地で、有力な豪族(ごうぞく)の墓として大きな墳丘を持つ墓が盛んに造られました。この時代を何時代というでしょう?
①弥生時代
②古墳時代
③飛鳥時代
正解は『古墳時代』
古墳時代は、日本の各地、特に近畿地方を中心に、巨大な盛り土をした墓である「古墳」が数多く造られた時代です。古墳の形(前方後円墳、円墳、方墳など)や大きさ、副葬品(ふくそうひん:一緒に埋葬された品々)は、葬られた人物(豪族や王)の権力の大きさを示しています。この時代に、後の「ヤマト政権」につながる強力な政治勢力が形成されていきました。
古墳時代の古墳で、日本独特の形をしており、前が方形(四角)、後ろが円形(丸)になっているものを何墳というでしょう? 大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)が最大規模です。
①円墳
②方墳
③前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
正解は『前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)』
前方後円墳は、古墳時代の日本を代表する古墳の形式です。鍵穴のような形をしており、円形の部分に棺が納められました。その大きさや規格性から、これらを築造できたのはヤマト政権(大和朝廷)と強いつながりを持つ有力な首長(王や豪族)であったと考えられます。大阪府堺市にある大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵)は世界最大級の墳墓です。
古墳の墳丘の上や周りに並べられた、人や動物、家などをかたどった素焼きの土製品を何というでしょう?
①土偶
②埴輪(はにわ)
③土師器
正解は『埴輪(はにわ)』
埴輪は、古墳時代の古墳の墳丘斜面や頂上、周囲などに立て並べられた素焼きの土製品です。初期には単純な円筒形(円筒埴輪)でしたが、次第に家、器財(盾、きぬがさなど)、動物(馬、鳥など)、人物(武人、巫女、農夫など)をかたどった形象埴輪(けいしょうはにわ)が作られるようになりました。古墳の飾りや、葬送儀礼に使われたと考えられています。
古墳時代、近畿地方の有力な豪族たちが連合して作ったと考えられる政治的な勢力を何というでしょう? 後に朝廷へと発展していきます。
①鎌倉幕府
②ヤマト政権(大和朝廷)
③室町幕府
正解は『ヤマト政権(大和朝廷)』
ヤマト政権(大和朝廷)は、3世紀後半から4世紀頃に、近畿地方(大和地方、現在の奈良県)の有力豪族たちが連合して形成したと考えられる政治権力です。大王(おおきみ、後の天皇)を中心に、巨大な前方後円墳を築造し、次第に西日本から東日本へと勢力を広げていきました。日本の古代国家の基礎となった政権です。
古墳時代に、朝鮮半島や中国大陸から日本に移り住み、進んだ技術や文化(漢字、儒教、仏教、土木技術、金属加工など)を伝えた人々を何というでしょう?
①遣唐使
②渡来人(とらいじん)
③南蛮人
正解は『渡来人(とらいじん)』
渡来人は、主に4世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸から日本列島に移住してきた人々を指します。彼らは、漢字や儒教、仏教といった思想・宗教、須恵器(すえき)と呼ばれる硬質の土器の製造技術、金属加工、機織り(はたおり)、土木技術など、当時の先進的な知識や技術を日本にもたらし、ヤマト政権の発展と文化の向上に大きく貢献しました。
渡来人が伝えた技術で作られた、古墳時代の後半から使われ始めた、高温で焼かれた硬く灰色の土器を何というでしょう?
①縄文土器
②弥生土器
③須恵器(すえき)
正解は『須恵器(すえき)』
須恵器は、5世紀頃に朝鮮半島から伝わった新しい技術(登り窯と轆轤(ろくろ)の使用)によって作られた土器です。約1100度以上の高温で焼かれるため、硬質で吸水性が少なく、弥生土器や土師器(はじき:弥生土器の系譜を引く赤褐色の土器)とは異なり灰色をしています。主に祭祀用や貯蔵用、食器として用いられ、貴族や豪族層を中心に普及しました。
5世紀後半、ヤマト政権の大王(おおきみ)で、熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳出土の鉄刀銘や埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳出土の鉄剣銘にその名が見られ、九州から関東地方まで支配が及んでいたことを示すとされる人物は誰でしょう?
①雄略天皇(ワカタケル大王)
②聖徳太子
③天武天皇
正解は『雄略天皇(ワカタケル大王)』
ワカタケル大王(『日本書紀』などでは雄略天皇とされる)は、5世紀後半に在位したとされるヤマト政権の大王です。熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀と埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣には、「獲加多支鹵大王(ワカタケル(の)オオキミ)」という名が刻まれており、この大王の権力が九州から関東地方という広範囲に及んでいたことを示す物証として非常に重要です。
6世紀末から7世紀前半にかけて、推古天皇(初の女性天皇)の摂政(せっしょう)として政治を行い、冠位十二階や十七条の憲法を定め、遣隋使を派遣するなど、天皇中心の中央集権国家を目指した人物は誰でしょう?
①蘇我馬子(そがのうまこ)
②聖徳太子(厩戸皇子)
③中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
正解は『聖徳太子(厩戸皇子)』
聖徳太子(厩戸皇子)は、推古天皇の甥であり摂政として、蘇我馬子と協力しながら政治改革を進めました。家柄にとらわれず能力のある人物を役人に登用する「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」、役人の心構えを示した「十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)」を制定し、また、進んだ中国(隋)の制度や文化を学ぶために小野妹子(おののいもこ)らを遣隋使(けんずいし)として派遣するなど、天皇を中心とする中央集権的な国家体制の確立を目指しました。
聖徳太子が定めた、家柄にとらわれず、個人の才能や功績に応じて役人に位(くらい)を与え、色で区別された冠を授ける制度を何というでしょう?
①十七条の憲法
②大宝律令
③冠位十二階
正解は『冠位十二階』
冠位十二階(603年制定)は、従来の氏姓制度(しせいせいど:家柄によって地位が決まる)を改め、個人の能力や功績に応じて人材を登用することを目的とした制度です。役人の序列を徳・仁・礼・信・義・智の六つに分け、それぞれ大小の計十二階とし、位に応じた色の冠を定めました。天皇への忠誠心を高め、官僚制度の基礎を築こうとしたものです。
聖徳太子が定めたとされる、役人たちに対して、天皇への服従や、和を尊ぶこと、仏教を敬うことなど、政治を行う上での心構えを示したものを何というでしょう?
①冠位十二階
②十七条の憲法
③班田収授法
正解は『十七条の憲法』
十七条の憲法(604年制定)は、法律そのものではなく、天皇を中心とした国家運営を目指す上で、役人が守るべき道徳的な規範や心構えを示したものです。第一条の「和(わ)をもって貴(とうと)しとなし」は特に有名で、豪族間の争いをなくし協力し合うことの重要性を説いています。また、仏教(三宝:仏・法・僧)を篤く敬うことなども記されています。
聖徳太子が、進んだ中国(隋)の政治制度や文化を学ぶために派遣した使節を何というでしょう? 小野妹子などが派遣されました。
①遣唐使
②遣隋使
③勘合貿易
正解は『遣隋使』
遣隋使は、600年から618年(隋の滅亡)まで、倭国(日本)から隋(中国)へ派遣された公式な使節団です。聖徳太子は、隋の進んだ律令制度や仏教文化などを直接学ぶために、小野妹子らを派遣しました。特に607年の派遣では、日本の天皇が隋の皇帝(煬帝)に対等な立場で国書を送った(「日出ずる処の天子…」)とされ、日本の国際的な地位を高めようとした意図がうかがえます。
聖徳太子によって建立されたと伝えられ、現存する世界最古の木造建築物群があることで有名な、奈良県にある寺院は何でしょう?
①東大寺
②法隆寺
③薬師寺
正解は『法隆寺』
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)にある寺院で、聖徳太子ゆかりの寺として知られています。金堂(こんどう)、五重塔(ごじゅうのとう)などがある西院伽藍(さいいんがらん)は、現存する世界最古の木造建築物群として、1993年に日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されました。飛鳥時代の仏教文化を代表する寺院です。
聖徳太子が活躍した時代(6世紀末~7世紀前半)を中心とする、日本で最初の本格的な仏教文化が花開いた文化を何文化というでしょう? 法隆寺がその代表です。
①白鳳文化
②天平文化
③飛鳥文化
正解は『飛鳥文化』
飛鳥文化は、都が置かれた飛鳥地方(現在の奈良県明日香村周辺)を中心に、推古天皇の時代(6世紀末~7世紀前半)に栄えた、日本で最初の仏教文化です。聖徳太子や蘇我氏によって仏教が保護・奨励され、法隆寺などの寺院が建立されました。仏像彫刻(例:法隆寺金堂釈迦三尊像、中宮寺半跏思惟像)にも優れた作品が多く、中国の南北朝や隋、朝鮮半島の文化の影響を受けています。
645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが中心となって、豪族の蘇我蝦夷・入鹿親子を倒し、政治改革を始めた出来事を何というでしょう?
①壬申の乱
②大化の改新
③承久の乱
正解は『大化の改新』
大化の改新(たいかのかいしん)は、645年に起きた乙巳の変(いっしのへん:蘇我氏打倒クーデター)から始まる一連の政治改革を指します。中大兄皇子や中臣鎌足らは、蘇我氏の専横(せんおう:権力をほしいままにすること)を排除し、天皇を中心とする中央集権的な国家(律令国家)を目指しました。その第一歩として、新しい元号「大化」を定め、改革の基本方針(改新の詔:かいしんのみことのり)を示しました。
大化の改新の基本方針として示された、それまで豪族が私有していた土地と人民を国家(天皇)のものとする原則を何というでしょう?
①班田収授法
②公地公民(こうちこうみん)
③租庸調
正解は『公地公民(こうちこうみん)』
公地公民は、大化の改新で示された律令国家建設の基本原則の一つです。全国の土地(公地)と人民(公民)は、すべて天皇(国家)に属するものとし、豪族による私的な支配を否定しました。これにより、天皇が直接人民を支配し、税を徴収する体制の基礎が作られました。ただし、この原則がすぐに完全に実現したわけではありません。
663年、倭(日本)が、滅ぼされた百済(くだら)を復興させるために大軍を朝鮮半島に送ったものの、唐・新羅(しらぎ)の連合軍に大敗した戦いを何というでしょう? この敗戦は日本の国防意識を高めました。
①元寇(蒙古襲来)
②白村江の戦い(はくすきえ/はくそんこうのたたかい)
③壬申の乱
正解は『白村江の戦い(はくすきえ/はくそんこうのたたかい)』
白村江の戦いは、朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた海戦です。倭(中大兄皇子の政権)は、友好国であった百済の復興を支援するため大軍を送りましたが、当時アジア最強の唐と、朝鮮半島統一を目指す新羅の連合水軍に壊滅的な敗北を喫しました。この敗戦により、日本は唐・新羅の侵攻を恐れ、九州に水城(みずき)や防人(さきもり)を置くなど、国防体制の強化を進めることになりました。
天智天皇(中大兄皇子)の死後、672年に起こった、天皇の位をめぐる大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)と大友皇子(おおとものおうじ)との間の内乱を何というでしょう?
①承久の乱
②応仁の乱
③壬申の乱(じんしんのらん)
正解は『壬申の乱(じんしんのらん)』
壬申の乱は、天智天皇の後継者の座をめぐり、天智天皇の弟である大海人皇子と、天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)との間で起こった古代最大の内乱です。東国を拠点とした大海人皇子が勝利し、翌年、天武天皇として即位しました。この乱の結果、天皇の権力が強化され、律令国家の建設が強力に推し進められることになりました。
天武天皇・持統天皇(天武天皇の皇后)の時代に建設が進められ、694年に持統天皇によって都が移された、碁盤の目状の条坊制(じょうぼうせい)を持つ本格的な都城(とじょう)は何でしょう?
①平城京
②藤原京
③平安京
正解は『藤原京』
藤原京(ふじわらきょう)は、現在の奈良県橿原市(かしはらし)にあった、日本で最初の本格的な条坊制(中国の都城にならった碁盤目状の都市計画)を持つ都です。天武天皇が計画し、その皇后であった持統天皇の時代に完成・遷都されました。大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)に囲まれた地にあり、約16年間、日本の政治・文化の中心となりました。
701年に制定された、刑法にあたる「律(りつ)」と、行政法や民法にあたる「令(りょう)」からなる、日本の古代国家の基本となった法律体系を何というでしょう?
①十七条の憲法
②御成敗式目
③大宝律令(たいほうりつりょう)
正解は『大宝律令(たいほうりつりょう)』
大宝律令は、刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)らが中心となって編纂(へんさん)し、701年(大宝元年)に完成・施行された、日本で初めて律と令がそろった本格的な法典です。唐(中国)の律令をモデルとしながら、日本の実情に合わせて作られました。これにより、天皇を頂点とする中央集権的な官僚制国家(律令国家)の仕組みが法的に確立されました。
律令制度のもとで、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)と呼ばれる土地を与え、その人が死ねば国に返すという土地制度を何というでしょう?
①荘園公領制
②地租改正
③班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)
正解は『班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)』
班田収授法は、律令制度の根幹をなす土地制度であり、税制の基礎でもありました。戸籍(こせき)に基づいて6年に一度、6歳以上の男女(良民)に一定の面積の口分田を与え、その人が死亡すると国に返させるというものです(班給と収授)。これにより、国家が人民を直接把握し、土地を支配することを目指しました。しかし、人口増加や逃亡などで、次第に実施が困難になっていきます。
律令制度のもとで、人々に課せられた税の種類で、収穫した稲(米)を納めるものを何というでしょう?
①租(そ)
②庸(よう)
③調(ちょう)
正解は『租(そ)』
租・庸・調(そ・よう・ちょう)は、律令制度における主要な税(税役)です。 * 租(そ): 口分田の収穫量の約3%にあたる稲(米)を国に納める税(田租)。 * 庸(よう): 成人男性が都での労役(労働)に服する代わりに、布などを納める税。 * 調(ちょう): 各地の特産物(絹、布、塩、海産物など)を国に納める税。 この他に、労役(雑徭:ぞうよう)や兵役(軍団・防人)の義務もあり、公民(農民)の負担は非常に重いものでした。
律令制度のもとで、九州北部の沿岸警備のために置かれた兵士のことを何というでしょう? 主に東国から徴兵され、任期は3年でした。
①衛士(えじ)
②防人(さきもり)
③武士
正解は『防人(さきもり)』
防人は、白村江の戦いでの敗北後、唐・新羅の侵攻に備えて、九州北部(対馬、壱岐、筑紫など)の防衛のために設置された兵士です。主に東国(関東地方など)の農民から徴兵され、家族と離れて遠い任地で3年間の任務に就きました。彼らの苦労や望郷の念を詠んだ歌が『万葉集』に「防人の歌」として残されています。
710年、元明天皇(げんめいてんのう)によって、藤原京から移された新しい都の名前は何でしょう? 唐の都、長安にならって計画的に造られました。
①平安京
②平城京(へいじょうきょう)
③難波京(なにわきょう)
正解は『平城京(へいじょうきょう)』
平城京は、710年に元明天皇によって奈良盆地の北部に遷都された都です。唐の長安をモデルとした碁盤目状の条坊制が採用され、中央には朱雀大路(すざくおおじ)が南北に通り、北端に平城宮(へいじょうきゅう:天皇の住まいや役所)が置かれました。以後、784年に長岡京に遷都されるまでの約70年間(途中、恭仁京や難波京への一時的な遷都あり)を奈良時代といいます。
平城京が都であった時代(710年~784年)を何時代というでしょう?
①飛鳥時代
②奈良時代
③平安時代
正解は『奈良時代』
奈良時代は、日本の都が平城京(現在の奈良市)に置かれていた710年から784年までの時代を指します。律令制度が本格的に運用され、遣唐使を通じて唐の文化が盛んに取り入れられ、仏教が国家の保護を受けて隆盛した時代です。この時代の文化を天平文化といいます。
奈良時代に編纂された、日本の国の成り立ちや神話、天皇の系譜などが記された、現存する最古の歴史書は何でしょう?
①日本書紀
②古事記(こじき)
③風土記(ふどき)
正解は『古事記(こじき)』
古事記は、712年に太安万侶(おおのやすまろ)が、天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう:暗唱)していた内容を筆録して完成した、日本最古の歴史書です。天地開闢(てんちかいびゃく)の神話から始まり、神々の物語、歴代天皇(初代神武天皇~推古天皇)の系譜や伝説などが、和風の漢文体で記されています。天皇支配の正統性を示す目的があったと考えられています。
古事記とほぼ同時期に編纂された、神話から持統天皇までの歴史を、漢文(中国の正式な文章)で、より詳しく年代順に記した歴史書は何でしょう? 六国史(りっこくし)の最初の一つです。
①古事記
②万葉集
③日本書紀(にほんしょき)
正解は『日本書紀(にほんしょき)』
日本書紀は、720年に舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって完成させた、日本最初の正史(国家が編纂した正式な歴史書)です。神代(かみよ)から持統天皇までの出来事を、中国の史書にならって編年体(年代順)で、純粋な漢文で記述しています。古事記とともに、古代日本の歴史や神話を知る上で基本となる文献ですが、記述内容には違いも見られます。
奈良時代に、天皇の命令によって各地の国ごとに、その土地の自然、産物、地名の由来、伝説などを記録して提出させた報告書を何というでしょう? 現在、一部が残っています。
①律令
②風土記(ふどき)
③延喜式
正解は『風土記(ふどき)』
風土記は、713年に元明天皇の詔(みことのり)により、全国の国々に対して編纂・提出が命じられた地誌(ちし:地方の地理や歴史などを記した書物)です。各国の郡郷(ぐんごう)の名(好字を用いる)、産物、土地の肥沃度、地名の由来、古老の伝承などを記録することが求められました。現在、出雲(いずも:島根県)、常陸(ひたち:茨城県)、播磨(はりま:兵庫県)、豊後(ぶんご:大分県)、肥前(ひぜん:佐賀・長崎県)の5つの国の風土記が、完全または一部の形で残っており、当時の地方の様子を知る貴重な資料です。
奈良時代に編纂された、天皇や貴族から、役人、兵士(防人)、農民まで、様々な身分の人々の歌約4500首を集めた、日本最古の和歌集は何でしょう?
①古今和歌集
②万葉集(まんようしゅう)
③新古今和歌集
正解は『万葉集(まんようしゅう)』
万葉集は、7世紀後半から8世紀後半(奈良時代末期)にかけて編纂されたとされる、日本に現存する最古の和歌集です。天皇、皇族、貴族、官人、僧侶、さらには防人や東国の農民など、幅広い階層の人々が詠んだ歌が約4500首収められています。雄大で素朴な歌風(ますらおぶり)が特徴とされ、当時の人々の生活や感情、社会の様子などを生き生きと伝えています。漢字の音や訓を借りて日本語を表記する「万葉仮名」が使われています。
奈良時代の聖武天皇(しょうむてんのう)が、仏教の力によって国家の安定と平和(鎮護国家:ちんごこっか)を願って、全国各地に建立を命じた寺院を何というでしょう?
①国分寺・国分尼寺(こくぶんじ・こくぶんにじ)
②別所(べっしょ)
③菩提寺(ぼだいじ)
正解は『国分寺・国分尼寺(こくぶんじ・こくぶんにじ)』
聖武天皇は、相次ぐ飢饉(ききん)、疫病(えきびょう:天然痘の流行など)、反乱(藤原広嗣の乱)など社会不安が続く中で、仏教の力によって国を護り、安定させようと考えました(鎮護国家思想)。その一環として、741年に全国(各国)に国分僧寺(こくぶんそうじ:男性僧侶の寺)と国分尼寺(こくぶんにじ:女性僧侶の寺)を建立する詔を出しました。総国分寺として東大寺、総国分尼寺として法華寺(ほっけじ)が位置づけられました。
聖武天皇の発願により、平城京に建立された、巨大な盧舎那仏(るしゃなぶつ、大仏)で有名な寺院は何でしょう? 総国分寺とされました。
①法隆寺
②薬師寺
③東大寺(とうだいじ)
正解は『東大寺(とうだいじ)』
東大寺は、奈良時代に聖武天皇が国家の安泰と万民の幸福を願って建立した寺院で、華厳宗(けごんしゅう)の大本山です。特に有名なのは、高さ約15メートルの巨大な盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)、通称「奈良の大仏」です。752年には盛大な開眼供養会(かいげんくようえ:大仏に魂を入れる儀式)が行われました。東大寺は総国分寺と位置づけられ、奈良時代の仏教文化(天平文化)の中心的存在でした。
奈良時代(特に聖武天皇の頃)の文化で、遣唐使によってもたらされた唐の国際色豊かな文化の影響を強く受け、仏教美術が栄えた文化を何文化というでしょう? 東大寺正倉院の宝物などが代表的です。
①飛鳥文化
②白鳳文化
③天平文化(てんぴょうぶんか)
正解は『天平文化(てんぴょうぶんか)』
天平文化は、奈良時代の最盛期、特に聖武天皇の治世(在位724-749、年号が天平)を中心とする文化です。遣唐使がもたらした盛唐(唐の最盛期)の国際色豊かな文化の影響を強く受けており、雄大で写実的な仏像(例:東大寺法華堂の諸仏像、興福寺阿修羅像)、壮大な寺院建築(例:東大寺、唐招提寺)、正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)に見られるような工芸品などが特徴です。仏教が国家の保護のもとで隆盛した時代の文化です。
唐から来日した高僧で、多くの困難を乗り越えて6度目の航海でようやく日本に到着し、仏教の戒律(かいりつ:僧侶が守るべき規則)を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を建立したのは誰でしょう?
①鑑真(がんじん)
②玄奘(げんじょう)
③空海(くうかい)
正解は『鑑真(がんじん)』
鑑真は、唐の高僧で、聖武天皇の時代の日本からの熱心な要請を受け、日本へ仏教の正式な戒律を伝えることを決意しました。しかし、渡航は嵐や弟子の密告、唐政府の妨害などで困難を極め、5度の失敗と失明という苦難の末、6度目にして753年にようやく日本の土を踏むことができました。来日後は、東大寺に戒壇(かいだん:正式な僧侶となるための儀式を行う場所)を設け、聖武上皇や多くの僧侶に授戒(じゅかい)し、後に唐招提寺を開いて日本における律宗(りっしゅう)の基礎を築きました。
794年、桓武天皇(かんむてんのう)が、政治を立て直し、仏教勢力の影響を避ける目的などで、平城京から移した新しい都は何でしょう? この都はその後、千年以上日本の中心となりました。
①長岡京(ながおかきょう)
②平安京(へいあんきょう)
③鎌倉(かまくら)
正解は『平安京(へいあんきょう)』
平安京は、794年に桓武天皇によって、現在の京都市に建設された都です。長岡京からの再遷都であり、奈良の仏教寺院の政治的影響力から離れることや、新しい政治を行う意志を示すことなどが目的でした。唐の長安をモデルとした碁盤目状の都市計画を持ち、明治維新まで日本の都(天皇の所在地)であり続けました。この遷都から鎌倉幕府成立までの約400年間を平安時代といいます。
平安京が都となった時代(794年~1185年頃)を何時代というでしょう?
①奈良時代
②平安時代
③鎌倉時代
正解は『平安時代』
平安時代は、794年の平安京遷都から、一般的に鎌倉幕府が成立する1185年(または1192年)までの約400年間を指します。前期は律令政治の再建が試みられ、中期には藤原氏による摂関政治と国風文化が栄え、後期には武士が台頭し院政や平氏政権へと移行するなど、大きな変化があった時代です。
平安時代初期、桓武天皇が東北地方で勢力を広げていた蝦夷(えみし)を制圧するために派遣した将軍の官職名を何というでしょう? 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が有名です。
①征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)
②関白(かんぱく)
③執権(しっけん)
正解は『征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)』
征夷大将軍は、もともと東北地方の蝦夷(朝廷に従わない人々)を征討するために臨時に任命された将軍の役職でした。桓武天皇の時代に坂上田村麻呂が任命され、蝦夷の拠点であった胆沢城(いさわじょう)などを攻略し、朝廷の支配領域を北へ広げました。後に、この役職は武士の最高権力者(鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の長)の称号として使われるようになります。
平安時代初期、唐に渡って新しい仏教(密教:みっきょう)を学び、帰国後、比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を開いて天台宗(てんだいしゅう)を広めた僧侶は誰でしょう?
①空海(くうかい)
②最澄(さいちょう)
③鑑真(がんじん)
正解は『最澄(さいちょう)』
最澄は、平安時代初期の僧侶で、桓武天皇の支援を受けて遣唐使と共に唐に渡りました。天台山などで仏教を学び、特に法華経(ほけきょう)を中心とする天台宗と、密教などを日本に伝えました。帰国後、京都と滋賀の境にある比叡山に延暦寺を建立し、天台宗を開きました。延暦寺は、後に多くの高僧を輩出する日本仏教の中心地の一つとなります。
最澄と同じ時期に唐に渡り、密教を深く学び、帰国後、高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いて真言宗(しんごんしゅう)を広めた僧侶は誰でしょう? 書道の名人(三筆の一人)としても知られます。
①最澄
②鑑真
③空海(くうかい、弘法大師:こうぼうだいし)
正解は『空海(くうかい、弘法大師:こうぼうだいし)』
空海(死後に弘法大師の称号を贈られる)は、最澄と同じく遣唐使として唐に渡り、長安で密教の奥義を学びました。帰国後、和歌山県の高野山に金剛峯寺を建立し、真言宗を開きました。また、京都に東寺(教王護国寺)を与えられ、真言宗の拠点としました。密教は、加持祈祷(かじきとう)などを通じて現世での利益(げんぜりやく)も重視したため、貴族社会に広く受け入れられました。空海は書道にも優れ、「三筆」の一人に数えられます。
平安時代中期、天皇が幼いときや女性である場合に、天皇に代わって政治を行う役職を何というでしょう? 藤原氏がこの地位を独占しました。
①関白(かんぱく)
②摂政(せっしょう)
③太政大臣(だいじょうだいじん)
正解は『摂政(せっしょう)』
摂政は、天皇が幼少であったり、病気であったり、あるいは女性(女帝)である場合に、天皇に代わって政治の実権を握る役職です。平安時代中期には、藤原氏が娘を天皇の后(きさき)とし、その子が天皇になると外戚(がいせき:母方の親戚)として摂政の地位につき、政治権力を握るようになりました。
天皇が成人した後も、天皇を補佐するという名目で政治の実権を握る役職を何というでしょう? これも藤原氏が独占しました。
①摂政
②太政大臣
③関白(かんぱく)
正解は『関白(かんぱく)』
関白は、成人した天皇の後見人として、天皇を補佐し、政務を執り行う役職です。事実上、政治の最高責任者でした。藤原氏は、摂政と関白の地位を独占することで、約1世紀にわたって政治の実権を握りました。この政治形態を摂関政治といいます。
平安時代中期、藤原氏が摂政・関白の地位を独占して行った政治を何というでしょう?
①院政
②摂関政治(せっかんせいじ)
③武家政治
正解は『摂関政治(せっかんせいじ)』
摂関政治は、平安時代の10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原北家(ふじわらほっけ)が摂政と関白の地位を独占し、天皇に代わって、あるいは天皇を補佐する形で政治の実権を握った政治体制です。藤原氏は、娘を次々と天皇の后とし、生まれた皇子を天皇に立てることで外戚としての地位を確保し、権力を維持しました。
摂関政治の最盛期を築き、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも なしと思へば」という歌を詠んだとされる藤原氏の人物は誰でしょう?
①藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
②藤原道長(ふじわらのみちなが)
③藤原頼通(ふじわらによりみち)
正解は『藤原道長(ふじわらのみちなが)』
藤原道長は、11世紀初頭に摂関政治の頂点を極めた人物です。彼は自分の娘たちを次々と天皇(一条、三条、後一条、後朱雀)の后とし、一条天皇から後一条、後朱雀、後冷泉天皇までの4代の天皇の外戚(祖父または叔父)となり、絶大な権力を振るいました。有名な「望月の歌」は、彼の栄華の絶頂ぶりを示すものとして伝えられています。
藤原道長の子で、父の築いた摂関政治を受け継ぎ、宇治(うじ)に平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)を建立した人物は誰でしょう?
①藤原伊周(ふじわらのこれちか)
②藤原公任(ふじわらのきんとう)
③藤原頼通(ふじわらによりみち)
正解は『藤原頼通(ふじわらによりみち)』
藤原頼通は、父・道長の後を継いで、約50年間にわたり関白を務めました。しかし、彼の娘には皇子が生まれず、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位したことで、摂関政治は次第に衰退に向かいます。頼通は、晩年に宇治の別荘を寺院とし、極楽浄土を再現したとされる壮麗な平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)を建立しました。
平安時代中期(9世紀末~12世紀頃)、遣唐使の停止などを背景に、日本の風土や生活、感情に合った独自の文化が生まれたことを何文化というでしょう?
①天平文化
②国風文化(こくふうぶんか)
③桃山文化
正解は『国風文化(こくふうぶんか)』
国風文化は、平安時代中期、特に10世紀から11世紀にかけて栄えた日本独自の文化です。894年の遣唐使停止により、中国文化の影響が薄れ、それまでの文化を消化・吸収する中で、日本の気候風土や日本人の繊細な感性に合った、優雅で洗練された貴族文化が発展しました。仮名文字の発達、和歌や物語文学の隆盛、大和絵、寝殿造(しんでんづくり)の建築などが特徴です。
国風文化の時代に、漢字をもとにして作られた日本独自の文字を何というでしょう?(平仮名と片仮名の総称)
①万葉仮名
②仮名文字(かなもじ)
③ローマ字
正解は『仮名文字(かなもじ)』
仮名文字は、国風文化期に、日本語の音を表記するために漢字を簡略化して作られた文字です。漢字の草書体から生まれたのが平仮名(ひらがな)で、主に女性や私的な場面で使われました。漢字の一部(偏やつくり)から作られたのが片仮名(カタカナ)で、主に漢文訓読の補助符号や学問の場で使われました。仮名文字の発達は、和歌や物語文学の発展に大きく貢献しました。
平安時代の女性作家、紫式部(むらさきしきぶ)によって書かれた、光源氏(ひかるげんじ)を主人公とする長編の物語文学作品は何でしょう? 国風文化を代表する傑作です。
①枕草子(まくらのそうし)
②源氏物語(げんじものがたり)
③竹取物語(たけとりものがたり)
正解は『源氏物語(げんじものがたり)』
源氏物語は、11世紀初頭に宮中に仕えた女房(にょうぼう、女官)である紫式部によって書かれた、世界最古級の長編小説です。主人公・光源氏の生涯を中心に、平安貴族の恋愛、政治、苦悩などを優雅な筆致で描いており、登場人物の心理描写にも優れています。仮名文字で書かれ、国風文化の頂点を示す文学作品として、後世の文学や芸術に多大な影響を与えました。
平安時代の女性作家、清少納言(せいしょうなごん)によって書かれた、宮中での体験や自然、人事などについての鋭い観察を記した随筆(ずいひつ)作品は何でしょう? 「春はあけぼの…」の書き出しで有名です。
①源氏物語
②土佐日記(とさにっき)
③枕草子(まくらのそうし)
正解は『枕草子(まくらのそうし)』
枕草子は、一条天皇の中宮(ちゅうぐう、皇后)定子(ていし)に仕えた女房である清少納言によって書かれた随筆です。「ものはづくし」(例:虫は、鳥は、など)、「日記的章段」、「随想的章段」など様々な形式で、宮廷生活の出来事や四季の自然、作者の感想などが、機知に富んだ観察眼と簡潔でみずみずしい文章(をかしの文学)で綴られています。『源氏物語』と並び、平安女流文学の双璧とされる作品です。
平安時代の男性貴族、紀貫之(きのつらゆき)が、女性に仮託して、土佐守(とさのかみ)の任を終えて京へ帰る旅の様子を仮名文字で書いた日記文学作品は何でしょう?
①更級日記(さらしなにっき)
②蜻蛉日記(かげろうにっき)
③土佐日記(とさにっき)
正解は『土佐日記(とさにっき)』
土佐日記は、935年頃に成立した、日本初とされる仮名文字による本格的な日記文学です。作者は『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)でもある紀貫之ですが、あえて女性の筆者のふりをして(「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」)、土佐国(現在の高知県)での任期を終えて船で京へ帰る55日間の旅の出来事や心情を、和歌を交えながら生き生きと描いています。仮名文字による表現の可能性を広げた点で重要です。
平安時代中期以降、末法思想(まっぽうしそう)の広まりとともに貴族たちの間で広まった、阿弥陀仏(あみだぶつ)にすがり、死後に極楽浄土(ごくらくじょうど)へ往生(おうじょう)することを願う信仰を何というでしょう?
①禅宗(ぜんしゅう)
②浄土信仰(じょうどしんこう)
③密教(みっきょう)
正解は『浄土信仰(じょうどしんこう)』
浄土信仰は、阿弥陀如来(あみだにょらい)を信じ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱えれば、死後、阿弥陀仏がいるとされる西方極楽浄土に生まれ変わることができるという信仰です。平安時代中期以降、釈迦の死後2000年を過ぎると正しい仏法が衰え世が乱れるとする末法思想が広まると、現世での救済よりも来世での極楽往生を願う人々が増え、特に貴族の間で盛んになりました。平等院鳳凰堂もこの信仰に基づいて建てられました。
平安時代の貴族の住宅様式で、中央の寝殿(しんでん)を中心に、左右に対屋(たいのや)を配置し、それらを渡殿(わたどの)で結び、南側に庭園と池を設けたものを何というでしょう?
①書院造(しょいんづくり)
②数寄屋造(すきやづくり)
③寝殿造(しんでんづくり)
正解は『寝殿造(しんでんづくり)』
寝殿造は、平安時代の貴族の邸宅(ていたく)の代表的な建築様式です。中心となる建物(寝殿)が南向きに建てられ、その前に広い庭園が広がり、池が設けられるのが一般的です。寝殿の東西には対屋(たいのや)と呼ばれる付属の建物があり、これらは透渡殿(すきわたどの)や渡殿(わたどの)という廊下で結ばれていました。自然との調和を重視した開放的な構造が特徴です。平等院鳳凰堂も寝殿造の影響を受けています。
平安時代に発達した、日本の風景や風俗、物語などを題材とした絵画の様式を何というでしょう? 唐絵(からえ、中国風の絵画)に対して使われた言葉です。
①水墨画(すいぼくが)
②大和絵(やまとえ)
③浮世絵(うきよえ)
正解は『大和絵(やまとえ)』
大和絵は、平安時代に、日本の自然や風俗、物語などを主題として描かれるようになった日本独自の絵画様式です。中国(唐)の様式の影響を受けた「唐絵」に対して、「大和(日本のこと)の絵」と呼ばれました。鮮やかな色彩と、柔らかく繊細な描線が特徴で、屏風(びょうぶ)絵や襖(ふすま)絵、絵巻物(えまきもの)などに多く描かれました。『源氏物語絵巻』などが代表的な例です。
平安時代中期以降、地方で力をつけ、武装して自分たちの土地(荘園など)を守ったり、貴族に仕えたりするようになった人々を何というでしょう?
①公家(くげ)
②武士(ぶし、もののふ)
③僧兵(そうへい)
正解は『武士(ぶし、もののふ)』
武士は、もともと地方の豪族や、都から地方に下った貴族の子孫などで、弓馬(弓矢と馬術)などの武芸に秀でた人々でした。平安中期以降、律令制の崩壊に伴い地方の治安が悪化すると、彼らは自衛のために武装し、やがて「武士団」と呼ばれる集団を形成するようになります。彼らは、自分の土地(荘園など)を守るだけでなく、国司(こくし)や都の貴族に仕えて警備などを行うようになり、次第に政治的な力を持つようになりました。
武士の中でも、特に桓武天皇の子孫とされる平氏(へいし)と、清和天皇の子孫とされる源氏(げんじ)が、大きな武士団として成長しました。この二つの氏族を合わせて何と呼ぶことが多いでしょう?
①藤原氏
②平源二氏(へいげん(の)にし)
③南北朝
正解は『平源二氏(へいげん(の)にし)』
平氏と源氏は、もともと天皇の子孫(皇族)でしたが、臣下(しんか)の籍に降りて(臣籍降下:しんせきこうか)、姓(せい)を与えられた一族です。彼らは地方に下って武士となり、それぞれが大きな武士団(武家の棟梁:とうりょう)を形成していきました。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、この平氏と源氏が日本の政治史において中心的な役割を果たしていくことになります。
11世紀後半、藤原氏の摂関政治が衰えた後、天皇の位を譲った上皇(じょうこう)が、政治の実権を握って行う政治形態を何というでしょう? 白河上皇が始めました。
①摂関政治
②院政(いんせい)
③親政(しんせい)
正解は『院政(いんせい)』
院政は、天皇が位を譲って上皇(または法皇:出家した上皇)となった後も、「院(いん:上皇の御所)」にあって政治の実権を握る政治形態です。1086年に白河天皇(しらかわてんのう)が子の堀河天皇に譲位して上皇となり、院庁(いんのちょう)を開いて政治を始めたのが最初です。摂関家の勢力を抑え、天皇家の権力を回復する目的がありましたが、一方で上皇の近臣(側近)の力が強まるなどの問題も生じました。院政は鎌倉時代初期まで続きました。
院政期に、上皇に仕えて力をつけた武士団の中でも、特に伊勢(いせ、現在の三重県)を本拠地として勢力を伸ばし、院の警備などを担ったのはどちらの氏族でしょう?
①源氏
②平氏
③藤原氏
正解は『平氏』
平氏(特に伊勢平氏)は、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇といった院政を行う上皇たちに、院の御所の警備(北面武士:ほくめんのぶし)や、上皇の荘園の管理などを通じて接近し、信頼を得て勢力を拡大しました。特に平正盛(たいらのまさもり)・忠盛(ただもり)親子は、院の武力として活躍し、中央政界での地位を高めていきました。
1156年に起こった、皇位継承と摂関家の内部対立に、源氏と平氏の武士がそれぞれ分かれて争った内乱を何というでしょう? この乱の後、武士の政治的地位が向上しました。
①保元の乱(ほうげんのらん)
②平治の乱(へいじのらん)
③承久の乱(じょうきゅうのらん)
正解は『保元の乱(ほうげんのらん)』
保元の乱は、崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇(ごしらかわてんのう)との間の皇位継承をめぐる対立に、藤原氏内部の争い(摂関家の争い)が絡み、それに源氏(源為義ら)と平氏(平清盛ら)の武士たちがそれぞれ分かれて参加した内乱です。結果は後白河天皇側が勝利し、この戦いで活躍した平清盛や源義朝(みなもとのよしとも)ら武士の力が、朝廷にとって不可欠であることが示され、武士の政治的発言力が高まるきっかけとなりました。
保元の乱の3年後、1159年に起こった、後白河上皇の近臣間の対立から、源義朝が平清盛に対して起こした争いを何というでしょう? この乱で勝利した平氏の全盛期が始まります。
①保元の乱
②平治の乱
③源平の合戦
正解は『平治の乱』
平治の乱は、保元の乱で勝利した武士、平清盛と源義朝の間に生じた対立と、後白河上皇の近臣である藤原信頼(ふじわらののぶより)と藤原通憲(みちのり、信西:しんぜい)の対立が結びついて起こった内乱です。源義朝は藤原信頼と結んで挙兵しましたが、平清盛に敗れました。この結果、源氏の勢力は大きく後退し、勝利した平清盛率いる平氏政権の基礎が築かれることになりました。源義朝の子である頼朝(よりとも)は伊豆へ流されました。
平治の乱に勝利した後、武士として初めて太政大臣(だいじょうだいじん、朝廷の最高官職)となり、一族で朝廷の要職を独占し、日宋貿易(にっそうぼうえき)を進めて富を築くなど、権勢を極めた平氏の人物は誰でしょう?
①平将門(たいらのまさかど)
②平清盛(たいらのきよもり)
③平宗盛(たいらのむねもり)
正解は『平清盛(たいらのきよもり)』
平清盛は、保元の乱・平治の乱で活躍し、武士の力を背景に朝廷内で急速に昇進しました。1167年には武士として初めて太政大臣となり、娘の徳子(とくこ、建礼門院:けんれいもんいん)を高倉天皇の中宮とするなど、一族で朝廷の官位を独占し、栄華を極めました。また、現在の神戸港にあたる大輪田泊(おおわだのとまり)を修築して、中国の宋(そう)との貿易(日宋貿易)を積極的に行い、莫大な富を得ました。
平清盛が積極的に進めた、中国の宋(そう)との貿易を何というでしょう? この貿易により、宋銭(そうせん)や陶磁器などが輸入されました。
①日明貿易(勘合貿易)
②日宋貿易
③朱印船貿易
正解は『日宋貿易』
日宋貿易は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて行われた日本と中国(宋)との間の貿易です。特に平清盛は、瀬戸内海の航路を整備し、大輪田泊(神戸港)を改修するなどして、この貿易を奨励しました。日本からは金、銀、硫黄、木材、刀剣などが輸出され、宋からは銅銭(宋銭)、陶磁器、絹織物、香料、書籍などが輸入されました。この貿易は、日本の経済や文化に大きな影響を与えました。
平氏の独裁的な政治に対して不満が高まる中、1180年、後白河法皇(ほうおう)の皇子である以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ、命令)を受け、伊豆(いず)で挙兵した源氏の人物は誰でしょう? 後の鎌倉幕府の創設者です。
①源義経(みなもとのよしつね)
②源頼朝(みなもとのよりとも)
③木曽義仲(きそよしなか)
正解は『源頼朝(みなもとのよりとも)』
源頼朝は、平治の乱で父・義朝が敗れた後、伊豆に流されていました。平氏の専横(せんおう)に対する反発が各地で高まる中、1180年、後白河法皇の子である以仁王が平氏追討の令旨(命令書)を発すると、頼朝は北条時政(ほうじょうときまさ)らの助けを得て挙兵しました。これが全国的な源平の合戦(治承・寿永の乱:じしょう・じゅえいのらん)の始まりとなり、頼朝は関東地方の武士たちをまとめ上げ、鎌倉を拠点に勢力を築いていきます。
源頼朝の弟で、一ノ谷の戦い(いちのたに)や屋島の戦い(やしま)、壇ノ浦の戦い(だんのうら)などで活躍し、平氏を滅ぼす上で大きな功績をあげた武将は誰でしょう?
①源範頼(みなもとののりより)
②源義経(みなもとのよしつね)
③木曽義仲(きそよしなか)
正解は『源義経(みなもとのよしつね)』
源義経は、頼朝の異母弟で、兄の挙兵に応じて奥州(東北地方)から駆けつけました。彼は、奇襲戦法(一ノ谷の逆落としなど)や巧みな用兵で、一ノ谷(神戸)、屋島(香川)、そして最後の決戦となった壇ノ浦(山口県下関)などで平氏軍を次々と破り、その滅亡に大きく貢献しました。しかし、その軍功や朝廷から官位を受けたことなどが頼朝の怒りを買い、後に追われる身となります。
1185年、源氏と平氏の最後の戦いが行われ、平氏一門が滅亡した場所はどこでしょう? 現在の山口県下関市沖です。
①屋島(やしま)
②一ノ谷(いちのたに)
③壇ノ浦(だんのうら)
正解は『壇ノ浦(だんのうら)』
壇ノ浦の戦いは、治承・寿永の乱(源平の合戦)における最後の決戦です。1185年、源義経率いる源氏軍の水軍が、平宗盛(むねもり)らが率いる平氏軍の水軍を、関門海峡の壇ノ浦で破りました。この戦いで、幼い安徳天皇(あんとくてんのう)は祖母の二位尼(にいのあま)に抱かれて入水し、多くの平氏一門の人々も海に身を投げて滅亡しました。これにより、約6年間にわたる源平の争乱は終結しました。
源頼朝が、平氏を滅ぼした後、全国の武士を支配するために、国ごと(後に荘園や公領ごと)に設置を認められた、軍事・警察の役割を担う役職は何でしょう?
①守護(しゅご)
②地頭(じとう)
③国司(こくし)
正解は『守護(しゅご)』
守護は、1185年に源頼朝が、源義経追討を口実として朝廷に設置を認めさせた役職です。国ごとに置かれ、国内の御家人(ごけにん、幕府に従う武士)の統率、謀反人の逮捕、殺害人の取り締まり(大犯三箇条:だいぼんさんかじょう)などを主な任務としました。これは、頼朝が全国の軍事権・警察権を掌握するための重要な布石であり、鎌倉幕府の支配体制の基礎となりました。
源頼朝が、荘園(貴族や寺社の私有地)や公領(国の直轄地)ごとに設置を認められた、年貢(ねんぐ)の徴収や土地の管理、治安維持などを行う役職は何でしょう?
①守護
②国司
③地頭(じとう)
正解は『地頭(じとう)』
地頭も、守護と同じく1185年に源頼朝が設置を認めさせた役職です。荘園や公領に置かれ、土地の管理、年貢の徴収と幕府への納入、治安維持などを担当しました。地頭には、頼朝に従った御家人が任命され、彼らは給与としてその土地からの収入の一部を得ました。これにより、頼朝は地方の土地支配にも影響力を及ぼすようになり、幕府の経済的基盤を強化しました。
1192年、源頼朝が朝廷から任命された、武士の最高位とされる役職は何でしょう? これにより鎌倉幕府が名実ともに成立したとされます。
①関白
②征夷大将軍
③太政大臣
正解は『征夷大将軍』
征夷大将軍は、もともと蝦夷征討のための役職でしたが、源頼朝はこの地位に就くことで、全国の武士を統率する最高指導者としての法的根拠を得ました。1192年に頼朝が征夷大将軍に任命されたことをもって、武家政権である鎌倉幕府が正式に成立したと一般的に理解されています(成立年には1185年説など諸説あり)。
鎌倉幕府を開いた源頼朝が、政治の中心地として整備した都市はどこでしょう?
①京都
②平泉(ひらいずみ)
③鎌倉(かまくら)
正解は『鎌倉(かまくら)』
鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)は、源氏にとってゆかりの深い土地であり、三方を山に囲まれ、一方が海に面した天然の要害でした。源頼朝は、この地に幕府の政庁(大倉御所)や、御家人たちの住居、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)などを整備し、武家政権の中心地としました。
鎌倉幕府において、将軍(鎌倉殿)と主従関係を結んだ武士のことを何というでしょう?
①地侍(じざむらい)
②御家人(ごけにん)
③郎党(ろうとう)
正解は『御家人(ごけにん)』
御家人は、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)と直接主従関係を結んだ武士のことです。主に源平の合戦で頼朝に従った関東の武士が中心でしたが、後に西国の武士も含まれるようになりました。彼らは将軍に対して忠誠を誓い、軍役(戦への参加)や鎌倉・京都の警備(番役)などの義務(奉公)を果たしました。
鎌倉幕府の将軍が、御家人に対して、先祖伝来の領地の支配を保障したり、新たな領地や役職を与えたりすることを何というでしょう?
①奉公(ほうこう)
②御恩(ごおん)
③下地中分(したじちゅうぶん)
正解は『御恩(ごおん)』
御恩は、鎌倉幕府の将軍が、主従関係を結んだ御家人に対して与える恩恵のことです。具体的には、①本領安堵(ほんりょうあんど):御家人が先祖代々受け継いできた領地の所有・支配を将軍が認めて保障すること、②新恩給与(しんおんきゅうよ):戦での功績などに応じて、将軍が新しい土地(所領)や守護・地頭などの役職を与えること、の二つがありました。
鎌倉幕府の御家人が、将軍の御恩に対して、戦が起きた時に命がけで戦ったり、平時に京都や鎌倉の警備を行ったりする義務を何というでしょう?
①御恩
②奉公(ほうこう)
③年貢
正解は『奉公(ほうこう)』
奉公は、御家人が将軍の御恩に応えて果たすべき義務(勤務)のことです。主なものに、①軍役(ぐんやく):幕府の命令に従って戦に参加すること、②鎌倉番役(かまくらばんやく):鎌倉の警備、③京都大番役(きょうとおおばんやく):京都の御所や内裏の警備などがありました。御家人はこれらの奉公を通じて将軍への忠誠を示しました。
鎌倉幕府における、将軍と御家人の間の「御恩」と「奉公」によって結ばれた主従関係に基づく社会の仕組み(制度)を何というでしょう?
①律令制度
②荘園制度
③封建制度(ほうけんせいど)
正解は『封建制度(ほうけんせいど)』
封建制度は、土地(所領)の授受を仲立ちとして結ばれる主君と家臣の間の主従関係を基本とする社会・政治制度です。鎌倉幕府の場合、将軍(主君)が御家人(家臣)に土地の支配権(御恩)を与え、その見返りに御家人が将軍に軍役などの忠誠(奉公)を誓うという関係で成り立っていました。この「御恩と奉公」の関係が、鎌倉幕府の支配体制の根幹をなしていました。
源頼朝の死後、将軍の権力が弱まると、頼朝の妻・北条政子(ほうじょうまさこ)の一族である北条氏が、将軍を補佐する役職について幕府の実権を握りました。この役職名を何というでしょう?
①管領(かんれい)
②執権(しっけん)
③連署(れんしょ)
正解は『執権(しっけん)』
執権は、鎌倉幕府において、将軍に次ぐ地位で、政務を統括し、幕府の実権を握った役職です。初代将軍・源頼朝の死後、2代将軍頼家、3代将軍実朝と源氏の将軍が続きますが、実権は次第に頼朝の舅(しゅうと)であった北条時政(ときまさ)や、その子義時(よしとき)ら北条氏に移りました。義時が1213年に侍所(さむらいどころ)と政所(まんどころ)の別当(長官)を兼ねて実権を確立し、以後、執権の地位は北条氏が世襲しました。
源氏の将軍が3代で途絶えた後、鎌倉幕府の実権を握った北条氏が行った政治を何というでしょう?
①摂関政治
②院政
③執権政治(しっけんせいじ)
正解は『執権政治(しっけんせいじ)』
執権政治は、鎌倉幕府において、北条氏が執権の地位を世襲し、将軍を名目的な存在として幕府の実権を掌握した政治体制です。初代執権・北条時政から始まり、2代義時、3代泰時(やすとき)と続き、元寇(げんこう)を経て幕府滅亡まで約1世紀以上続きました。有力御家人との合議制を取り入れながらも、実質的には北条氏が主導権を握っていました。
源頼朝の妻で、頼朝の死後、「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれて幕政に影響力を持ち、承久の乱の際には御家人たちを結束させた女性は誰でしょう?
①日野富子(ひのとみこ)
②北条政子(ほうじょうまさこ)
③平徳子(たいらのとくこ)
正解は『北条政子(ほうじょうまさこ)』
北条政子は、初代将軍・源頼朝の妻であり、2代頼家、3代実朝の母です。頼朝の死後、子の頼家や実朝が将軍となると、実家である北条氏とともに幕政に関与し、大きな影響力を行使しました。特に、1221年の承久の乱の際には、御家人たちに対して頼朝の御恩を訴え、幕府を守るために結束するよう呼びかける演説を行い、幕府軍の士気を高めたことで知られています。「尼将軍」とも称されました。
1221年、朝廷の勢力を回復しようとした後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、執権・北条義時を討伐する命令を出し、幕府に対して起こした戦いを何というでしょう?
①保元の乱
②平治の乱
③承久の乱(じょうきゅうのらん)
正解は『承久の乱(じょうきゅうのらん)』
承久の乱は、鎌倉幕府の成立後も依然として朝廷が持っていた権威を取り戻そうとした後鳥羽上皇が、執権・北条義時追討の院宣(いんぜん、上皇の命令)を発して起こした、朝廷と幕府の間の本格的な武力衝突です。北条政子の演説などで結束した幕府軍(北条泰時・時房らが大将)が京都に攻め上り、朝廷軍を破りました。
承久の乱の結果、幕府はどうなりましたか? 最も適切なものを選びましょう。
①幕府が滅亡し、朝廷の力が回復した
②幕府が勝利し、朝廷に対する支配力を強めた
③幕府と朝廷が和解し、協力体制が築かれた
正解は『幕府が勝利し、朝廷に対する支配力を強めた』
承久の乱は、鎌倉幕府の圧勝に終わりました。幕府は、乱に関与した後鳥羽上皇ら三上皇を隠岐(おき)などの離島に流罪(るざい)とし、仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)を廃位しました。さらに、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置して朝廷の監視や西国武士の統制を強化し、上皇側についた貴族や武士の所領(荘園など)を没収して、幕府側の御家人に分け与えました。これにより、幕府の朝廷に対する優位は決定的となり、その支配力は全国に及びました。
承久の乱の後、京都に設置され、朝廷の監視や西国(近畿・中国・四国・九州地方)の御家人の統制、裁判などを担当した幕府の機関を何というでしょう?
①政所(まんどころ)
②侍所(さむらいどころ)
③六波羅探題(ろくはらたんだい)
正解は『六波羅探題(ろくはらたんだい)』
六波羅探題は、承久の乱の後、1221年に鎌倉幕府が京都の六波羅(現在の京都市東山区)に設置した出先機関です。それまでの京都守護(きょうとしゅご)の機能を強化したもので、①朝廷の監視、②京都周辺の警備、③西国御家人の統率、④西国における訴訟(裁判)の処理など、広範な権限を持っていました。北条氏一族から任命された二人の長官(北方・南方)が置かれ、西国支配の拠点として重要な役割を果たしました。
1232年、3代執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)が制定した、武士社会の慣習や道理に基づいて定められた、日本で最初の武家法(武士のための法律)を何というでしょう? 全51カ条からなります。
①大宝律令
②御成敗式目(ごせいばいしきもく)
③武家諸法度(ぶけしょはっと)
正解は『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』
御成敗式目(貞永式目:じょうえいしきもく とも)は、1232年(貞永元年)に執権・北条泰時が、評定衆(ひょうじょうしゅう)との合議の上で制定した、鎌倉幕府の基本法典です。それまでの武家社会で培われてきた慣習(先例)や道理(どうり)を基準とし、御家人同士の所領争いや、守護・地頭の権限などに関する規定を中心に、全51カ条で構成されています。公平な裁判の基準を示すことで、幕府の支配体制を安定させることを目的としていました。後の武家法にも大きな影響を与えました。
御成敗式目を制定した、鎌倉幕府の第3代執権は誰でしょう? 彼は執権政治の確立に貢献しました。
①北条時政
②北条義時
③北条泰時
正解は『北条泰時』
北条泰時は、2代執権・義時の子で、承久の乱では幕府軍の大将として活躍しました。父の死後、3代執権となり、叔父の時房(ときふさ)を補佐役の連署(れんしょ)とし、有力御家人からなる評定衆(ひょうじょうしゅう)を設置して合議制を導入するなど、執権政治の安定化に努めました。彼の最大の功績は、武家社会の道理に基づいた裁判基準として御成敗式目を制定したことであり、これにより幕府への信頼が高まりました。
13世紀、モンゴル帝国を築き上げ、その領土をユーラシア大陸の広範囲に拡大した人物は誰でしょう?
①フビライ・ハン
②チンギス・ハン
③マルコ・ポーロ
正解は『チンギス・ハン』
チンギス・ハン(テムジン)は、13世紀初頭にモンゴル高原の遊牧民諸部族を統一し、モンゴル帝国を建国した人物です。優れた指導力と強力な騎馬軍団を率いて、中央アジアから中国北部、西アジア、東ヨーロッパにまで及ぶ広大な地域を征服し、世界史上最大級の帝国の基礎を築きました。彼の死後も帝国は拡大を続けました。
チンギス・ハンの孫で、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)となり、都を大都(だいと、現在の北京)に移して国号を元(げん)と定めた人物は誰でしょう?
①チンギス・ハン
②オゴタイ・ハン
③フビライ・ハン
正解は『フビライ・ハン』
フビライ・ハンは、チンギス・ハンの孫にあたり、モンゴル帝国の第5代大ハーン(皇帝)です。彼は、1271年に国号を「元」と定め、1279年には南宋(なんそう)を滅ぼして中国全土を統一しました。都をカラコルムから大都(現在の北京)に移し、中国風の王朝を築きました。また、高麗(こうらい、朝鮮半島)を服属させ、日本や東南アジアへも遠征軍を送りました。
フビライ・ハンが支配する元(モンゴル帝国)が、日本を服属させようとして、1274年と1281年の2度にわたって大軍を送ってきた出来事を何というでしょう?
①応仁の乱
②元寇(げんこう、蒙古襲来)
③島原の乱
正解は『元寇(げんこう、蒙古襲来)』
元寇(蒙古襲来)は、元の皇帝フビライ・ハンが、日本に対して元の支配下に入るよう要求し、それが拒否されたため、二度にわたって大軍を派遣してきた事件です。 * 1274年(文永の役:ぶんえいのえき): 元と高麗の連合軍約3万が、対馬・壱岐を経て博多湾に上陸しましたが、日本側の抵抗や暴風雨(いわゆる神風)により撤退しました。 * 1281年(弘安の役:こうあんのえき): 元軍と旧南宋軍からなる約14万の大軍が再び襲来しましたが、日本側の防備(石塁など)や、再び襲った暴風雨(神風)によって大損害を受け、失敗に終わりました。
一度目の元寇(1274年)を何の役(えき)というでしょう?
①弘安の役
②文永の役
③永仁の役
正解は『文永の役』
1274年(文永11年)に起こった最初の元軍の襲来を「文永の役」といいます。元・高麗連合軍は、集団戦法や火薬を用いた武器(てつはう)などで日本(鎌倉幕府)の武士たちを苦しめましたが、日本側の頑強な抵抗や、夜間の暴風雨によって大きな被害を受け、撤退しました。
二度目の元寇(1281年)を何の役(えき)というでしょう?
①文永の役
②正安の役
③弘安の役
正解は『弘安の役』
1281年(弘安4年)に起こった二度目の元軍の襲来を「弘安の役」といいます。幕府は、一度目の襲来の後、博多湾沿岸に石塁(せきるい、防塁)を築くなど防備を固めていました。東路軍(元・高麗軍)と江南軍(旧南宋軍)の二手に分かれた約14万の大軍が来襲しましたが、日本側の抵抗と、再び襲来した暴風雨(神風)により壊滅的な打撃を受け、失敗に終わりました。
元寇の際に、鎌倉幕府の執権として、御家人たちを指揮して元軍と戦った人物は誰でしょう?
①北条泰時
②北条時頼(ほうじょうときより)
③北条時宗(ほうじょうときむね)
正解は『北条時宗(ほうじょうときむね)』
北条時宗は、鎌倉幕府の第8代執権です。彼が執権であった時代に、元(フビライ・ハン)からの服属要求がありましたが、時宗はこれを断固として拒否しました。そして、二度の元寇(文永の役・弘安の役)においては、御家人たちを統率し、挙国一致で元の襲来に立ち向かい、これを撃退しました。彼の強い指導力が国難を乗り切る上で大きな役割を果たしたと評価されています。
元寇の際、元軍が用いた火薬を使った武器で、大きな音と光で日本の武士たちを混乱させたとされるものは何でしょう?
①火縄銃(ひなわじゅう)
②大砲(たいほう)
③てつはう(鉄炮)
正解は『てつはう(鉄炮)』
てつはう(鉄炮)は、元寇の際に元軍が使用したとされる武器です。陶器や鉄製の容器に火薬と鉄片などを詰め、導火線で点火して投げつけ、爆発させるものでした。大きな爆発音と閃光(せんこう)は、馬を驚かせ、一騎打ちを主戦法としていた日本の武士たちを大いに混乱させたと伝えられています。『蒙古襲来絵詞』にも描かれています。
元寇の後、幕府は御家人たちに十分な恩賞(おんしょう、褒美の土地など)を与えることができませんでした。それはなぜでしょう? 最も適切な理由を選びましょう。
①幕府にお金や土地がなかったから
②元との戦いは、外国の侵略を防いだだけで、新たな領地を獲得したわけではなかったから
③恩賞を与える制度がなかったから
正解は『元との戦いは、外国の侵略を防いだだけで、新たな領地を獲得したわけではなかったから』
元寇は、外国からの侵略を防ぐための防衛戦争でした。そのため、国内の内乱のように敵(相手)から没収して御家人に分け与えるための新しい土地(領地)を獲得することができませんでした。一方で、御家人たちは多大な戦費を負担し、命がけで戦ったため、恩賞への期待は大きかったのですが、幕府はこれに十分応えることができませんでした。これが、御家人たちの幕府への不満を高め、幕府の力が衰える一因となりました。
元寇の戦費負担や、貨幣経済の浸透(宋銭の使用など)、分割相続による所領の細分化などによって、生活が苦しくなった鎌倉時代の御家人を救済するために、1297年(永仁5年)に幕府が出した法令は何でしょう? 御家人が売ったり質に入れた土地を取り戻せるようにしましたが、かえって混乱を招きました。
①御成敗式目
②永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)
③建武の新政
正解は『永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)』
永仁の徳政令は、9代執権・北条貞時(さだとき)の時代に出された法令です。生活に困窮した御家人を救うため、①御家人が売却した土地を無償で取り戻せるようにし、②御家人への金銭貸借に関する訴訟(裁判)を受け付けない、などの内容でした。しかし、この法令により、御家人たちは商人や金融業者(高利貸し)から信用を失い、かえってお金を借りにくくなるなど、経済的な混乱を招き、十分な効果を上げることができませんでした。幕府の権威の低下を示す出来事の一つです。
鎌倉時代に始まった、武士の生活や気風を反映した、質実剛健(しつじつごうけん、飾り気がなく強くたくましい)で力強い文化を、主に何文化と呼ぶことがあるでしょう?
①国風文化
②鎌倉文化
③桃山文化
正解は『鎌倉文化』
鎌倉文化は、鎌倉時代に栄えた文化の総称です。貴族中心だった平安時代の国風文化とは異なり、新興勢力である武士の気風(質実剛健、素朴、力強い)が強く反映されているのが特徴です。また、庶民の活動も活発になり、新しい仏教(鎌倉新仏教)が広まったことも大きな特徴です。公家文化、武家文化、庶民文化が混在し、多様な側面を持っていました。
鎌倉文化を代表する、東大寺南大門(なんだいもん)に安置されている、力強く迫力のある表情をした一対の木造の像を何というでしょう? 運慶(うんけい)・快慶(かいけい)ら慶派(けいは)の仏師によって作られました。
①阿修羅像(あしゅらぞう)
②金剛力士像(こんごうりきしぞう、仁王像)
③毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)
正解は『金剛力士像(こんごうりきしぞう、仁王像)』
東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)は、鎌倉時代初期の彫刻を代表する傑作です。運慶、快慶ら慶派の仏師たちによって、源平の争乱で焼失した東大寺の復興事業の一環として造られました。寄木造(よせぎづくり)という技法で作られ、高さ8メートルを超える巨大な像でありながら、筋肉の隆起や怒りの表情などが非常に写実的に表現されており、鎌倉時代の武士の気風を反映した力強さが感じられます。
平氏の栄華から滅亡までを描いた、琵琶法師(びわほうし)によって語り伝えられた軍記物語(ぐんきものがたり)の代表作は何でしょう? 「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声…」の冒頭が有名です。
①平家物語(へいけものがたり)
②太平記(たいへいき)
③保元物語(ほうげんものがたり)
正解は『平家物語(へいけものがたり)』
平家物語は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語の最高傑作です。平清盛を中心とする平氏一門の栄華と、源氏との争い(源平の合戦)による滅亡までを、仏教的な無常観(むじょうかん:全てのものは移り変わっていくという考え)を基調として描いています。もともとは、盲目の僧侶である琵琶法師が、琵琶の伴奏に合わせて語り歩いた(平曲:へいきょく)ことで、広く庶民にも親しまれました。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」という有名な冒頭は、この物語のテーマを象徴しています。
鎌倉時代初期の歌人で、『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』の撰者(せんじゃ)の一人であり、また、京都の小倉山(おぐらやま)で百人一首(ひゃくにんいっしゅ)を選んだとされるのは誰でしょう?
①西行(さいぎょう)
②藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)
③鴨長明(かものちょうめい)
正解は『藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ)』
藤原定家は、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した公家であり、当代随一の歌人でした。後鳥羽上皇の命により、『新古今和歌集』(鎌倉時代最初の勅撰和歌集)の中心的な撰者となりました。彼の歌風は幽玄(ゆうげん)・有心(うしん)と評され、技巧的で象徴的な表現を特徴とします。また、小倉百人一首の選者であったという説も有力です(ただし確証はありません)。
鎌倉時代初期の僧侶・文人で、世の無常を感じて隠遁(いんとん)生活を送り、その方丈(ほうじょう、小さな庵)での暮らしぶりや、都の災害(火事、飢饉、地震など)について記した随筆『方丈記(ほうじょうき)』を著したのは誰でしょう?
①吉田兼好(よしだけんこう)
②鴨長明(かものちょうめい)
③藤原定家
正解は『鴨長明(かものちょうめい)』
鴨長明は、もともと京都の下鴨神社の神官の子でしたが、望んだ地位を得られず、世俗を離れて出家・隠遁しました。彼の随筆『方丈記』は、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という有名な書き出しで始まり、人生や世の中のはかなさ(無常観)を、自身の体験(都での災害の様子や、日野山に建てた小さな庵での質素な生活)を通して深く考察しています。和歌にも優れていました。
鎌倉時代末期に書かれたとされる随筆で、「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて…」の序段で始まり、人生観や処世術、逸話などが様々な話題について記されている作品は何でしょう? 作者は吉田兼好(兼好法師)とされます。
①方丈記
②枕草子
③徒然草(つれづれぐさ)
正解は『徒然草(つれづれぐさ)』
徒然草は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて生きたとされる僧侶、吉田兼好(兼好法師)によって書かれたとされる随筆集です。特定のテーマに縛られず、作者が心に浮かんだ様々な事柄(人生論、処世訓、風俗、自然観、面白い話など)を、断片的(全243段)に書き留めたものです。無常観を根底に持ちつつも、鋭い観察眼やユーモアも感じられ、『枕草子』『方丈記』と並び、日本三大随筆の一つに数えられます。
鎌倉時代には、新しい宗派の仏教が次々と生まれ、武士や庶民の間にも広まりました。これらの新しい仏教を総称して何というでしょう?
①奈良仏教(南都六宗)
②平安仏教(天台宗・真言宗)
③鎌倉新仏教
正解は『鎌倉新仏教』
鎌倉新仏教は、平安末期から鎌倉時代にかけて興った新しい仏教宗派の総称です。従来の仏教(奈良仏教や平安仏教)が貴族中心で学問的・儀礼的であったのに対し、鎌倉新仏教は、末法思想や社会の混乱を背景に、より易しい教え(易行:いぎょう)を説き、個人の救済を重視したため、武士や庶民など幅広い階層に受け入れられました。代表的なものに浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などがあります。
鎌倉新仏教の一つで、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とひたすら念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に往生できる(専修念仏:せんじゅねんぶつ)と説き、浄土宗(じょうどしゅう)を開いた僧侶は誰でしょう?
①親鸞(しんらん)
②法然(ほうねん)
③一遍(いっぺん)
正解は『法然(ほうねん)』
法然(源空:げんくう)は、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した僧侶で、浄土宗の開祖です。比叡山で学びましたが、当時の仏教が難しい修行や学問を必要とすることに疑問を感じ、阿弥陀仏の本願(ほんがん)を信じ、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えること(専修念仏)こそが、身分や能力に関わらず誰もが救われる道であると説きました。その教えは急速に広まりましたが、旧仏教勢力からの弾圧も受けました。
法然の弟子で、阿弥陀仏の力を信じる心(信心:しんじん)こそが最も重要であり、悪人こそがかえって救われる対象である(悪人正機説:あくにんしょうきせつ)と説き、浄土真宗(じょうどしんしゅう、一向宗)を開いた僧侶は誰でしょう?
①法然
②親鸞(しんらん)
③日蓮(にちれん)
正解は『親鸞(しんらん)』
親鸞は、法然の弟子でしたが、師の教えをさらに徹底させ、浄土真宗を開きました。彼は、自力(じりき、自分の努力)での救済は不可能であり、阿弥陀仏の絶対的な力(他力:たりき)を信じる心(信心)があれば、それだけで救われると説きました。特に、自分を罪深い存在(悪人)だと自覚する者こそ、阿弥陀仏の救いの主な対象であるとする「悪人正機説」は有名です。また、僧侶の妻帯(さいたい)を認め、自らも結婚しました。
鎌倉新仏教の一つで、踊り念仏(おどりねんぶつ)を行いながら全国を遊行(ゆぎょう)し、「南無阿弥陀仏」と書かれたお札(賦算:ふさん)を配って歩き、時宗(じしゅう)を開いた僧侶は誰でしょう?
①親鸞
②一遍(いっぺん)
③道元(どうげん)
正解は『一遍(いっぺん)』
一遍(智真:ちしん)は、鎌倉時代中期の僧侶で、時宗の開祖です。彼は、師の教えや熊野権現(くまのごんげん)の神託(しんたく)に基づき、信仰の有無や善悪に関わらず、念仏を唱えれば誰でも往生できると悟りました。そして、信者たち(時衆:じしゅう)と共に、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」を行い、また「南無阿弥陀仏」と書かれたお札を配りながら、全国各地を遊行(旅して教えを広めること)しました。
鎌倉新仏教の一つで、『法華経(ほけきょう)』こそが釈迦の真の教えであるとし、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」という題目(だいもく)を唱えること(唱題:しょうだい)が重要だと説き、日蓮宗(にちれんしゅう、法華宗)を開いた僧侶は誰でしょう? 他宗を激しく批判し、幕府から迫害も受けました。
①法然
②日蓮(にちれん)
③栄西(えいさい)
正解は『日蓮(にちれん)』
日蓮は、鎌倉時代中期の僧侶で、日蓮宗(法華宗)の開祖です。彼は、当時の災害や元寇などの国難は、国が正しい仏法(法華経)に背き、誤った教え(浄土宗や禅宗など)を信仰しているためだと考えました。そして、『法華経』こそが末法の世を救う唯一の正しい教えであると確信し、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることが救済の道だと説きました。他宗派や幕府の政策を厳しく批判したため、伊豆や佐渡への流罪など、度重なる迫害を受けました。
鎌倉新仏教のうち、座禅(ざぜん)を組んで精神統一を図り、自力で悟りを開くことを重視する宗派を総称して何というでしょう? 武士層に特に広まりました。
①浄土教
②密教
③禅宗(ぜんしゅう)
正解は『禅宗(ぜんしゅう)』
禅宗は、インドの達磨(だるま)によって伝えられたとされる仏教の一派で、経典の学習や儀式よりも、座禅によって自らの心を見つめ、仏(悟り)の境地に至ることを目指します(不立文字:ふりゅうもんじ、教外別伝:きょうげべつでん)。鎌倉時代に、栄西(りんざいしゅう)や道元(そうとうしゅう)によって中国(宋)から伝えられ、自らの精神力や鍛錬を重んじる禅の教えは、鎌倉幕府の執権・北条氏をはじめとする武士たちの気風に合い、広く受け入れられました。
禅宗の一つで、宋に二度渡り、座禅とともに、厳しい修行の規律(公案:こうあんを用いた問答など)を重視する臨済宗(りんざいしゅう)を日本に伝え、建仁寺(けんにんじ、京都)などを開いた僧侶は誰でしょう? 茶(抹茶)を日本に伝えたとも言われます。
①道元
②栄西(えいさい/ようさい)
③隠元(いんげん)
正解は『栄西(えいさい/ようさい)』
栄西は、平安末期から鎌倉初期の僧侶で、日本の臨済宗の開祖です。比叡山で天台宗を学びましたが、二度にわたって宋に渡り、禅宗(臨済宗黄龍派:おうりゅうは)を学びました。帰国後、博多に聖福寺(しょうふくじ)、京都に建仁寺を開き、禅宗を広めようとしましたが、旧仏教勢力からの反対も受けました。鎌倉幕府の保護を受け、禅宗は武士社会に浸透していきました。また、宋から茶の種子を持ち帰り、喫茶(きっさ)の習慣を広めたことでも知られ、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著しました。
禅宗の一つで、宋に渡って学び、師から与えられた課題(公案)の解決を重視する臨済宗とは異なり、ただひたすら座禅に打ち込むこと(只管打坐:しかんたざ)こそが悟りへの道であると説き、曹洞宗(そうとうしゅう)を日本に伝え、永平寺(えいへいじ、福井県)を開いた僧侶は誰でしょう?
①栄西
②道元(どうげん)
③一遍
正解は『道元(どうげん)』
道元は、鎌倉時代前期の僧侶で、日本の曹洞宗の開祖です。京都の貴族の家に生まれ、比叡山で学びましたが、疑問を感じて宋に渡り、曹洞宗を学びました。帰国後、権力者に近づくことを避け、ひたすら座禅に打ち込む「只管打坐」を重視する厳しい禅の教えを説きました。京都郊外に興聖寺(こうしょうじ)を開いた後、越前(えちぜん、福井県)に移り、大仏寺(だいぶつじ、後の永平寺)を建立し、そこで弟子たちの育成と著述に専念しました。主著に『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』があります。
鎌倉時代には、農業技術も進歩しました。牛や馬に鋤(すき)を引かせて田畑を深く耕す方法を何というでしょう?
①二毛作(にもうさく)
②牛馬耕(ぎゅうばこう)
③千歯扱き(せんばこき)
正解は『牛馬耕(ぎゅうばこう)』
牛馬耕は、牛や馬などの家畜の力を利用して、鋤(すき)や犂(からすき)といった農具で田畑を耕す方法です。人力で耕すよりも深く、効率的に耕すことができるため、土地の生産力を高めるのに役立ちました。鎌倉時代には、西日本を中心にこの牛馬耕が普及し、農業生産の向上に貢献しました。
鎌倉時代に広まった、同じ田畑で一年のうちに米と麦など、二種類の作物を栽培することを何というでしょう?
①連作(れんさく)
②輪作(りんさく)
③二毛作(にもうさく)
正解は『二毛作(にもうさく)』
二毛作は、一つの耕地で、一年間に二種類の異なる作物を栽培することです。日本では、主に水田で、夏に米(稲)を作り、冬にその裏作として麦(小麦や大麦)を栽培する形が、鎌倉時代の畿内(近畿地方)や西日本で普及しました。農業技術の進歩(牛馬耕、肥料の使用など)や、温暖な気候が背景にあり、土地の利用効率を高め、食料生産を増やすことに繋がりました。
鎌倉時代、農業生産力の向上や手工業の発達に伴い、各地で定期的に開かれるようになった市場を何というでしょう? 月に3回開かれる三斎市(さんさいいち)などが一般的でした。
①楽市・楽座
②株仲間
③定期市(ていきいち)
正解は『定期市(ていきいち)』
定期市は、鎌倉時代に各地で開かれるようになった、決められた日(例:月に3回、6回など)に、商人や手工業者が集まって商品を売買する市場のことです。荘園や交通の要地、寺社の門前などで開かれました。月に3回開かれる市を三斎市(さんさいいち)と呼びます。農業生産物、手工業製品、輸入品などが取引され、貨幣(主に宋銭)の流通も促進し、商業の発展に繋がりました。
鎌倉時代の商業活動で、商品の輸送や保管、委託販売などを行い、遠隔地間の取引を仲介した運送業者兼倉庫業者を何というでしょう?
①座(ざ)
②問屋(といや、問:とい)
③両替商(りょうがえしょう)
正解は『問屋(といや、問:とい)』
問屋(問)は、鎌倉時代の商業の発展に伴って登場した、商品の流通を担う重要な商人です。港町や宿場町、市場などで活動し、生産者や他の商人から商品を預かり、保管・輸送し、遠隔地の商人との取引を仲介しました。また、商品の売買そのものも行いました。彼らの活動により、全国的な商品の流通ネットワークが形成されていきました。
鎌倉時代に使われた貨幣(お金)として、最も広く流通したのは何でしょう? 日宋貿易によって大量に輸入されました。
①和同開珎(わどうかいちん)
②宋銭(そうせん)
③寛永通宝(かんえいつうほう)
正解は『宋銭(そうせん)』
宋銭は、中国の宋王朝で鋳造された銅銭です。日宋貿易を通じて大量に日本に輸入され、鎌倉時代には全国的に最も広く流通する貨幣となりました。奈良・平安時代に鋳造された皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)が価値を失った後、商品経済の発展に伴い、信頼性の高い宋銭が広く受け入れられました。年貢の銭納(ぜんのう:米ではなく銭で納めること)も行われるようになりました。
鎌倉時代後期、幕府の力が衰える中で、近畿地方を中心に、幕府の支配に反抗し、荘園領主や幕府の役人などと争う悪党(あくとう)と呼ばれる武士や人々が現れました。その代表的な人物とされるのは誰でしょう?
①足利尊氏(あしかがたかうじ)
②楠木正成(くすのきまさしげ)
③新田義貞(にったよしさだ)
正解は『楠木正成(くすのきまさしげ)』
悪党は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、畿内(近畿地方)やその周辺地域で活動した、既存の荘園支配体制や幕府の秩序に従わない武士や在地領主、農民などの集団を指します。彼らは、荘園の年貢納入を拒否したり、略奪行為を行ったりしましたが、一方で商品経済の発展に対応した新しいタイプの武士としての側面も持っていました。楠木正成は、河内(かわち、大阪府)の悪党出身とされ、後に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の倒幕運動で活躍します。
鎌倉幕府の滅亡(1333年)の後、天皇中心の政治を復活させようとした後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が行った政治改革を何というでしょう?
①大化の改新
②建武の新政(けんむのしんせい)
③明治維新
正解は『建武の新政(けんむのしんせい)』
建武の新政は、1333年に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が開始した、天皇親政(天皇が直接政治を行うこと)による政治改革です。律令時代の理想に回帰し、公家(貴族)を重視する政策をとりましたが、倒幕に功績のあった武士たちの期待に応えられず、恩賞の不公平さや政策の混乱から、武士や民衆の不満が高まりました。この新政はわずか2年余りで失敗に終わりました。
建武の新政に対して不満を持つ武士たちをまとめ、後醍醐天皇に反旗を翻し、京都を占領して新しい天皇を立て、室町幕府を開く基礎を築いた武将は誰でしょう?
①楠木正成
②新田義貞
③足利尊氏(あしかがたかうじ)
正解は『足利尊氏(あしかがたかうじ)』
足利尊氏は、鎌倉幕府の有力御家人でしたが、後醍醐天皇の倒幕運動に応じて幕府を裏切り、六波羅探題を攻め滅ぼしました。しかし、建武の新政における武士を軽視する政策や恩賞への不満から、次第に後醍醐天皇と対立。1336年、湊川(みなとがわ、神戸市)の戦いで楠木正成らを破り、京都を制圧しました。そして、持明院統(じみょういんとう)の光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し、自らは征夷大将軍となって室町幕府を開きました。
足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇が、奈良の吉野(よしの)に逃れて開いた朝廷を何というでしょう? これにより、京都の北朝と吉野の南朝、二つの朝廷が並び立つ時代が始まります。
①北朝(ほくちょう)
②南朝(なんちょう)
③東朝(とうちょう)
正解は『南朝(なんちょう)』
後醍醐天皇は、足利尊氏に敗れて京都を追われた後、1336年末に奈良南部の吉野(現在の奈良県吉野町)に入り、ここが正統な朝廷であると主張しました。これを南朝といいます。一方、足利尊氏が京都に擁立した光明天皇の朝廷を北朝といいます。この二つの朝廷が約60年間(1336年~1392年)にわたって並立し、全国の武士も南北に分かれて争った動乱の時代を「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」といいます。
鎌倉幕府が滅びた年は西暦何年でしょう?
①1185年
②1192年
③1333年
正解は『1333年』
鎌倉幕府は、1333年に滅亡しました。後醍醐天皇の倒幕計画に呼応した足利尊氏が京都の六波羅探題を、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻め落とし、最後の執権(得宗:とくそう)であった北条高時(ほうじょうたかとき)をはじめとする北条氏一門の多くが自害し、約150年間続いた幕府の歴史に幕を下ろしました。
平安時代、貴族が政治の実権を握っていたのに対し、鎌倉時代はどの身分の人々が中心となって政治を行った時代でしょう?
①僧侶
②武士
③商人
正解は『武士』
鎌倉時代は、源頼朝が鎌倉幕府を開いたことにより、武士が初めて政治の中心的な担い手となった時代です。平安時代の貴族政治(摂関政治や院政)から、武士による政権(武家政権)へと大きく転換しました。この武家政権の時代は、室町時代、江戸時代へと続いていきます。
鎌倉幕府の組織で、御家人を統率し、軍事や警察を担当した役所を何というでしょう?
①政所(まんどころ)
②侍所(さむらいどころ)
③問注所(もんちゅうじょ)
正解は『侍所(さむらいどころ)』
侍所は、鎌倉幕府の中央機関の一つです。初代別当(長官)は和田義盛(わだよしもり)でしたが、後に北条氏が実権を握ります。主な役割は、①御家人の統率・組織化、②幕府内の警備、③戦時における軍事指揮、④謀反人などの取り締まり(検断:けんだん)など、軍事・警察に関する業務全般でした。
鎌倉幕府の組織で、幕府の財政や一般政務を担当した役所を何というでしょう?
①侍所
②問注所
③政所(まんどころ)
正解は『政所(まんどころ)』
政所は、鎌倉幕府の中央機関の一つで、もともとは貴族の家政機関でしたが、頼朝が設置しました。初代別当(長官)は大江広元(おおえのひろもと)です。主な役割は、①幕府の財政(年貢の管理、経費の支出など)、②儀式の運営、③将軍家の家政事務、④所領に関する訴訟以外の一般政務など、幕府の行政・財政全般を担当しました。
鎌倉幕府の組織で、御家人間の所領(土地)に関する争いなどの裁判(訴訟)を担当した役所を何というでしょう?
①政所
②問注所(もんちゅうじょ)
③侍所
正解は『問注所(もんちゅうじょ)』
問注所は、鎌倉幕府の中央機関の一つで、裁判(訴訟)を専門に担当する役所です。初代執事(長官)は三善康信(みよしやすのぶ)です。主な役割は、①御家人から提出された訴状(そじょう)の受理、②訴訟内容の審理、③判決の記録・執行などでした。御成敗式目の制定後は、これに基づいて裁判が行われました。公平な裁判は、御家人の幕府への信頼を維持する上で重要でした。
平安時代末期、東北地方の平泉(ひらいずみ)を拠点に、独自の文化を築き上げた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)三代(清衡・基衡・秀衡)によって建立された、金色に輝くお堂で有名な寺院は何でしょう?
①延暦寺
②中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)
③石山寺(いしやまでら)
正解は『中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)』
中尊寺金色堂は、岩手県平泉町にある中尊寺の建造物の一つで、平安時代末期の1124年に奥州藤原氏初代・藤原清衡(きよひら)によって建立されました。堂の内外が金箔で覆われていることからこの名で呼ばれ、内部は螺鈿(らでん)や蒔絵(まきえ)などで豪華に装飾されています。奥州藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)のミイラ化した遺体と、四代泰衡(やすひら)の首級が納められています。平安末期の東北地方の豊かな文化と藤原氏の権勢を今に伝えています。(※時代は平安末期だが鎌倉時代との繋がりで出題)
源頼朝に追われた源義経をかくまったことで知られる、奥州藤原氏の第3代当主は誰でしょう?
①藤原清衡
②藤原基衡(ふじわらのもとひら)
③藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
正解は『藤原秀衡(ふじわらのひでひら)』
藤原秀衡は、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物です。彼は、源頼朝と対立して追われる身となった源義経を、頼朝からの圧力にも屈せず、平泉に迎え入れて保護しました。しかし、秀衡の死後、子の泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に耐えきれず、義経を衣川館(ころもがわのたち)で自害に追い込みました。その後、奥州藤原氏は頼朝によって滅ぼされました。(※時代は平安末期~鎌倉初期)
鎌倉時代、武士の間で盛んに行われた、馬に乗って走りながら鏑矢(かぶらや)で的を射る武芸・儀式を何というでしょう? 鶴岡八幡宮などで現在も行われています。
①流鏑馬(やぶさめ)
②犬追物(いぬおうもの)
③笠懸(かさがけ)
正解は『流鏑馬(やぶさめ)』
流鏑馬は、日本の伝統的な騎射(きしゃ、馬に乗って弓を射ること)の技術・儀式の一つです。疾走する馬上から、鏑矢(先端に音の出る仕掛けが付いた矢)で、馬場の左右に立てられた三つの的を連続して射抜きます。鎌倉時代には、武士の武芸鍛錬として、また神社への奉納行事として盛んに行われました。鶴岡八幡宮(鎌倉)や下鴨神社(京都)などで、現在も神事として行われています。
鎌倉時代に始まった芸能で、滑稽(こっけい)な物まねや、社会風刺などを内容とする、庶民に人気のあった演劇を何というでしょう? 後の能や狂言のもとになったとも言われます。
①田楽(でんがく)
②猿楽(さるがく)
③歌舞伎(かぶき)
正解は『猿楽(さるがく)』
猿楽は、平安時代に大陸から伝わった散楽(さんがく、曲芸や奇術、物まねなど)が、日本の古来の芸能と結びついて発展したものです。鎌倉時代には、滑稽な物まね芸(後の狂言につながる)や、歌舞を伴う劇(後の能につながる)など、多様な形態を含んでいました。寺社の祭礼などで演じられ、武士や庶民の間で広く楽しまれました。
鎌倉時代の農業で、作物の生育を助けるために、草木を燃やした灰(草木灰:そうもくばい)や、刈り取った草(刈敷:かりしき)、人間の糞尿(下肥:しもごえ)などが使われるようになりました。これらを総称して何というでしょう?
①農薬
②肥料(ひりょう)
③農具
正解は『肥料(ひりょう)』
肥料は、作物の生育に必要な栄養分を補給するために、田畑に施す物質のことです。鎌倉時代には、草木灰(灰はアルカリ性で土壌改良効果もある)や、刈った草や木の葉を発酵させた刈敷、人間の糞尿を発酵させた下肥などが、経験的に肥料として有効であることが知られ、利用されるようになりました。肥料の使用は、土地の生産力を維持・向上させ、二毛作などの集約的な農業を可能にする上で重要でした。
鎌倉時代の職人や商人たちが、自分たちの営業上の利益や権利を守るために結成した同業者組合を何というでしょう? 寺社や公家を本所(ほんじょ、保護者)とすることがありました。
①株仲間
②座(ざ)
③五人組
正解は『座(ざ)』
座は、平安時代後期から室町時代にかけて、同じ種類の商品を生産・販売する手工業者や商人たちが結成した同業組合です。彼らは、寺社や公家などの権力者に金銭や物品(座役:ざやく)を納める見返りに、その保護(本所)を受け、特定の地域や市場での営業独占権や、関銭(せきせん、通行税)の免除などの特権を得ました。座の結成は、商工業の発展を促した一方で、自由な競争を妨げる側面もありました。
鎌倉時代に、高利貸し(こうりがし)を営む業者のことを特に何と呼んだでしょう? 借金の担保として土地を取り上げることもありました。
①問屋(といや)
②酒屋(さかや)
③借上(かしあげ)
正解は『借上(かしあげ)』
借上は、鎌倉時代に活動した高利貸し金融業者のことです。彼らは、主に宋銭などの貨幣を、高い利子を付けて武士や庶民、荘園領主などに貸し付けました。返済が滞ると、担保としていた土地などを取り上げることもあり、御家人の困窮の一因ともなりました。一方で、貨幣経済の浸透に大きな役割を果たした存在でもありました。酒屋や土倉(どそう、質屋)などが兼業することも多かったです。
鎌倉時代の終わり頃、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、関係者が処罰された事件が二度ありました。それぞれ何というでしょう?(順番に)
①正中の変・元弘の変
②保元の乱・平治の乱
③応仁の乱・明応の政変
正解は『正中の変・元弘の変』
後醍醐天皇は、天皇親政の復活と鎌倉幕府打倒を目指し、二度にわたって倒幕計画を企てました。 * 正中の変(しょうちゅうのへん、1324年): 最初の倒幕計画が事前に幕府に発覚し、側近の日野資朝(ひのすけとも)らが処罰されましたが、後醍醐天皇自身は処罰を免れました。 * 元弘の変(げんこうのへん、1331年): 再び倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は笠置山(かさぎやま)で挙兵しましたが敗れ、隠岐(おき)に流されました。しかし、この事件をきっかけに、楠木正成や足利尊氏、新田義貞らが各地で挙兵し、鎌倉幕府滅亡へと繋がっていきます。
法然が開いた浄土宗の教えで、他の難しい修行(難行:なんぎょう)を捨て、ひたすら念仏を唱えること(易行:いぎょう)を選び取ることを何というでしょう?
①選択本願念仏(せんちゃくほんがんねんぶつ)
②悪人正機(あくにんしょうき)
③只管打坐(しかんたざ)
正解は『選択本願念仏(せんちゃくほんがんねんぶつ)』
選択本願念仏は、浄土宗の開祖・法然の教えの中心概念です。阿弥陀仏が、すべての人々を救うために立てた誓い(本願)の中でも、特に念仏(南無阿弥陀仏と唱えること)によって往生させるという誓い(第十八願)を選び取り(選択)、それ以外の修行(諸行)を捨てて、ひたすら念仏を実践すべきであるという教えです。法然の主著『選択本願念仏集』で詳しく説かれています。
鎌倉時代の建築様式で、禅宗寺院の建築に取り入れられた、中国(宋)の様式を何というでしょう? 合理的な構造や、細かな装飾(組物など)が特徴です。
①和様(わよう)
②大仏様(だいぶつよう、天竺様)
③禅宗様(ぜんしゅうよう、唐様:からよう)
正解は『禅宗様(ぜんしゅうよう、唐様:からよう)』
禅宗様(唐様とも)は、鎌倉時代に禅宗とともに中国(南宋)から伝わった建築様式です。柱が細く、柱の上に複雑な組物(斗栱:ときょう)を重ねて軒(のき)を支える構造や、扉に桟(さん)を入れた桟唐戸(さんからど)、曲線的な形の窓(火灯窓:かとうまど)、土間(床を張らない)などが特徴です。円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん、神奈川県)などが代表例です。合理的で装飾的なデザインが武士の好みに合いました。
鎌倉時代の建築様式で、東大寺の再建に際して、重源(ちょうげん)という僧侶が中国(南宋)から取り入れた、太い柱を貫(ぬき)という水平材で繋ぎ、天井を張らずに屋根裏の構造を見せる、雄大で力強い様式を何というでしょう? 東大寺南大門が代表例です。
①和様
②大仏様(だいぶつよう、天竺様:てんじくよう)
③禅宗様
正解は『大仏様(だいぶつよう、天竺様:てんじくよう)』
大仏様(天竺様とも)は、鎌倉時代初期に、東大寺の再建を指導した僧・重源が、中国(南宋)の福建省あたりの建築様式を学んで取り入れたものです。柱と柱の間に貫(水平材)を何段も通して構造を強化し、柱の上に直接組物を置く(挿肘木:さしひじき)、天井を張らずに小屋組(屋根裏の構造)を見せる(化粧屋根裏)などの特徴があります。東大寺南大門や浄土寺浄土堂(じょうどじじょうどどう、兵庫県)が代表的な遺構で、構造的で豪放な印象を与えます。
鎌倉時代の説話集(せつわしゅう)で、仏教的な逸話や、武士・庶民の生活、動植物に関する話など、様々な短い物語を集めたものは何でしょう? 『今は昔、…』で始まる話が多いことで知られます。
①今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)
②宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)
③古今著聞集(ここんちょもんじゅう)
正解は『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』
宇治拾遺物語は、鎌倉時代初期に成立したとされる説話集です。平安時代の『今昔物語集』などから話を取捨選択し、さらに新しい話も加えて編纂されたと考えられています。内容は、仏教説話、貴族や武士の逸話、庶民の滑稽な話、動物や妖怪の話など多岐にわたり、生き生きとした描写とユーモアが特徴です。鎌倉時代の社会や人々の考え方を知る上で貴重な資料となっています。(※『今昔物語集』は平安後期成立だが比較対象として選択肢に追加)
鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て始まった、京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が対立した約60年間の動乱期を何時代というでしょう?
①戦国時代
②南北朝時代
③室町時代
正解は『南北朝時代』
南北朝時代は、1336年に後醍醐天皇が吉野で南朝を開き、足利尊氏が京都に北朝を立ててから、1392年に3代将軍・足利義満(よしみつ)によって両朝が合一されるまでの約60年間を指します。この間、全国の武士は南北どちらかの朝廷に味方して争い、社会は大きく混乱しました。この動乱の中から、室町幕府の支配体制が次第に確立されていきます。
元寇の後、御家人たちの生活が苦しくなった背景として、土地の分割相続によって領地が細かくなっていったことが挙げられます。この相続方法を何というでしょう?
①単独相続(長子相続)
②分割相続(ぶんかつそうぞく)
③均分相続
正解は『分割相続(ぶんかつそうぞく)』
分割相続は、親の財産(主に土地)を、複数の子供たちで分けて相続する方法です。鎌倉時代の武士社会では、女子にも相続権が認められるなど、比較的分割相続が一般的でした。しかし、代を重ねるごとに一族の領地が細分化され、個々の御家人の経済力は低下していきました。これが、元寇の戦費負担などと相まって、御家人の困窮を招く一因となりました。鎌倉末期から室町時代にかけて、次第に長男が全ての財産を継ぐ単独相続(嫡子単独相続)へと移行していきます。
鎌倉時代、幕府や荘園領主の支配に抵抗した「悪党」の活動が活発になった地域は、主に日本のどの地方でしょう?
①東北地方
②関東地方
③畿内(近畿地方)とその周辺
正解は『畿内(近畿地方)とその周辺』
悪党の活動は、特に畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)とその周辺地域(伊賀、伊勢、近江など)で活発でした。この地域は、古くからの荘園が多く、支配関係が複雑であったこと、京都に近く商品経済が発達していたこと、交通の要衝であったことなどが、既存の秩序に従わない新しい勢力である悪党が登場しやすい背景となりました。楠木正成もこの地域の出身とされています。
鎌倉幕府の将軍は、源氏が3代で途絶えた後、誰が将軍として迎えられることが多かったでしょう?(執権政治期)
①北条氏の一族
②皇族(親王)や摂関家の子弟
③有力御家人の代表
正解は『皇族(親王)や摂関家の子弟』
源氏の将軍が3代実朝で途絶えた後、執権・北条氏は、幕府の権威を保つために、京都の公家である摂関家(せっかんけ、藤原氏)から幼い子弟(藤原頼経など)を迎えて将軍としました(摂家将軍:せっけしょうぐん)。その後、摂家将軍も幕府内で独自の動きを見せ始めると、北条氏はこれを追放し、代わりに皇族(天皇の子である親王:しんのう)を将軍として迎えるようになりました(宮将軍:みやしょうぐん)。いずれも、実権は執権北条氏が握っていました。
『平家物語』などを語り伝える際に用いられた、弦楽器の一種は何でしょう? 盲目の僧侶などが演奏しながら語りました。
①琴(こと)
②三味線(しゃみせん)
③琵琶(びわ)
正解は『琵琶(びわ)』
琵琶は、古代にアジア大陸から伝わったとされる弦楽器です。鎌倉時代には、盲目の僧侶(琵琶法師)が、この琵琶を弾きながら『平家物語』などの軍記物語を語り聞かせる「平曲(へいきょく)」が広く行われました。琵琶の物悲しい音色は、物語の無常観や登場人物の心情を表現するのに効果的で、多くの人々の心を打ちました。